第一章 船上のクーデター(2)
スクリューだけでなく、エストレリャ号はいたるところに修繕が必要な部分を抱えている。
遠目には優雅に見える王室専用船だが、実際は短い航行が精一杯の旧式の船だ。ガタガタと耳障りな音を立てるエンジンと、白い塗装の下からのぞく赤茶けたサビ。それは、所有者であるティエランカ王室の窮乏ぶりをそっくりそのまま物語っていた。
「しばらくは、エルニド港の修理所(ドック)に預ける必要がありそうだな」
「ええ、それで、あの……私も修理に立ち会いたいのです」
遠慮がちに、それでも明らかな期待と意志がこめられたクエルヴァの要望に、父は軽く眉をあげた。面白そうに娘の顔を見つめる。
「我が王国では、姫殿下(プリンセッサ)が船の修理をするのか? ヘルメットにつなぎの作業服を着て?」
「いえ、ただ少し見学をしたいのです……技術者たちの話も聞いてみたいし、それに今回の旅で船の仕組に興味がわいたので……」
もにょもにょと主張する娘に、父は軽く笑ってあっさりと許可した。
「いいだろう。理工技術は新しい分野だ。これからの時代に役立つ。なによりも、おまえの得意分野だからね」
とたんに、クエルヴァの顔が輝いた。
今世紀に入り、科学と産業は飛躍的に発展し、次々と新たな発明品が生み出されている。 鉄と歯車、蒸気と電気が人々の生活に大きな影響を与えはじめ、正しい理論と試行錯誤を繰り返せば、今まで不可能だったことを可能にすることができるようになった。
それは、クエルヴァにとってはまるで魔法のように思えた。
だから時間さえあれば、機械をいじくりまわし、その仕組みを探求し、新しいものを構想する――つまり、現代の魔法――理工技術にクエルヴァは強い関心を寄せているのだ。
けれども――。
「それはそうと、バレエや声楽のレッスンの進み具合はどうなのだ? そろそろおまえがピアノを演奏するところを見てみたい」
父の問いかけに、クエルヴァはさりげなく顔をそらした。海に視線を泳がせる。
バレエや音楽は、王女として当然要求されるたしなみだ。しかし、それらについてのクエルヴァの才能はゼロに等しかった。もっと言えば、上流階級の娘に必要とされる流麗で華やかな教養科目――立ち居振る舞いから、乗馬や生け花なども苦手だった。
おそらく、講師たちからの苦言が耳に届いているのだろう。父は一言ずつ、区切るように慎重に言葉を発した。
「……誰にでも、向き、不向きはある。無理することはないが、最低限は……な」
「はい……お父様」
クエルヴァは気まずく頷いた。
「よろしい、では船室へ向かおう。フェリックスがお待ちかねだ」
促されて顔を上げると、上甲板から弟のフェリックスがこちらに手を振っている姿が見えた。学問に没頭し、内にこもりやすい性質の姉と違い、社交的でスポーツが得意な少年だ。
クエルヴァは、自分と同じ金髪と青緑色の瞳をした弟に手を振り返すと、上甲板に続く階段を上りはじめた。その途中で、ふと、背後から吹きつけた南大陸の熱風に足を止める。
帽子をおさえて振り返ると、遠くに、午後の最後の光を浴びて輝くデジエルト砂漠が見えた。遙か彼方まで続く砂の海は黄金色に輝いている。
しばらくその光景を眺めてから、クエルヴァは再び階段を上りはじめた。
――今から、クエルヴァは家族とともに南大陸をあとにする。
政治抗争を避けるために、一時的に滞在していた領有地デジエルトから、ようやく西大陸の本国へ帰ることができるのだ。
幅の狭いバヒーオ海峡を渡り、そのまま西大陸の海岸線を北上すればティエランカ王国の首都エルニドへは明日の朝には着く。
やがて、クエルヴァが家族と一緒に船内に入ると、汽笛の音が大きなホルンのように響き渡った。エストレリャ号の白い船体がゆっくりと港を離れはじめる。
夕日が沈み、海は暗闇に包まれた。
――そのときはまだ、波は静かに大きく揺れているだけだった。
ティエランカ王国は、中世の歴史書にも名前を残す由緒ある古い王国だ。
西大陸の南端、アンヘル半島の大部分を占め、バヒーオ海峡を挟んで南大陸と向き合い、湖水・山岳地方を挟んで西大陸諸国と連なっている。
乾いた白い石灰岩で覆われた南部と、豊かな森林地帯が広がる北部。古い時代から南大陸との貿易やオリーブとオレンジの輸出で栄え、ここ数十年の間は、穏健な政治で平和を保ってきた。
しかし、五年前に勃発した『西大陸戦争』で、大きな打撃を受けて以来、ティエランカ王国は、国内に数々の問題を抱え、先の見えない戦後の混迷期にあった。
深刻な経済破綻と不安定な社会情勢――。
それは、『だんまり姫』――クエルヴァの運命にも、大きな変化をもたらすことになる。