追憶~フォースサイド~

貴女は、たぶん、忘れてしまうでしょう。


この穏やかな日々の中、
貴女が私に、話しかけたこと。
その小さな手を差し伸べてくれたこと。

そして。

どれほど暖かな表情で、私に笑いかけてくれたか、なんて――。


   *


その部屋の中には、甘い香りが充満していた。


薔薇の芳香と、紅茶の香気が混じり合った香り。
爽やかで、しかし熟成した酒のように芳醇な香り。

なにもかもが甘く薫る。


「お代わりはいかがですか? ディア」


フォースは、優しくディア――彼の大切な姫君に向かって話しかけた。


滝のように流れる黄金の髪。空のように澄んだ青い瞳。
雪を思わせる滑らかな肌。《人形》(ドール)を思わせる秀麗な顔立ち。
明るい声は小鳥の囀りを思わせ、その言葉はさらに甘やかに響く。


だが、最近、彼女の顔はどこか浮かない。
それまで開け広げだった笑顔の代わりに、時折、ひどく深い色の目つきで考え込んでいる。
その憂いを帯びた表情は大人びて、まるで彼の知らない女性のようだ。


それも、ひどく美しい、女性。


「……なにを考えてらっしゃるのです? ディア。私の姫君」


ざわつく心を抑えながら、フォースは静かに言葉を継ぐ。
これまでは、素直な彼女の考えていることなど、手に取るようにわかった。
すべて、そのきらきらとした大きな瞳が、言葉より雄弁に彼に語りかけていたからだ。
だが、今は――。

そう思いながら、曖昧に笑みを返す彼女を見つめる。


ディア。
彼の姫君であり、仕えるべき主人であり、教え導く生徒であり、
守るべき、大切な大切な少女。
彼のすべて。


この館の近辺には、他に人間がいない。
近隣の村人たちは、皆、流行り病で亡くなってしまったのだ。
ディアが物心ついてからというもの、フォースはずっと二人だけで、
この『薔薇の館』で、彼女を守って暮らしている。
《魔術師》(ウィザード)として。
たくさんの《人形》(ドール)たちを使って。


「そんな風に物思いにふけってらっしゃると、まるで絵のようだ」
フォースは、優しげな目つきでディアを見つめる。
「なにか悩み事でも? でしたらぜひこの下僕めに教えていただきたいものですね」


「下僕、だなんて」
ディアは少しだけ唇を尖らせる。
「貴方が下僕だなんて……わたくしの教育係でありこの館の執事でしょう?」


「美しい姫君の前では、男はいかなる時も下僕ですよ」
フォースは典雅な礼を取る。
「貴女の下僕であることは、常に私の喜びです」
「フォースったら……」
ディアが、その美しい顔に苦笑を浮かべた。


そう、自分は下僕だ。
本来なら、高貴な青い血を持つ彼女の傍になど、寄れるはずもないような。


「それで? この哀れな下僕に教えてはいただけないのでしょうか?
私の姫君が、そんなに難しい顔をしておられる訳を?」
フォースは、ディアの水色の瞳をじっと見つめた。


「もし、私に出来ることでしたら、すぐにその悩みを取り去って、
晴れ晴れとしたお可愛らしい笑みを、
そのお顔に取り戻して差し上げたいのです。ディア……私の姫君」


いつでも彼女には笑っていて欲しい。
どんな時も、どんなことがあっても。

たとえ、外の世界にどれほど嵐が吹き荒れようと、
彼女だけは、全力で守り抜く。
たとえ、自分のこの身を引き替えにしても――。


「……よかったな、と思って」
不意に、ディアはそう言った。
「え?」
フォースは目を瞬(しばたた)かせる。
「なにが……よかったのですか?」

「フォース、貴方が――わたくしの執事が、貴方でいてくれて」
ディアは、満面の笑顔でそう呟いた。


その瞬間、フォースの心臓がどきり、と音を立てる。
いつもどおり、素直すぎるディアの言葉。
だが、それを素直に聞けなくなったのはいつの頃からか。


「だって……ひょっとしたら、もっと別の厳めしい男性とか、
恐そうな女性とか、そんな方がわたくしの執事かもしれなかったわけでしょう?
そう考えたら、貴方がわたくしの執事で、本当によかったなと思ったんです」


「姫君のお眼鏡に叶いまして光栄ですよ」
フォースはかすかに苦笑を浮かべた。
「私の働きぶりやこの見かけが気に入っていただけて」


舞い上がってはいけない。思い上がってはいけない。
自分はあくまでディアの――忠実な僕(しもべ)なのだから。


ところが。

「働きぶりや見かけ――なんかじゃありません」
ディアは咄嗟に言葉を返してくる。
「わたくしが、わたくしがフォースでよかったと言ったのは、
そんな表面的なことじゃなく、もっと――
貴方がわたくしに示してくださる献身的な気持ちとか……」


これ以上は、聞いていられない。
聞きたく、ない。


「過分なお褒めのお言葉、ありがとうございます」
ディアの言葉を遮るように、わざと口を挟む。


「そんなに誉めていただいても、
今日のお作法のお稽古は取りやめたりしませんからね」
冗談めかした言葉。
本心は、ディアを突き放す言葉。
それがわかったのかどうか、彼女は唇を噛んで、口を閉ざした。


傷つけたくない。
傷つけたくないのに。

フォースは拳を握る。
爪が食い込んで、肌が破れる。
だがそれ以上に。
傷ついただろう彼女の心を思う彼の心も痛かった。 


いつからだろう。
フォースが、こんな風にディアに対して距離を置かなければならなくなったのは。
巧妙に、しかし確実に、彼はディアから遠ざかろうとしている。
遠ざからなければならない。


でないと、自分は――。

「お茶が冷めてしまいましたね」
フォースは優しく笑うと、ディアの茶碗に手を伸ばした。
「入れ直しましょうか」
身を屈めた拍子に、すぐ目の前にディアの白い手が映る。


『フォース、大好き』


小さい頃から、笑いながら彼に向かって伸ばされた小さな手。
ぷくぷくした可愛らしいその手は、
いつの間にか、すっかりすんなりとして、華奢な細い手になった。


もう、手を取ることも許されない。
触れてみたい、と願うことも。


「別に、このままでいいわ」
茶碗に伸ばしたフォースの手に、ディアが優しく手を添えた。
びくり、と震えそうな身体を、必死で押さえつける。
「冷めたお茶も、好き」
「そうですか」
「……好き、なの」
「…………」


他愛ないその言葉と、柔らかな笑顔が、
どれだけ彼の心をかき乱すか、この無垢な姫君はけっして知ることがないだろう。
いや、知らせてはならないのだ。
フォースは、静かな笑みを浮かべると、ディアに向かって礼儀正しく笑いかけた。

その心を、深く深く押し込めたままで――。


   *


たぶん、貴女は忘れてしまうでしょう。

この穏やかな日々の中、
貴女が私に、話しかけたこと。
その小さな手を差し伸べてくれたこと。

そして。

どれほど暖かな表情で、私に笑いかけてくれたか、なんて――。

だが、私は忘れない。
貴女が忘れてしまったその表情を、その言葉を、
一つ一つを大切に心にしまいこんで、私はこれからも生きていく。

それが、なによりも大切な私の宝物。


ディア。
私の――。