
水無月のお散歩
「……やんだか」
オレは窓辺に立ちながら、ガラスの向こうを眺めていた。
さっきまで重く垂れていた厚い雲は徐々に晴れ、隙間から太陽の光が差し始めている。
終わる事が無いように降り続いていた雨が、ようやくやんだ。
……まったく、面白いものだな。
人間界は6月。
『梅雨』という時期を迎えているらしい。
いわゆる雨季の事を言うのだろう。
オレが住んでいた魔界には、人間界の……特にここ『日本』という国で四季と呼ばれるものがない。
地域に寄って異なるが、基本的には一年を通して温度や湿度は一定だ。
天候が崩れることはあるが、ここまで集中的なものではない。
だから、季節と言う物がない。
しかし人間界に来てから、月日が経つと景色が変わっていくのだ。
葉が茂り、青さを増し、紅く色づき、枯れていく。
花が咲き、海が眩しく、木の実が落ち、雪が白く積もる。
実に面白いものだ。
ふと、知らない間に笑みを浮かべていることに気付いた。
同時に、ガラスに映る自分の姿を見て気落ちする。
何とも情けない事だが、オレの身長はとんでもなく縮んでしまった。
比奈曰く『ミニ王子』の状態だ。
……それも仕方ない。
比奈の家に身を置いている時の、約束だからな。
男たる者、約束は決して違えないものなのだ。
うむ。我ながら素晴らしい。
世の男達も、オレを見習うべきなのだと思えてならないな。
「おーじ!」
不意に、下の方からオレを呼ぶ声が聞こえた。
どこか舌っ足らずな、無邪気な声だ。
オレは声の主を見下ろすと、片眉を上げた。
「どうした、ハリー?」
「何が見えるの? ボクも見たいよ!」
「お前じゃ、届かんだろう」
ハリーは小さな体を精一杯伸ばしているが、到底オレが立っている窓には届かない。
それでもハリーは、長い胴と短い脚で必死にもがいているが……。
確かハリーの犬種は、ミニチュアダックスフントと言うらしい。
少々長めでチョコレート色の毛色をしている。
瞳は黒く、好奇心に輝いている。
確か、比奈が高校入学のお祝いとして、両親からプレゼントされたと聞いた。
現在2歳だが、人間にすると14歳に相当するという。
だが、生後たった2年だ。
オレから見れば、まだまだ子供だ。
オレの大事な指輪をくわえて走り去るだけではなく、オレを土の中に埋めようとしたという悪行をやってのけたのも、今ではいい思い出だな。
その事については、ハリーは『だって宝物を見つけたと思ったんだもん』と言っている。(詳しくは『愛玩王子』を読んでくれ)。
……勘弁してほしい。
まぁいい。過去の事だ。
オレは、昔の事をいつまでも引きずる様なうじうじした男ではないからな。
オレが感慨にふけっていると、ハリーはその場で何度も飛び跳ねた。
「雨は? やんだの? やんだの?」
「あぁ。今し方、上がったようだぞ」
「散歩~! 散歩行く! ずっと雨降ってたから散歩に行けなかったんだもん! ひなちゃんが『雨やんだら散歩行こうね』って言ってたもん!」
必死に語ると、ハリーは部屋の中をグルグルと駆け回りだした。
仕方あるまい。
何日も家にこもったままだったからな。
ストレスも溜まるだろう。
「わかったから、落ち着け」
「早く早く! ひなちゃんの所に行こうよ! おーじ、ボクの背中に乗ってよ。ひなちゃん、下にいるから!」
「うむ」
オレは頷くと、こちらに背を向けて待っているハリーの背中に飛び降りた。
端から見れば滑稽な姿だと思われるだろうが、これもいわゆる生活の知恵なのだ。
オレだけでは、この部屋から1階へ下りる階段は、とてつもなく大きな障害なのだ。
半端では無い。
しかしハリーは、背中に乗るオレの事などお構いなしに階段を駆け下りる。
オレを振り落とさんばかりの勢いだが、ここはハリーの毛を握って耐える。
この絶妙なバランス感覚、先の行動を読む洞察力。
ハリーを乗りこなすのには、意外と高度なテクニックが必要だという事は、誰も知るまい。
それもこれも、様々な騎獣を操ってきたオレの努力の賜物なのだ。
「おーじ、大丈夫? 落ちてない?」
「うむ。心配はいらん」
「は~い。ひなちゃんの匂い、台所からするから行ってみるね」
「うむ」
この抜群のチームワーク。
オレ達が今まで培ってきた絆の証だな。
「おーじ。痛いから、耳の毛は引っ張らないでってこの前も言った~」
「……すまん」
まだまだ、改善の余地はありそうだがな……。
オレを背に乗せたまま、ハリーは爪音を立てて軽快に歩いていく。
比奈の料理の腕は、魔界の宮廷料理人並いやそれ以上なのだ。
リビングの奥にある台所、そこが比奈の居城だ。
城の主は今、何やら熱心に作業中だ。
……何をしているかは、ここからはまったく把握できないが。
しかしハリーの足音に気が付いたのか、比奈が振り返る。
比奈は栗色の髪を舞わせて、同じ色の瞳を動かした。
「あれ? どうしたの2人とも」
「何をしているんだ?」
「今ね、梅酒作ってるの」
「梅酒?」
「うん。リキュールって言うか、果実酒って言うの? おじいちゃんが青梅をたくさん送ってくれたからさ。おじいちゃんの家の庭に、梅の木があるのよ。それを収穫して毎年この時期に送ってくれるの」
「果実酒……酒か? お前、酒飲めないだろう?」
「飲むのはパパとママだよ。あたしもお湯とか水で割ったりして飲む時もあるけど……ちょっとだけね。後は料理にも使ったりしてるよ」
「ほぉ……」
そう言えば先日、比奈宛てに何やら小包が届いていたな。
その中身が青梅だった訳か。
比奈は嬉しそうに頷きながら、オレに向かって手を差し出した。
「見る?」
「うむ。せっかくだ。見学させてもらおう」
オレは差し出された手の平に飛び移った。
比奈は慎重に、台所の作業台へとオレを運んでくれる。
「あ~! ズルイ~! おーじだけズルイ~! ボクも! ひなちゃん、ボクも!」
オレだけ贔屓されたのが気に障ったのだろう。
ハリーが比奈の足下に飛びかかり始めた。
「あ~ハリーはダメだよ。さすがにここには乗せてあげられないから……そうだ! ジャーキー食べる?」
ハリーの駄々にも、比奈は笑顔で応じる。
この辺りはさすがに慣れているな。
比奈は戸棚から干し肉の様な物を取り出すと、小さくちぎってハリーの鼻先に向けた。
「ジャーキー!」
当然、ハリーはちぎれんばかりの勢いで激しく尻尾を振り、大喜びで食べ始めた。
それを見届けた比奈は『しばらく大丈夫かな?』と呟くと、作業を再開した。
台の上を見渡してみると、ガラス製のボウルの中に緑色の丸い果実が山の様に積んであった。
「これが青梅か?」
「うん、そうだよ。これは水洗いして水気をきって、ヘタを外したの」
「ほぉ」
「で、これを保存容器に入れて……」
比奈は説明をしながら、広口の大きな瓶に青梅を移していく。
「それから、氷砂糖を入れて……ホワイトリカーを注いで……。あれ? ホワイトリカーってどれくらい入れるんだっけ?」
比奈はキョロキョロと何かを探している。
すると、目的の物が見つかった様で、瓶の横に置いてあった小さなノートを取り上げた。
「えっとホワイトリカーは……1.8リットルだ」
確かめるように何度か頷くと、比奈は紙パックに入った透明な液体を、瓶にゆっくりと注ぎ始めた。
特に意識はしていなかったのか、オレの前に小さなノートを置いた。
何となく覗いてみると、随分と年季が入った物らしい。
すでに紙は日に焼けて黄ばんでいて、所々に切れ目や折り目が入っている。
黒いインクが薄れてしまったのか、すでに茶色く変色した達筆な文字が紙面を埋めている。
内容を見る限り、どうやらレシピの様だが……。
「……これは比奈の字じゃないな」
「うん。これはおばあちゃん直筆のオリジナルレシピ手帳なの。青梅を送ってくれたおじいちゃんの奥さんなんだけど、凄く料理が上手だったの」
「だった?」
「あぁ~。おばあちゃんはもう亡くなっちゃったんだけどね。小さい時からおじいちゃんやおばあちゃんに可愛がってもらってたの。あたしも2人が大好きで……昼間はおじいちゃんに遊んでもらって、夕方はおばあちゃんと料理をするの。だから、おじいちゃんがレシピ手帳を『形見だからもらっておきなさい』って渡してくれたのよ。おばあちゃんは毎年この時期に梅酒を作ってたから、あたしはそれを真似してるだけ」
静かに笑いながら、比奈は瓶の蓋を閉めている。
「お前は祖母の味を引き継いでいるのだな」
「ん~そんなに大層なもんじゃないよ。ただ、このレシピを見ながら料理してきたから、やっぱりおばあちゃんの味に近くなってるみたい。よくパパから『おばあちゃんと同じ味がするね』って言われるから。あたしが作ると和食が多くなっちゃうのは、おばあちゃんに影響されてるからかもしれないけど」
懐かしむように目を細めた後、比奈は蓋を閉めた瓶を台所の棚の中にゆっくりとしまった。
そして、ふとオレを見下ろしたのだった。
「数年ものの梅酒があるよ。王子、味見してみる?」
「いいのか?」
「うん」
比奈は嬉しそうに頷くと、棚の奥からさっきと同じような瓶を取り出した。
瓶の中にはたくさんの梅が沈んでいて、液体は茶色くなっていた。
よく漬かっているのだろうな。
しかしだいぶ飲んだのか、量はあまり残っていない。
「あんまりたくさんは酔っちゃうから、少しね。お猪口に入れたらいいかな?」
比奈は小さな杯に、梅酒をゆっくりと注いでいく。
器の半分ほどを液体が埋めると、その杯をオレに差し出した。
「はい、どうぞ。酔っ払わないでね。大丈夫? 水で割った方がいいかな?」
「オレを子供扱いするのはやめろ。酒の席に呼ばれる事だってあるんだぞ」
「あ、そっか」
解っているのかいないのか、比奈はニコニコと笑いながらオレの様子を眺めている。
まぁせっかくだ、いただくとしよう。
両手で杯を持って傾ける。
口に含むと、品の良い香りが鼻から抜け、甘く深い味が広がった。
ふむ……これが梅酒か。
「どう? 美味しい?」
「うむ。美味だ。香りが良いな」
そう言うと、比奈は満面の笑みを浮かべた。
「それはね、おばあちゃんが最後に作った梅酒なの」
微笑みながら語る言葉に、オレはさすがに目を丸くした。
「……貴重な物だろう。オレが飲んでいいのか?」
「うん。せっかくだから、王子に飲んで欲しかったの。美味しいでしょ? あたしの自慢のおばあちゃんの味だよ~」
どこか得意そうに言うと、オレが梅酒を飲み終わるのをずっと笑顔で眺めていた。
……なんだか、悪いことをしたな……。
「とても美味であった」
オレはどこかバツが悪い気持ちを感じながら、比奈に杯を返した。
両手でそっと杯を押すと、比奈は無邪気に微笑んでそれを受け取った。
「ひなちゃん! 散歩に行こう! 散歩ーっ!」
突然、下の方から元気な声が聞こえてくる。
好物を食べきってしまったのか、相変わらずハリーは比奈の足下で何度も跳ねていた。
「なに、ハリー? どうしたの?」
「散歩に行きたいらしいぞ。雨もあがったからな」
「ホント? じゃ、準備してくるね」
比奈は手早く台所を片付けると、別の戸棚の引き出しに手帳を丁寧にしまった。
そして、散歩の準備をする為に2階へ向かっていく。
「さて……」
比奈の後ろ姿を見送ると、オレは床へ飛び降りる。
ハリーの散歩には、オレも同行しているのだ。
今日も、いつもの様に元の姿にもど……。
「ズルイ!」
不意に、ハリーが叫び出す。
「……何がズルイんだ?」
ちらりと振り向いてみると、ハリーはムッと眉間に皺を寄せている。
「いつもおーじばっかり、ひなちゃんの傍にいてズルイ! 大きくなってズルイ!」
「大きくなるのではなくて、元の姿に戻るんだ」
「ヤダ! ボクだってひなちゃんの事、大好きだもん。ボクだって、ひなちゃんを守るんだもん!」
鼻息も荒く、ハリーは興奮気味に毛を逆立てている。
言ってる事は、正直『子供のワガママ』レベルだ。
だが、子供とは言えハリーも男だな。
オレに対して、立派に嫉妬心を燃やしている訳だ。
しかし、そんなワガママをいちいち聞いていたらキリがない。
オレはハリーの熱弁を無視して、元の姿に戻ろうと……。
「ダメー!」
「なぁっ!」
何を思ったか、ハリーは前脚でオレを踏みつけてきた。
「ダメったらダメ!」
「やめろ……っ! 体格差を考えろっ!」
「じゃ、今日は大きくならない?」
「それとこれとは、別の話で……ぐふっ」
ハリーは徐々に体重をかけてくる。
ちょっと待ってくれっ!
これは明らかに虐待だろ!
「ハリー!」
「大きくならない?」
「…………」
「おーじ?」
「……わかった。わかったから……」
「やった!」
ハリーはご機嫌で尻尾を振ると、玄関に向かって走って行ってしまった。
このオレともあろう者が、こんな子供にいいようにされるとは。
……いや、違うな。
子供のワガママをも許容できる、オレの器の大きさだろう。
きっとそうだ。そうに違いない。
オレは独り言の様に呟くと、渋々と猫に姿を変え、ハリーの後を追った。
そこへ、2階から降りてきた比奈と鉢合わせる。
比奈はオレの姿を見て、小さく首を傾げた。
「あれ? 今日は、黒猫王子なの?」
「……まぁな」
「ふぅん。まぁ、あたしは大きい王子より猫の方が好きだけどね~」
「言ってろ」
オレがフンと鼻を鳴らしていると、比奈は手早くハリーの首輪にリードを繋いだ。
「じゃ、行こうか」
比奈は笑顔で、玄関の扉を開けた。
外へ出ると、湿ったアスファルトが黒々と広がっていた。
そよぐ風には湿気が混じり、雨上がり特有の香りがする。
数日ぶりの外出だからなのか、ハリーはズンズンと歩いていく。
小さな体で、比奈を引きずるくらいの勢いだ。
「ハリー、どうしたの? 今日は元気だね~」
比奈はほのぼのと笑顔を浮かべるが、実際はそんなにのんびりとした雰囲気ではない。
ハリーは鼻息も荒く、忙しく周囲を見渡す。
「ひなちゃんはボクが守るからね! 安心してね!」
比奈に伝わらない辺りが報われないが……仕方あるまい。
呑気な姫君と、使命感に燃える若い騎士といった感じかな。
平和な光景に、オレは密かに笑いを噛み殺してしまう。
すると、オレの胸元でチャリッと金属がこすれる音がした。
ちらりと見やると、銀色のクラウンのネックレスが揺れている。
……そういえば、コレもそうだな。
魔界でパーティに出る直前、オレの胸元が寂しいのを気にした比奈が、自分が身につけていたクラウンのネックレスを着けてくれたのだ。(詳しくは再び『愛玩王子』を読んでくれ。)
そしてオレは先ほどの、梅酒の事を思い出す。
どうも比奈は、あまり『モノ』には執着しないらしい。
……少し違うな。
自分が大切にしているモノでも、相手が喜んでくれれば何の躊躇もなく差し出してしまうのだろう。
見返りを求めずに、無償の提供ができる者は稀だと思う。
特にオレの周囲は、欲にまみれた輩が多かったから、特にそう感じるのだろう。
比奈の場合、そこが良いところであり……同時に危ういところでもあるわけだ。
お人好しが過ぎるから、いつか誰かにつけ込まれやしないか心配だ。
それは、オレが傍にいて気を配るべき事なのだろうな。
うむ。やはりオレが居なければダメなのだろう。
常に真摯に、温かく見守ってやらねばな。
「どうしたの、王子? 尻尾とおヒゲがぴーんってなってるよ?」
「むっ? なんでもないっ」
「そう?」
……オレとした事が、少々張り切りすぎてしまったらしい。
いかんな。王族たる者、常に冷静でいなくては。
すると突然、比奈が横道に入っていく。
おかしいな……いつもの散歩コースではないぞ。
「どこへ行くんだ?」
比奈を見上げると、彼女は含むように笑った。
「あのね、こっちに行くとお寺があるの。そこに紫陽花がいっぱい咲いてるんだ。きっと、見頃だと思うよ」
『紫陽花寺って呼んでるんだ~』と言いながら、比奈は楽しそうに歩いていく。
アジサイ……咲く? なんだ? ……花か?
聞き慣れない名前に、オレは内心首を傾げる。
しかし程なくして『紫陽花寺』に到着した。
雨に濡れた石階段を上がっていくと、古い建築物にたどり着いた。
瓦を敷き詰めた屋根からは、まだ雨水がしたたり落ちている。
なにやら趣があるな。
ふむ。ここが『紫陽花寺』か。
『寺』……まぁ、『神殿』の事だろうな。
確か、本来は仏教の儀式を行う施設の事だったか。
「おう、チビ助一行じゃねぇか」
と、そこに聞き覚えのある野太い声がかかった。
振り返ってみると、濃い虎縞模様の巨大猫がノッシノッシと歩いてくる。
セバスチャンか……。
そういえば、幼なじみのアルトリート王子が魔界からこちらに来た時は世話になったな。
小さな瑠璃色の卵を捜索する為に、街中の猫を総動員して……うむ、何やら懐かしい。帰ったら『瑠璃色の卵』を読み返してみるか。
アルも無事に結婚し、少しは落ち着いたのかと思えば、早速エスティリーナ嬢に尻に敷かれているらしい。
時折、思い出したように手紙が送られてくるが、9割は毒舌まみれのノロケ話だ。
問答無用で破り捨てることにしている。
あれからセバスチャンを見る度に、比奈は嬉しそうに声をかけ、相変わらず豪華な食事を提供している様だ。
魔法の効力は切れ言葉は通じないが、意志の疎通は出来ているらしい。
「チビ助よ、元気でやってるか?」
「チビ助と言うな」
「アレだなぁ。雨上がりに出歩くもんじゃねぇな。手が濡れていけねぇや」
……聞いていないな。
セバスチャンはオレの言葉など聞き流すと、脚をプルプルと震わせ、時折舐めたりしている。
そういえば、水が苦手な猫は多いようだな。
「あ、セバスチャン。元気~?」
巨体のセバスチャンにさすがに気付いたのか、比奈は嬉しそうに声をかけている。
セバスチャンも尻尾を振って応えると、ヒゲをそよがせた。
「おうよ。オレ様はいつも元気だぜ。お嬢ちゃんも元気そうだな。足下気を付けな。滑りやすいからよ」
「え、なに? お腹空いたの? ハリーのジャーキーあるから食べる?」
「……いや、そうじゃねぇよ」
「ちょっと待ってね。すぐ出すから」
「………いやいや」
……訂正しよう。
意志の疎通はまだまだの様だ。
比奈は鞄の中をなにやら探している。
そして、先ほどハリーに食べさせた干し肉の様な物を取り出すと、セバスチャンに差し出した。
「はい。どうぞ」
「ま、もらえるんならもらっておくけどよ」
『仕方ない』と言いたそうに呟くが、まんざらではないのは明らかだ。
「……だから太るんだな」
「うるせぇな。コレがオレのチャームポイントなんだよ」
オレにひとしきり怒鳴った後、セバスチャンはあっという間に干し肉を平らげてしまった。
するとそこへ、ハリーが目を丸くして近づいてきた。
珍しいのだろうな。
ほとんど家の中で生活しているのだから、他の動物と遭遇する機会はあまりないだろう。
口の周りを前脚で撫でながら、セバスチャンはハリーをちらりと見やった。
「お前さん、お嬢ちゃんとこの坊主だろ? いい毛並みしてんなぁ。血統書付きってヤツか?」
あどけない様子に『まだまだおコちゃまだな~』と豪快に笑っているセバスチャンに、ハリーはそっと鼻先を近づける。
「……おじちゃん、くさ~い」
「おじちゃんって言うなや! これが野生の匂いだよ! ワイルドな証拠なんだよ!」
「ふぅん」
「あ、良かったね、ハリー。お友達ができたね」
「おおいっ! よく見ろよ、お嬢ちゃん! 『臭い』とか言われてるんだぜっ? ちゃんと躾けろよ!」
「え、なに? セバスチャンもハリーと仲良くしてくれて、ありがとね~」
「全く通じてねぇよ! おい、チビ助! 通訳しろや!」
「嫌だ」
「セバスチャン、まだジャーキー食べる?」
「オレの言いたい事はそっちじゃねぇよ! いや、もらえるんならもらっておくけども! ご馳走様だけども! 言いたい事はそっちじゃねぇんだよ!」
「おじちゃん、ジャーキー食べないんだったら、ボクがもらってもいい?」
「いかーんっ! それとおじちゃんはやめろっ!」
……まったく、賑やかな事だ。
双方の言葉が分かるオレだけが、唯一この状況が理解できる訳だが……。
……笑いを堪えるのが精一杯だ……。
思わず肩を震わせてしまう。
一通りのやり取りを楽しんだ後、オレは比奈を見上げた。
「アジサイとやらを見に来たんじゃないのか?」
「あ、そうだった。セバスチャンも行く?」
比奈が小首を傾げて問えば、セバスチャンは『しょうがねぇなぁ』と呟いた。
……顔はまんざらでもない様子だがな。
『紫陽花寺』と呼ばれるだけあって、寺の敷地内には紫色をした花が咲き乱れている。
……これが紫陽花なのだろう……きっと。
「わぁ……綺麗だね」
比奈は目を輝かせると、花の1つに顔を寄せた。
この年くらいの娘は、やはり花が好きなのだろうな。
比奈の嬉しそうな顔を見ていると、思わずつられてしまいそうになる。
光沢のある大きめの葉には、まだ雨の雫が溜まっている。
時折、葉が頷くように揺れると雫が落ちる。
うむ、風情があるな。
「む?」
視線を流すと、紫一色に見えた花の色が赤味を帯びていた。
更に見渡すと、水色、青、赤紫と微妙に色が違う。
ふむ……複数の色を持つ品種なのだろうか?
「どうしたの、王子?」
「うむ」
オレが猫の手を掲げて説明をすると、比奈は僅かに視線を泳がせた。
「あ、確か土の性質で花の色が変わるんだよ。酸性だったら青くなって、アルカリ性だったら赤くなるんじゃなかったかな?」
「そうなのか? しかし、これは1つの株に咲いているようだが、全て色が違うぞ?」
「あれ?」
比奈が小さく首を傾げる。
オレの目の前にある紫陽花は、大本は一本の茎から派生している。
枝分かれした先から葉や花が伸びているのだが、1つ1つの花の色が微かに違うのだ。
不思議に思い目を細めていると、隣でセバスチャンが低く唸った。
「土壌の酸性度っつーのは、花の色を決める要因の1つに過ぎねぇんだよ。それに、紫陽花は咲き始めと咲き終わりで、また色が変わってくるしな。だから、こうやって花の色がバラバラになるんだ」
「そうなのか。博識だな」
「おうよ。伊達に長生きしてないぜ」
大口を開けて『ガッハッハ』と笑うセバスチャンを横目に、オレは比奈にも説明する。
「あ~そうなんだぁ」
納得顔で頷くと、比奈は紫陽花に携帯電話をかざし始める。
『写メ』とやらか……。
……オレは機械はよくわからんが、比奈はこの『写メ』が好きらしい。
「いや~っ!」
突然ハリーの悲鳴が上がる。
驚いて見てみると、尻尾を丸めたハリーが首を振ってその場に座り込んでしまった。
「ハリー、どうしたんだ?」
問うと、ハリーは目を潤ませてオレを眺めた。
「なんかいる~」
「何かいる? なんだ?」
しかしオレが『何か』を見つけるよりも先に、比奈がその『何か』をつまみ上げたのだった。
「カタツムリだね~」
比奈はニコニコと手元を覗き込んでいる。
何やら巻き貝の様だが……。
丸い殻から出ている体が、うねうねと動いて何やら不気味だ。
うねうねと動いて、それが段々とオレの目の前に迫ってきて、うねうねと……。
「はい、王子。カタツムリ」
「やめろっ! 気色悪いものを近づけるな!」
「あれ? 嫌なの? じゃ、セバスチャンは?」
「こっちに持ってくんなよ! ダメなんだよ、そういうの!」
セバスチャンは叫びながら、背中の毛を逆立てた。
それを見て、さすがに不評だったのが分かったらしく、比奈は残念そうな顔でカタツムリを元の場所に戻した。
「可愛いのになぁ~」
……わからん……女の言う『可愛い』の意味が時々わからん……。
「じゃ、紫陽花も見たしカタツムリも見たし、そろそろ帰ろうか?」
比奈はそう言ったが、セバスチャンが何故か重そうな体をゆっくりと動かした。
「セバスチャン?」
「ったく、しょうがねぇな……」
セバスチャンはブツブツと呟きながら、ちらりとオレを振り返った。
「ついてきな」
「どこへ行くのだ?」
「ジャーキーのお礼だ」
そう言うと、ノシノシと歩いて行ってしまう。
「どうしたの?」
「うむ。何やらセバスチャンが、ついて来いと言っているのだが」
「え~? なんだろ?」
意味がよく解らないまま、オレ達はただセバスチャンの後を追った。
寺の脇を通り、裏側へ回る。
すると、小さな花壇の1カ所で、セバスチャンが座り込んだ。
ニヤニヤと笑みを浮かべながら、セバスチャンは太い尻尾をゆらゆらと揺らせている。
野良猫にあるまじき巨体の影には、見慣れない花が咲いていた。
大きく開いた白い花弁の先が、薄く紫に染まっている。
中心部は黄色の班があるな。
細くて長い葉の中央には、太い葉脈がある。
「わぁ~、綺麗。この花、なに?」
花を四方から眺めながら、比奈は口を開いた。
「これは、花菖蒲って言うんだ。これも今の時期の花だぜ。この寺の主が、密かに植えてるんだよ」
自慢気に説明するが、当然、比奈には通じていない。
仕方なくオレが通訳をすると、比奈は嬉しそうに笑った。
「へぇ~、そうなんだ。知らなかったよ」
珍しそうに、比奈は花菖蒲を眺めている。
それを楽しげに見届けると、セバスチャンがゆっくりと立ち上がった。
「じゃあな。オレは帰るからよ」
「すまんな。付き合わせて」
「いいってことよ。お、そうだ」
セバスチャンは何故か、ニヤニヤとオレの顔を眺めながら声を潜めたのだった。
「知ってるか、チビ助? 花菖蒲の花言葉はな……」
セバスチャンの言葉を聞いて、オレは軽く鼻を鳴らした。
……だからどうしたのかと、言いたいがな。
「そんじゃあな。ジャーキーありがとよ」
呑気で調子外れな鼻歌を歌いながら、大きな体を左右に揺らしながらセバスチャンは歩いていく。
その後ろ姿を眺めながら、ハリーは元気に尻尾を振った。
「おじちゃん、バイバイ~」
「だから、おじちゃんって言うなやっ! よく言い聞かせとけ、チビ助!」
「嫌だ」
「ったくコレだから、若いヤツはよぉ~……」
何やらブツブツ言っているが、よく聞こえないな。
一通り『写メ』とやらが終わったのか、比奈は笑顔でこちらを振り返った。
「今度こそ帰ろうか?」
「ひなちゃん、ごはん! お腹空いた~!」
「なに~? お腹空いたの?」
珍しく会話が成立しているのを横目で見ながら、オレは花菖蒲の1つにそっと近づいた。
バランスを取って後ろ足で立ち上がると、花の1つを音を立てて口でもぎ取る。
そして勢いよく跳躍し、比奈の肩に飛び乗った。
不思議そうに目を丸くする顔を視線の端で捉えつつ、オレは花菖蒲を比奈の耳の後ろに差し込んだ。
「なに? どうしたの、王子?」
「……美しい花だからな。押し花にでもしたらいいだろう」
ボソリと呟くと、オレは地面に飛び降りる。
……猫の体も悪くないな。身が軽い。
それでも落ち着き無く尻尾を揺らせていると、後ろから比奈の声が聞こえてきた。
「ありがとう、王子」
無邪気に微笑む顔を見て、オレは思わず目元を緩ませた。
花冠を作って喜んでいた、小さな頃の比奈の顔と重なって見えたのだ。
あの頃と、なんら変わりはないな。
比奈に見えないように忍び笑いを漏らすと、オレはスタスタと歩き出した。
背後からは、ハリーの元気な声が聞こえてくる。
「ひなちゃん、どうしたの? 嬉しい事でもあったの?」
「あ、ハリー。今日もイイコだったね~。泥だらけになっちゃったから、帰ったらお風呂入ろうね~」
「うん、一緒に入る! おーじも入ろう~!」
「……オレはいい……」
「王子も洗ってあげるね~。水が跳ねて、お腹がドロドロだよ」
「…………」
……いつになったら、恥じらいと言う物を覚えるのだろうか……。
先行きが不安で仕方ない。
見事に広がった青空を仰いでいると、不意にセバスチャンの言葉が浮かんだ。
「花菖蒲の花言葉はな『うれしい知らせ』って意味があんだよ」
……オレはあまり、そういう迷信の様なものは信じない方だが……。
まぁそれでも、比奈の元にはいつも『うれしい知らせ』がだけが転がってくるのを願うのも、悪くはないだろう。









