一話(1)

「いいことアイリス。どんなに辛くてもすぐカミ頼みに走ったりしてはいけませんよ」
 気候の良いうららかな日の午後、中庭で籐の揺り椅子に腰掛けた母は、幼いアイリスによくそう言い聞かせていた。
「どうしてお母さま。カミさまはにんげんの願いを何でもかなえてくれるんでしょう?」
 母の膝にすがりついたアイリスが菫色の大きな瞳をぱっちりと開き、無邪気に尋ねる。すると母は決まって急に据わった目つきになり、きっぱりと語り始めたものだ。
「いいえそれはおとぎ話の世界の話。現実には違います。カミは進んで人間を助けたりしないわ。願いを叶えてくれるのは、人間の願望が彼らにとっての食料だからなのよ」
 小さな娘がポカンと見守る中で、母は呪詛でも唱えるかのように滔々と続ける。
「最初は優しくても満腹になれば奴らは手の平でも返したかのよーに冷たくなるの。騙されちゃダメよ。願いを叶えてやるなんて甘い言葉に釣られてホイホイ貢物をした挙句に捨てられたなんて話は腐るほどあるんだからね。お母さまのお姉さまなんてねぇ……」
 うっと喉を詰まらせ、絹のハンカチでいそいそと目尻を拭った後、母はこれも決まって背筋をピンと伸ばし、張りのある声で突然叫び始める。
「株とカミには手ぇ出さない! はいアイリス、リピートアフタミッ」
「か、カブトカミニハテーダサナー……」
 かぶ昨日の夕食で食べたけどと思いながらもアイリスは、病弱な母をこれ以上興奮させないよう、そのことには決して触れなかった。子供なりに気をつかっていたのだ。
「アイリス、お父様の治めるこのランズーカ王国は、農業で成り立ってきた国です」
 ややあって興奮を収めた母は、やがて聡明な王妃の顔を取り戻して静かに教えてくれた。
「穏やかな緑の山々、青く澄んだ河川、そして黄金の稲穂が実る肥沃な大地……これらを守り、育ててきたのはここに住むごく普通の人々です。人間にはカミのように時空を操る不思議な力は無いけれど、大切なものを守り、伝える力があるの。あなたはそうした人々を統べる王家の者として、人間の力を誇りに思わなければなりませんよ」
「にんげんのちから?」
「ええそう。カミには無い素晴らしいものよ」
 ふっと表情を和らげた母が、自分を見つめて頷いてくれる瞬間がアイリスは好きだった。
お母さまがこんなにふんわりと笑うのだから、それは本当に素晴らしいものなのだろう。
 元から体の弱かった母は結局、アイリスの物心がつく前に死んでしまったけれど、母が繰り返し教えてくれた言葉はその後もずっとアイリスの心に残り続けている。
 人間の力。カミには無い素晴らしいもの。
 あと、株とカミには手ぇ出さない。

 アイリスが十六歳を迎えたその年、ランズーカ王国は未曾有の大危機を迎えていた。
 民や王家の怠慢のせいではない。人間の努力ではどうにもならない自然の脅威というやつが突如牙をむき、王国全土に襲いかかったのだ。
収穫前の稲を食い荒らしてしまう〝田喰い虫〟の大発生――絶滅したはずの厄介な虫が謎の大復活を遂げたお陰で、農業立国のランズーカは今、大飢饉の一歩手前状態なのである。
 その関係で農村への視察に出かけていた父、即ち国王が王城へ帰ってきたとの報を聞いた途端、アイリスは部屋を飛び出していた。
「ひめさま! 待ってくださいったら、アイリス様!」
 背後で叫ぶ侍女の声にも止まらず、紫紺に艶めく長い髪を靡かせて、木や玉の薄片が象嵌された美しい回廊を怒涛の勢いで渡る。一刻も早く父王に会い、確かめたいことがあるのだ。
(侍女達が噂で話していたわ。王国内のとある商人の館にカミが滞在しているって……)
 噂によるとその商人は、願いを叶えてもらったお礼として特別な別荘にカミを招待し、言われるがまま豪勢なもてなしを提供しているらしい。
(お父様が視察に赴かれた農村は噂の別荘のすぐ近く……まさかとは思うけれど)
 侍女や下男達が噂していた。この時期にあの辺りの農村へ視察なんておかしい。王は視察と称して、実はカミに会いに行ったのではないか、と――。
 だとしたら、由々しき事態だ。
(国王がカミ頼みなんて国民に示しがつかないじゃないの!)
 亡き母が呪いをかけるがごとく「カミなんて」と毎日呟いていたのが効を奏したのか、幼い頃からアイリスには「安易にカミ頼みをしてはいけない」という思想がしっかりと根付いていた。物心ついた今では「カミ頼みなんて闇の世界の住人がすることだ」くらいに思っている。闇の世界というのがどういうものなのか、具体的には知らないが。