第二章 海辺の村(上)(6)
「来たな」
そう呟くと、ヘリファルテが声を大きくした。
「ポジート、こっちだ。来てみろ、お前の人魚が目を覚ましたぞ」
とたんにパタパタと廊下を駆けてくる小さな足音が聞こえ、病室の扉から一人の少年が顔をのぞかせた。
そばかすの浮いた明るい顔の少年だった。目尻の垂れた愛嬌のある顔立ちは、浜辺でクエルヴァをのぞきこんでいた顔と同じだった。
「君を見つけたのは彼だ、何度か見舞いにも来ている。礼を言ってやってくれ」
そう小声で囁くと、ヘリファルテは少年にこちらに来るように促した。
驚きと感動が入り混じった表情で、少年がベッドの脇にやってくる。
「こんばんは、俺はポジート・ベラスコ。目を覚ましてくれて嬉しいよ」
そう言って期待するような眼差しをクエルヴァに向ける。
やや間があいたが、クエルヴァは何とか声を押し出した。
「……ありがとう、ポジート」
照れたようにモジモジと手を動かすポジートに、ヘリファルテが言った。
「ちょうど食事にしようとしていたところだ。用意してくれ」
「人魚も一緒に食べるの?」
嬉しそうに聞くポジートに、ヘリファルテが頷いた。
「やった!」
歓声を上げて部屋を飛び出していくポジートを見て、ヘリファルテが呆れたように笑った。
「ポジートは、君を見つけたときに人魚だと勘違いしたんだ。彼はおとぎ話や珍しい物が好きでね、想像力が豊かなんだ。どうやら本気で君を人魚だと思っているようだな。さあ、動けるのなら食事は居間でとろう。歩いて数歩で行ける。起き上がれるかい?」
クエルヴァは頷きながらベッドから起き上がった。足がふらふらして身体は重かったが、気分はいくぶん良くなってきていた。
ポジートは、人魚がスープをゆっくりと口に運ぶ様子をうっとりと眺めていた。
――とても綺麗な食事の仕方だ。
急に恥ずかしくなって、自分もできるだけ行儀良くスプーンを使う。
「うちの母ちゃんの料理、美味しいでしょ?」
人魚がニッコリと微笑んで頷いた。けれど、彼女の皿のスープはあまり減っていない。ほっそりとした頬も青白いし、青緑色の瞳はずっと不安げに瞬いている。
きっと怪我をしているせいで元気がないのだろう。
ポジートはできるだけ明るい調子で続けた。
「母ちゃんはおっかないけど、料理だけは村一番の腕前なんだ。父ちゃんがそれだけは自慢してる。母ちゃんの料理を食べれば、きっとすぐ元気になるよ」
ヘリファルテが頷き、ポジートの髪をくしゃっと撫でた。
「ああ、そうだな。お前の母さんの料理は世界一だ」
それから、ヘリファルテは人魚に笑いかけた。
「ポジートは週に数回、こうして夕食を届けてくれるんだ。お袋さんが一人暮らしの僕をいろいろ気遣ってくれてね、助かるよ」
「うん、だってね、ヘリファルテはみんなからお金をとらないんだ。うちの姉ちゃんが病気をしたときも高い薬をただでくれた。だから父ちゃんも母ちゃんもお礼にいろいろヘリファルテの面倒を見るんだって。ドクシン男はほっとくと食事もろくにとらない、って母ちゃんが心配してた」
ポジートはうきうきと食事を続けた。村のこと、父親の漁を手伝っていることはもう話した。あとは何を話そう、勉強が苦手なことは話さなくてもいい。
「ところで、フェリックスって誰?」
ふと思いついた疑問を口にすると、
「やめろ、ポジート」
ヘリファルテの鋭い声がポジートを遮った。ポジートはびっくりして動きを止めた――ヘリファルテがこんな怖い声を出すことは滅多にない――驚いて目を瞬かせると、ヘリファルテは、すぐにいつもの穏やかな口調に戻った。
「……彼女は、怪我をしたショックで自分のことを覚えていないんだ。余計なことを聞いて困らせるな」
見ると、人魚は本当に困ったような顔をしていた。
――きっと、この人魚には何か事情があるんだ。
ポジートは子供ながらにそう察した。
――だったら、俺が守ってあげよう。だって、こんなに綺麗な人、見たことないんだから。金色の髪は月のように光っているし、青緑色の瞳は晴れた日の海と同じ色だ。白い肌は透き通る貝殻みたい。人魚の中でも、きっとこの人魚は特別だ。お姫様なのかもしれない――。
そこで、ポジートはいいことを思いついて顔を輝かせた。
「じゃあ名前も忘れちゃったんだよね、だったら俺がつけてあげる」
ヘリファルテも今度は怒らなかった。
「そうか、確かに名前は必要だな。いいかい?」
人魚がしばらく考えてから頷いたのを見て、ポジートは得意そうに鼻をうごめかした。
……名前ならあれがいい。
「『ルチア』っていうのはどう?」
――『ルチア』はカトリオ教の聖女の名前だ。聖女の慈愛にあやかろうと、ティエランカ王国では女の子にルチアと名付ける親は多い。ルチアはどの町にもいるありふれた名前だ。でも、だからこそこの人魚にはピッタリだ――誰からも愛される聖なる名前なのだから。
「ルチア、か。いい名前だ」
ヘリファルテが感心したように頷く。
見ると、人魚も桜貝の唇をふっとほころばせた。どうやら新しい名前を気に入ってくれたらしい。ポジートは満足して、デザートに手を伸ばした。