第二章 海辺の村(下)(5)

薄暗い道をルチアは走った。もう後戻りはできない。
 はあ、はあ、と吐き出される乱れた呼吸が、まるで他人のもののように聞こえた。
 広場に倒れていたポジートの姿が脳裏に浮かび、目の前でくるくると旋回する。
 何度も転びかけながら石畳の広い道に飛び出したとき――、
 突然、車のヘッドライトが視界一杯に飛び込んできた。
 ――轢かれる!
 横から走ってきた黒い軍用車に、ルチアは目をつぶって身体をすくませた。激しい急ブレーキと、タイヤが石畳を滑る音が響く。おそるおそる目を開けると、車はルチアからわずか数十センチの場所で急停車していた。ヘッドライトの白い光に手をかざし、車に乗っている二人の男の顔を見た瞬間、ルチアは息をのんだ。
 彼女と同じように驚いた様子でこちらを見つめているのは、アギラス・デスティノとエストレリャ号でルチアを撃ったセルピエンテだった。
「……!」
 ルチアは反射的に身を翻して走りはじめた。石畳の通りを渡りきり、細い小路へと入り込む。
「俺が追う! セルピエンテ、おまえは先に広場へ向かえ」
 背後でアギラスの声が聞こえ、車が急発進して遠ざかっていく音が聞こえた。
 自分を追ってくるアギラスの足音に、ルチアは懸命に足を動かした。
 村の裏手に出ると、小さなはね橋がすでに下ろされているのが見えた。ブレトンが、ルチアに向かって大きく手を振る。
「来い!! ルチア、急げ!」
 同時にアギラスの姿をみとめたのか、ブレトンはそのまま管理小屋に駆け込んだ。モーターがうなる音が聞こえ、はね橋がゆっくりと上がりはじめる。
 はね橋にたどりつくと、ルチアはすでに肩の高さまで上がった橋に両手をついた。右肩の痛みを堪えながら身体を持ち上げ、そのまま傾斜を転がるようにして橋を渡る。対岸にたどりつくと、ルチアは勢いで倒れこみ、土に手をついた。
 がしゃん! と背後で、はね橋が完全に上がりきった重い音が響く。
 ルチアが肩で大きく息をつきながら身体を起こして振り返ると、上げられた橋の向こうにアギラスの姿が見えた。
 早く逃げなくては――! 
 心はそう悲鳴を上げていた。けれど、なぜか足が動かなかった。
 わずか数メートルの川を挟んで向き合うアギラスは、銃を抜くこともなく、エストレリャ号で会ったときと同じように、ただ深いブルーの瞳でこちらを見つめていた。
 恐れと怒りが入り混じった感情がこみ上げ、ルチアは涙の溢れそうな瞳で、きっとアギラスを睨みつけた。アギラスが目を細めてわずかに身を引く。
「姫殿下(プリンセッサ)」
 軍人らしくよく通る声は、対岸にいるルチアの耳にも不思議とはっきりと届いた。
「姫殿下(プリンセッサ)、落ち着いて聞いてください。国王陛下(レクス)と王太子殿下(プリンシペ)はご無事です。お二人はお心を強く保っていらっしゃる」
「――!?」
 思いがけない言葉に、ルチアは鋭く息をのみこんだ。
 ――いま、何と言ったの――!?
「エリアス・レイは生きてる」
 さらに投げかけられた言葉に、ルチアはますます頭を混乱させた。驚きと戸惑いが頭の中に一気に広がる。
 激しく打ちつける鼓動を聞きながら、ルチアはアギラスと見つめ合った。
 月の光が川の水面できらきらと輝き、夏の夜風がふわりと吹き抜ける。
 再びアギラスが口を開きかけたとき――、
 ふいに眩しいライトの光りがルチアの瞳に飛び込んできた。
 瞬きをしながら光りの方向を見ると、アギラスの背後から、こちらに近づいてくる黒い軍用車が見えた。おそらく、村の裏側のはね橋の存在に気がつき、武装親衛隊が見張りをつけるためにやって来たのだろう。
 アギラスはちらりと肩越しに視線を走らせると、急に語調を強めた。
「行け! エリアスに会え、『W29X0J』」
 それだけ言うと、アギラスは踵を返した。
 何事もなかったかのように肩で風をきりながら、村の中へと歩き去っていく。
 取り残されたルチアは、ただ呆然と暗闇に消えていくアギラスの後ろ姿を見つめていた。
 しかし、こちらに近づいてくる車のタイヤの音に、ルチアはすぐに我に返った。素早く身を翻して橋から離れる。
 そして、ルチアは真っ暗な夜の道をたった一人で走りはじめた。