第二章 海辺の村(上)(5)
クエルヴァが再び目覚めたとき、周囲は薄暗い闇に包まれていた。
――清潔な消毒液の匂いと、いつもと違う枕の感触――遠くから静かな波の音が聞こえる。
小さく身じろぎすると、右肩に鋭い痛みが走った。とっさに自分に何が起こったのか思い出し、クエルヴァは慌てて起きようとした。しかし、全身が石のように固まっていて動かない。ひどく喉が渇き、頭がずきずきと痛んだ。
……ここは?
顔をめぐらせると、小さな白木造りの部屋にいることがわかった。
窓には薄い水色のカーテンがかけられ、小さなドレッサーと机が置かれている。ベッドのすぐ脇にある棚には、タオルや薬瓶が並んでいた。
クエルヴァは何度か深呼吸をしてから、そろそろと身体を起こした。そのときになって、自分が簡素な寝間着に着替えさせられていることに気がついた。
しかし、どうにかしてベッドから出たとたん、クエルヴァは勢いよく木の床に倒れ込んだ。足にまったく力が入らなかったのだ。ベッドの脇に置かれていた点滴台が派手な音を立てて倒れ、腕に刺さっていた太い針のようなものが抜ける。気が遠くなりそうな痛みに、クエルヴァは身体を丸めて呻いた。
と、何者かが足早に廊下を近づいてくる音が聞こえた。
クエルヴァは、とっさに床を這ってベッドの下に潜りこんだ。
扉が開き、部屋に明かりがつけられる。
ベッドの下から、室内に入ってきた男の靴が見え、クエルヴァは用心深く青緑色の瞳を光らせた。
靴の持ち主はしばらくその場に立っていたが、やがて膝をついてクエルヴァの隠れるベッドの下をのぞきこんだ。
「どうしたんだい? 出ておいで」
静かでさり気ない響きの声――茶色の髪を無造作に整えた、涼しげな目元の青年だった。年齢は二十代半ばくらいだろうか、落ち着いた顔つきをしている。
クエルヴァが動くこともできずにただ震えていると、青年がふっと瞳を優しくした。
「大丈夫、何もしないよ」
青年は囁くように言った。すると不思議なことに、クエルヴァの恐怖と警戒心が霧が晴れるように和らいだ。
もぞりと身体を前に出すと、青年がそっと手を伸ばして、クエルヴァをベッドの下から引き出した。軽々と抱え上げてベッドに戻し、毛布をかけ直す。
「……目覚めてくれて良かった。君は三日間、眠り続けていたからね」
三日間――!? クエルヴァは思わず耳を疑った。
――そんなに眠っていたの?
青年は床に倒れた点滴台を起こすと、クエルヴァを振り返った。
「僕はヘリファルテ・エストレージャ。この診療所の医者をしている。気分はどうだい?」
緑色っぽい透き通った瞳がクエルヴァを見つめる。
クエルヴァは返事をしようと口を開いたが、渇いた喉からは声が出なかった。
「……まって、いま水をもってこよう」
ヘリファルテはいったん部屋から出ると、すぐに水差しとコップを持って戻ってきた。
クエルヴァはコップを受け取ると、あっという間に水を飲み干した。何度かおかわりをもらってから、ようやく掠れた声を絞り出す。
「……ありがとうございます」
ヘリファルテは優しく微笑んでから、静かに口を開いた。
「君は銃で撃たれている……他にもいくつか小さな擦り傷があった」
クエルヴァは、自分の右肩にそっと手をあてた。寝間着の上からでも包帯が厚く巻かれているのがわかった。小さく疼く手足の傷も、きちんと手当てされている。
「……ひどい目にあったようだね。何があったか覚えているかい?」
とたんにクエルヴァは緊張した。言葉に窮していると、ヘリファルテがほんの少し困惑の色を浮かべた。
「覚えてないのかい? 名前も?」
クエルヴァはとっさに頷いた。周囲の状況がわかるまで、そうしておいた方がいいと思ったからだ。自分が意識を失っていた間に、何がどう動いたのかわからない。
幸い、ヘリファルテはしつこく詮索するつもりはないようだった。
「そうか、じゃあ、思い出したら話してくれ。事故のショックで、一時的に記憶を失うことはある」
そこで、彼は控えめな微笑みを浮かべた。
「君は僕を知らないから信じないだろうけど、僕は自分の患者は守る。傷が治るまで君は僕の患者だ。安心してくれていい」
クエルヴァは頬が赤くなるのを感じた。
――ヘリファルテは、こちらの嘘に気がついている。
クエルヴァは、ヘリファルテから視線をそらすと小さく頷いた。
「よし、じゃあ肩の傷を見せてくれ。ベッドから落ちたときに傷口が開いたかもしれないからね。それと食欲があるのなら何か口に入れたほうがいい。そろそろスープが届く頃だ」
スープ、と聞いてクエルヴァは自分が空腹であることに気がついた。
ヘリファルテがクエルヴァの傷を慎重に確認し、包帯を巻き直しはじめた。
「――しばらく腫れと痛みは続くだろうが、縫合はうまくいっている。君は見かけによらず体力があるし、丈夫にできているようだね」
ほどなくして、廊下の先から扉が開く音がした。