第一章 船上のクーデター(9)

「家族を……父と弟を解放しなさい」
 クエルヴァは、決死の思いでアギラスを睨み上げた。
 しかし、アギラスは氷のような無表情を崩さなかった。
「我々と心中されるつもりですか、姫殿下(プリンセッサ)?」
 その、高いところから相手を睥睨するような態度にクエルヴァは眉をひそめた。
 アギラスが淡々と言葉を続ける。
「落ち着いて、私の話を聞いてください」
 クエルヴァは青緑色の瞳を燃え上がらせた。
「国王が乗った船を襲撃しておきながら、いったい何を聞けというのですか!? あなた方は間違ったことをしています。なぜ、こんなことを――!?」
 その問いかけに、アギラスの顔にかすかな苛立ちがよぎった。
「ティエランカ王国のためです。姫殿下(プリンセッサ)」
 慎重に、低くおさえられた声。
「これは、ミラーノ閣下による、ティエランカ国民のための重大な改革です」
 クエルヴァは、アギラスの背後に見える兵士たちの死体に視線を向けた。
「……こ、殺し合うことが? ティエランカ人同士で殺し合うことがですか?」
 とたんに、アギラスの瞳がぎらりと底光りした。
「違う――! 彼らの死はティエランカ王国のための尊い犠牲だ。殺し合いではない」
 クエルヴァは首を横に振った。兵士たちの死体を見ていたアギラスの背中を思い出す。
 彼はあのときひどく怒っていた。なぜなら……、
「少佐、あなたにはあれが無意味な殺し合いだとわかっているはずです」
 声が震えるのをおさえながら、クエルヴァは半ば懇願するように言った。
「だから……こんなこと、やめるべきです」
「それ以上、口を開かないでください」
 アギラスはにべもなく言った。  
「銃を、置いてください。ご家族のいる部屋へご案内します」
 どこか煩わしいものでも相手にするような口調に、クエルヴァは唇をかんだ。
「いいえ、銃は置けません。父と弟を解放してください」
「これはゲームではありません。姫殿下(プリンセッサ)。あなたはひどく危険なことをしている」
 アギラスの険しい声にかまわず、クエルヴァは細い喉を震わせ、懸命に抗議を続けた。
「な、なぜですか、少佐。西大陸戦争が終わってようやく平和を取り戻したのに……それなのになぜクーデターなど……」
「我々の改革の正当性については、のちほどゆっくりとご説明する。あなた方ご家族のことは必ず守ります。ですから銃を――」
 しかし、すっかり怯えているクエルヴァの耳には、アギラスの声は届かなかった。
「あなたたちのしていることに、正当性なんてありません! ただ、銃をふりかざして王国を混乱させようとしているだけです。ミラーノはいずれ独裁者になって国民を苦しめる――もし、それを望むというのなら、あなたもミラーノと同じ狼です」
 アギラスの顔に濃い影がよぎった。
「……姫殿下(プリンセッサ)、あなたは何もわかっていない――!」
 そのとき、クエルヴァのすぐそばで空気が鋭く動いた。
 銃声が聞こえたと思った瞬間、右腕が痺れ、クエルヴァの手から銃が落ちた。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。しかし、すぐに強烈な痛みが右肩を襲った。見る間に白いガウンが血で赤く染まっていく。
 ――撃たれた。
 クエルヴァは、肩を押さえながら呆然とアギラスの顔を見た。
 アギラスは、紺碧の瞳を凍りつかせながらクエルヴァを見ている。その肩越しに、銃を構えながらこちらに駆け寄ってくるセルピエンテの姿が見えた。
 全身の力が抜けるのを感じながら、クエルヴァはがくりと背後の手すりに寄りかかった。
 目の端で、セルピエンテが燃料タンクを蹴りつけるのが見えた。
「なんてこった! アギラス、これは全部空じゃないか!」
 からん、からん、と空のタンクが乾いた音を立てて甲板に散らばる。
 それを見たアギラスが、はっとしたようにクエルヴァに向き直った。
「……まさか、知っていてやったのか?」
 生暖かい風に混じり、大粒の雨がポツリと落ちてきた。すぐに乾いた甲板に黒い染みをつけながら雨脚が強まる。
 クエルヴァは頬を濡らす雨粒に目を瞬かせた。
 ――燃料タンクが空であることは最初から知っていた。ただ父と弟を助けたくて、ほんのわずかなチャンスに賭けていただけだ。
「どうしよう、ただのハッタリだったんだ! それなのに僕は……お姫様を撃ってしまった」
 おろおろとしたセルピエンテの声に、アギラスが短く舌打ちをした。険しい顔つきでこちらに近づいてくる。
 クエルヴァはとっさに身を引いた。痛みで意識が遠のく。グラグラと視界が揺れ、手すりに預けていた背中が思いがけず大きく仰け反った。それに合わせたように船が大きく上下し、クエルヴァの身体がふわりと浮かび上がる。
「あ……」
「おい……姫殿下(プリンセッサ)!」 
 とっさにアギラスが手を伸ばした。
 しかし、クエルヴァの身体は、アギラスの手が届く前に空中に放り出された。
 ――ぞっとするような浮遊感。
 クエルヴァは悲鳴すら上げることもできず、そのまま暗い海の中に落ちていった。