第二章 海辺の村(下)(4)

 反射的に広場の方向へ顔を向けたルチアの肩を、ヘリファルテが両手で押しとどめた。
「君は逃げるんだ」
 ルチアは首を横に振った。
「できない、村の人を残して逃げるなんて……」
 立ちすくんだルチアの背中を、今度はブレトンがそっと押した。
「先生の言うとおりだ。村のことは気にしなくていい。あんたは逃げろ」
「なぜ? あなたも危険な目に合うかもしれないのに」
 振り向いたルチアに、ブレトンは低い静かな声で言った。
「いいか、ルチア。先生はこの村の家族だ。あんたは……あんたは先生の『親戚』だろ? だったら助けるのに理由はねえ、だから、な、いい子だから先生の言うことを聞くんだ」
 直後、暗闇の中で一発の銃声が響いた。広場から人々の悲鳴が一斉に上がる。
 何かとんでもないことが起きている――!
 ルチアは、とっさにヘリファルテの手を振りほどくと、水路の壁にかけられた梯子に駆け寄った。震える手足で梯子を登りはじめる。
「待て! ルチア」
 地上に出て、そのまま広場に向かって駆け出したルチアを、ヘリファルテの大きな手が、すぐに捕まえた。そのまま広場の前に建つ真っ暗な教会の壁にルチアの身体を押さえ込む。 教会の暗い影に隠れて、広場からはこちらは見えない。しかし、ルチアの目にはライトで照らされた広場の光景がよく見えた。
「……!」
 悲鳴を上げかけたルチアの口を、ヘリファルテがとっさに塞いだ。
「ちくしょう!」  
 ルチアを腕に抱え込んだまま、ヘリファルテが低く呻いた。

 悲鳴が渦巻く広場の中央には、撃ったばかりの銃を手にした指揮官らしい男が立っていた。 その足下に、うつぶせに倒れたポジートの姿が見えた。
 小さな身体の下に、赤い血の色が広がっていく。
 ――ポジート!
 ルチアはとっさに広場に駆け出そうとしたが、ヘリファルテの腕に押しとどめられた。
 広場では、ポジートの母が悲鳴を上げながら息子の身体に取りすがるのを尻目に、指揮官が声を張り上げている。
「いいか、何度も言わせるな! 我々は王女クエルヴァの捜索を行っている。よく似た娘がここに匿われていることはもうわかっているのだ! 反抗すれば子供であっても容赦はしない。知っている者は素直に王女の居場所を教えろ」 
 その様子にヘリファルテがぎりっと奥歯をかみしめた。ルチアの耳元に素早く唇を寄せる。
「いいか、君は、村の裏側まで走れ。ブレトンが先に行って橋を下ろしている」
 そう言いながら、ヘリファルテは自分の肩にかけていた革鞄をはずすと、ルチアの肩にかけた。診療所から逃れる前に、彼がつかむようにして持ってきたものだ。
「僕の『古い知人』は、ディーアに住んでいる。電報で知らせてあるから、彼には君のことがわかるはずだ。鞄の中には、君のことを書いた手紙が入っている。封筒の宛名の住所を訊ねろ。パルティールまで歩いて、そこから汽車に乗るんだ」
「――まって、いったい何を言っているの?」
 一気に説明されて、ルチアは頭を混乱させた。
「君は逃げるんだ」
「だめ……! だってポジートが……!」
 ヘリファルテが、ルチアの頬を両手で包んだ。
「ポジートは僕が必ず助ける。だから君はディーアへ行くんだ」
 ルチアは何度も首を振った。感情がゴチャゴチャになって、どっと涙がこぼれだす。
「いや! 一人でなんて逃げられない!」
 すると、ヘリファルテがルチアの身体を揺さぶった。
「しっかりしろ! 強くなるんだ。君はここで捕まってはいけない。君にはやるべきことがあるんだろう?」
 ルチアは喉の奥で嗚咽をのみこんだ。
「ご家族を助けるんだろう?」
 ヘリファルテが、ルチアの震える身体を強く引き寄せた。
「そして、ミラーノを止めてくれ……あいつはいつか必ず戦争を起こす、頼む――姫殿下(プリンセッサ)!」
 ルチアは目を瞠った。まるで雷に打たれたような気持ちになった。
 ヘリファルテが、ルチアのことを『姫殿下(プリンセッサ)』と呼ぶのはこれが初めてだった。
 一瞬、周囲の音が全て聞こえなくなった。ただ、こちらを真摯に見つめるヘリファルテの瞳がすぐそばに見えた。しばらく息を止めてヘリファルテの強い眼差しを見つめたあと、ルチアは思い切って瞳に力を込めた。しっかりと頷く。
「約束する……! だから――あなたも無事でいると約束して」
 ヘリファルテは答えず、ただルチアの額に強く口づけた。
「――さよなら、ルチア」
 直後、ヘリファルテはルチアを突き放すと、そのまま広場へと走り出て行った。