吸血鬼は月を愛でる

著/柊六花

 やわらかな月光を招き入れた部屋の中で、少女は窓辺に寄り添い夜を見つめていた。
 闇が深くなるにつれ、愛らしい琥珀色の瞳に不安の色が滲む。
 何処からか、バサっと羽音が聞こえ、その音に少女が身を強張らせた。窓が大きく開け放たれ、勢いよく吹き込んで来た風に、腰まである薄茶色の髪を手で押さえ込む。
 やがて、吹き荒(すさ)んでいた風が緩やかな流れを取り戻し、
「良い子にしていたか、ルナ——」
 窓から覗く満月を背にして、一人の青年が立っていた。
 血のような紅玉(ルビー)色の瞳を宿した切れ長の眼。薔薇色の口唇(こうしん)。長い白金の髪を背に流した姿は、天使の化身を思わせる。
 けれど、ルナは知っている。その美しさに決して惑わされてはいけない。
「帰って!」
 青年の紅い目から視線を逸らさずに言い放つと、落ち着いた声がそれに答えた。
「帰るも何もここは私の城だよ。この部屋も私が与えたものではなかったか?」
「……部屋なんて望んでないわ。私を村に帰して」
「それは出来ない」 
 足音一つさせることなく、青年はルナへと歩み寄る。
「来ないで……」
「ルナ——」
 一歩、また一歩と後ろへ下がって行くルナを青年が呼び止めると、その身体はびくりと反応し、忽(たちま)ち自由を奪われてしまう。
「そう、良い子だ……」
 青年は低く囁くと、術中に堕ちて抵抗する術(すべ)を失ったルナを後方のベッドへと押し倒す。
 感情の乏しい怜悧な美貌がゆっくりと降りてきて、ルナの項(うなじ)に顔を埋める。首筋に冷たい唇が押し当てられ、氷の針を刺したような鋭い痛みを感じた。けれど、痛かったのはその一瞬で、すぐに甘い恍惚感(こうこつかん)に支配される。
 血を吸われ朦朧(もうろう)とする意識の中、ルナは愛しい者たちの名を呼んだ。
 優しい母、働き者の父、少し生意気だけど可愛い弟。決して裕福とは言えないが、その生活を不満に思ったことは一度もなかった。
 しかし、その平穏な日々は、彼……ハディスによって奪われた。
 ショックが大き過ぎた為か、ルナは攫われた日のことを余り覚えていない。
 ただ、いきなり現れたハディスに攫われ、強引に彼の城へと連れて来られたことだけは覚えている。そして城の塔の最上部にある部屋へと押し込められ、毎夜訪れる彼に血を吸われる日々を送っている。
 激しい貧血に見舞われながらも、ルナは気を失うまいと右手の薬指に意識を集中させる。
 彼女の指できらりと輝いているのは、銀色の指輪だ。シンプルなデザインだが、母から贈られた大切なものだ。肌身離さず付けていたから、攫われた今でも変わらずルナの指にある。
(お父さん、お母さん……マルス……)
 くらりと頭の芯が揺らぎ、気丈なルナもついには意識を手放してしまう。
 血を失い力なく横たわるルナの髪が、緩く波打ってベッドに広がっている。柔らかな一房を指に絡めとり、ハディスは掠めるような口付けを落とした。
「おやすみ、ルナ……」
 眠りの中にいる少女からすっと身を引く間際、白く細い指が目じりで光る涙を拭う。そして彼は夜の闇へと消えた——。

 この城に連れて来られてから、どれだけの月日が流れたのだろう。
 この日も、窓から差し込む夕陽が月光へと変わっていく様をルナは静かに見守っていた。
(もうじき、彼がやって来るんだわ……)
 吸血鬼——。伝承の中で幾度となく語られてきた魔物。人の生き血をすすり、殺めることすら厭わない残忍な生き物。
「ここから飛び降りたら、確実に死ぬわね……」
 窓の外を覗き見る度に絶望する。
 更に周りは暗い森に囲まれている。仮に地上へと降りることが叶っても、森に巣食う獰猛な獣に襲われて命を落とすことになるだろう。
 それでも、諦めるわけにはいかない。そう、決意を新たにした次の瞬間——
 カタンと音がし、ルナははっとなる。ハディスが来たのかと思い窓の外を注意深く観察するが、声は思いがけず背後からかけられた。
「よお、お前が囚われのお姫様か?」
 振り返ると、壁に寄りかかるようにして見知らぬ男が立っていた。少し癖のある漆黒の髪を肩に垂らし、口角をつり上げている。その紅い瞳に、ルナの視線は釘づけになる。
「そう、あいつと同じだよ」
 それが瞳の色の話だけではないことを、ルナはすぐに感じ取る。
「……あなたは誰?」
「おっと、人に名を訪ねる時は自分から……と、言いたいところだが、お前のことは良く知ってるぞ、ルナ。そんな怖い目で見なさんな。ハディスから色々聞いてる」
 ハディスとは正反対で彼はよく話す性格のようだ。初対面のルナに、彼はまず自らの素性を明かした。
「俺はカイ。正しくはカイルスジュノーゼルだが、長ったらしくて嫌いだ。俺のことはカイと呼んでくれればいい。ハディスもそう呼んでる。あいつと俺は、まぁ腐れ縁ってやつだ」
 カイと名乗った男を注意深く観察しながら、ルナは緊張した声で話しかける。
「あの、カイ……さんはどうして……」
「ここに来たかって? そりゃ、もちろんお前に会う為だ」
「私に?」
「ここに来る理由が他にあるのか?」
「……ないわ」
 ここにはルナの他は誰もいない。他に答えを思い付けずにルナはそう答えた。
「ここから逃がしてやってもいい」
 突然の申し出にルナは一瞬言葉を失うが、やや遅れてから返した。
「あなた、ハディスの友達なのよね?」
「友達……まぁ、あいつの味方では——と、そんなことはどうでもいい。俺は逃げたいのかと訊いてるんだ」
 はぐらかされてしまったが、その口調から彼はハディスの友達なのだとルナは認識した。
「意味が分からないわ。どうしてハディスの友……味方である筈のあなたが、私を逃がすと言うの?」
「何故すぐに食いつかない?」
「——!?」
 ルナは反射的に一歩後ろへ下がる。壁に寄りかかっていた筈の彼が、一瞬にして目の前に現れたのだ。
「お前は逃げたくて仕方がない筈だ。何を躊躇っている?」
「躊躇ってなんか……」
 そう答えながらも、今は彼から視線を逸らしてしまっている。
 逃げる——その言葉が現実味を帯びた瞬間、急に心に迷いが生じたのは事実だった。
(どうして? 逃げたい筈なのに……)
「どうした、まさか本当に躊躇っているのか?」
 答えに窮したルナは勢い任せに言い返す。
「あ……あなたは私を騙そうとしているんじゃないの!?」
「何?」
「これは何かの罠ではないの?」
(そうよ、話がうますぎるもの。だから、彼の救いの手を素直にとれないんだわ)
「用心深いんだな」
 カイは感心したように、口の端を持ち上げ犬歯を覗かせて微笑する。
 ハディスと同じ尖った牙を目にし、ルナは息を呑んだ。
「……血ね。あなた、私の血が望みなのでしょう?」
「お前の……血……だと?」
 低く発せられた声に、ルナは続く言葉を失った。
 風もないのに黒髪がゆらゆらと揺れ始め、紅い瞳が焔を宿したように輝きを増していく。
 彼が恐ろしい魔物であることを認識させられたことよりも、彼の逆鱗に触れてしまったらしいことにルナは言い知れぬ恐怖を覚えた。
「そうではないの……?」
 喉の奥がからからになりながらも、ルナは勇気を振り絞って訊いた。
「そう、実に魅惑的だ」
 つと伸ばされた手が、ルナの顎を掴んで無理矢理上向かせる。
「だが、同族の血は禁忌(タブー)だ」
 ルナの双眸が見開かれる。
(同族? 禁忌(タブー)……?)
 何のことか分からずに当惑するルナを、紅い瞳が苛立ったように見つめる。
「お前は——」
「そこまでだ、カイ」
 張り詰めた空気を突如切り裂いた声に、ルナとカイは振り返る。
「随分と早いお出迎えじゃないか」
 ハディスの姿を認めたカイは、ルナから離れると軽い口調に戻して言った。
「お前の気配は嫌でも分かる。騒々しい。……何をしに来た?」
「そりゃ勿論、お前に会——」
「ルナに会う為と聞こえたが?」
 カイはやれやれと手を振った。
「聴力の高い俺たちには、プライバシーの欠片もないのかね」
 わざとらしく足音を響かせながら窓辺に寄るカイに、ハディスは忠告するように言う。
「カイ、私はルナを手放す気はないよ」
「……お前は大馬鹿者だ」
 それだけ告げると、カイは窓の外へと軽やかに身を投じた。その姿はすぐに闇に紛れ、後には静寂が残される。
「どういうこと……?」
 二人の会話を側で聞いていたルナの胸には、幾重にも疑問が渦巻いている。
 答えを求めるルナの瞳に吸い寄せられるようにして、ハディスの手がルナの頬に触れる。
「何も知らなくていい……」
 温もりの感じられない手に、どうしてかつきりとルナの心が痛む。
 動けずにいるのは彼の術中に堕ちたからなのか、それとも自分の意志なのか。分からずにただ目を瞠るルナの首筋に、彼は自然な流れで唇を寄せ、吸血鬼の接吻(キス)をする——。
 貧血でぐったりしてしまったルナを横に抱きかかえると、静かにベッドの上へと降ろす。
 支えていた手が消えるように離れていくのを見て、ルナは引き止めるように手を伸ばしたが、彼の姿は既にない。
(何も知らなくていい……?)
 残されたのは謎めいた言葉ばかりだ。
(同族の血が禁忌(タブー)って?)
 囚われていることよりも、何も分からないことへの不安が募る。
 救いを求めて右手薬指から指輪を外し、ぎゅっと強く握り締めてみるが、いつもなら和らいでくれる不安は少しも取り除かれることなく、今は会えない母の面影が、ルナの心に得も言われぬ淋しさを呼び込んだ。

 ——まだ大きいから紐に通してあげるわね……

 優しい声がそう告げ、記憶の中の母はルナの首に茶色の紐をかけてくれる。胸元で光る指輪をよく見ようと、鏡の前へと駆けていき——。
 そこでルナは違和感を覚えた。
(この指輪は、いつ貰ったものだったかしら……?)
 母との会話をもっとよく思い出したくて記憶を探る。しかし、次に聞こえたのは期待した声とは全く別のものだった。

 ——それは、約束の証だ……

 記憶の奥底に眠っていた低い男の声と共に、さら、と。長い白金の髪が視界を過(よ)ぎる。
(何、今の……?)
 その声には覚えがあった。そして、その長い髪と色にも。
「そんなわけ、ないわよね……?」
 誰にともなく尋ねた時、開いた窓からすっと風に乗って何かが舞い込んできた。
(何かしら?)
 窓辺へと歩み寄り確認すると、それは小さな紙の切れ端だった。

 ——耳聡いハディスに気付かれるから文にした。真実を知りたければ、そこの窓から飛び降りろ。その勇気に免じて受け止めてやる。

 荒々しい筆跡で綴られた文の末尾には、カイという名が刻まれている。
 手紙から顔を上げて窓から外を見下ろすと、漆黒の翼を広げたようにも見える暗い夜の森が、遙か彼方に巣食っている。別段高所が苦手ではないルナだが、ここから飛び降りることを想像し、背筋が凍りついた。
 窓辺からほんの少し身を離して、握っていた手を開いてみる。
(でも、真実って……?)
 開いた手の上には、小さいながらも確かな存在感を放つ銀の指輪が乗っている。
 細かな金の粒子が一時の戯れとばかりに指輪に集まり、きらきらと幻想的な煌めきを与える。それはまるで、夢で見たものが現実に浮かび上がっているかのようだった。
 そんな光景をもたらした光源を求めて、ルナはつと視線を上げる。
 窓の外では、大きな満月が変わらずに闇夜を照らしているが、どうしてか不思議な既視感を覚える。
 愛しむように目を閉じたルナの眼裏(まなうら)には、いつか見た月が静かに息づき始める——

「気をつけるのよ」
「ありがとう、お母さん。行ってくるわ」
 元気よく告げ、ルナは獣よけの香り袋の入った小さな籠を手に、家の裏手に広がる西の森へと向かった。月明かりを頼りに草木の生い茂る森へと入り、確かな足取りで進んでいく。 
 狼の遠吠えが聞こえてくるが、香り袋の効果でその鳴き声が近付いて来る気配はない。
 鬱蒼としていた森が開け、星の瞬く夜空を映し込んだ湖が視界一杯に広がった。
 わあ、とルナは口元を手で覆う。初めてここを訪れた時も、その光景の美しさに心奪われて息をすることすら忘れてしまった。
 足元に黄色い花がところ狭しと咲いている。見た目には小さく頼りない花だが、これらの花弁を煎じることで万病を治す薬となるのだ。
 ルナは手に提げていた籠を下ろし、その中に黄色い花を摘んで入れていく。
「——人間の娘か」
「誰!?」
 唐突に人の声がし、ルナはぱっと背後を振り返った。立ち上がって辺りをきょろきょろと見回す。首を傾げたところでまた声がした。
「上だ……」
 そう言った声は本当に上から聞こえたので、ルナは慌てて空を振り仰いだ。
 月の光がたゆたう水面に色濃く影を落とす木の上に、声の主と思われる青年はいた。
 太い幹に背中を預け、張り出された枝に軽く膝を立てるかたちで足を伸ばし、優美に腰かけている。白金の髪がさらさらと夜風に流れ、月の光に照らされて青白く見える横顔は、村の教会に飾ってあった天使画から、この現世(うつしよ)へ抜け出したのではないかと思うほど美しい。
 けれど、天使と違いその瞳は仄かな紅い光を帯び、儚げな容姿に艶美な魅力を添えている。
「わぁ……」
 きれいな人——
 月光を紡いだ髪と、紅玉のような瞳に心が攫われる。
「何をしてるの……?」
 青年の紅い瞳がじっとルナに注がれる。僅かな間をおいてから彼はつと視線を上げた。
「月を見ている」
 その視線を追って、ルナも同じように夜空を見上げた。
 丸いお月さまが静かに湖面を見下ろしている。
「月は好きよ。あなたも月が好きなの?」
 子供らしい無邪気な笑みを浮かべて訊くと、青年は眉ひとつ動かさずに答えた。
「好きなわけではない。他に愛でるものがないだけだ」
 ルナは小鳥のように小さく首を傾けた。
「月が嫌いなの?」
「別に嫌いではない」
 沈黙が落ち、その隙間を満たすように風が吹き抜けた。水面が煽られ、湖面の月が歪み、再び静寂が訪れる。
 青年は少女のことなど気にせずに月を眺めていたが、ふと思い出したように視線を落とし、僅かに表情を変える。
 少女はまだそこにいた。素っ気ない態度をとれば皆一様に興味を失い去って行くものだが、少女からはそんな様子は見受けられない。
 いつもなら無視するところだが、どんな気紛れか気が付けば言葉を発していた。
「そなたのような子供がこんな夜更けに……魔物に襲われてしまうよ?」
「まもの……?」
「そう……鋭い牙を持ち、人の命を喰らう」
 ルナは大きな琥珀色の瞳をぱちりとさせ、それからにっこりと微笑んだ。
「平気よ。これがあれば狼だって近くに来られないわ」
 ルナは、母親に渡された香り袋を持ち上げて見せた。
「獣よけか……。だが、本当に恐ろしい獣には効かないようだね」
 言われた意味が分からず、ルナは首を傾げる。
 その様子に、青年がふと笑ったように見えた。
「——近くで見るとなお小さい」
 次の瞬間、目の前にいた。
「きゃあ!」
 ルナは驚いた拍子に尻もちをついた。
 瞬時に目の前に移動した青年を上から下まで流し見る。ルナはまだ幼いが、そんな芸当が出来る人間がいないことくらいは分かる。
「私は魔物だ。こんなことは何でもない」
「まもの……?」
 再び問うように呟いた少女に、青年は自嘲気味に言う。
「人の血を喰らう化け物、と言えば分かるか?」
 化け物……その言葉はルナにも理解出来た。それでも、今目の前にいる青年がそんな恐ろしい存在とは思えない。月光を従えたような姿は美しい。しかし、そう思ったのはその美しさ故ではなく、その洗礼された美しさの影に隠れているものを、子供の感性で敏感に感じ取っていたからだった。
 それが何なのかはっきりとは理解できなかったが、ルナは無意識のうちに訊いていた。
「泣いてるの……?」
 静かな間があった。
 青年は眉を顰めた後、涼やかに言う。
「その目は硝子玉か?」
「ううん、違うわ」
 ルナは首を横に振る。
 冴え冴えとした顔には一筋の涙も見えない。なのに、深い悲しみだけは伝わってきて、ルナの心は沈んでいく。 
「薬草を摘みに来たの」
 沈む心を浮上させたくて、ルナは不自然に話題を変えた。青年の言葉を待たずに続ける。
「湖の周りに咲いてる黄色い花が、み〜んなそうなのよ」
 無理に笑みを作って得意げに話すルナの瞳を、青年はひたと見つめる。こうして瞳を見つめることで相手の心を読むことが出来るのは、魔物特有の力だ。
「寝込んでいる弟の為とは感心だな……」
「どうして分かるの!?」
「魔物だと言っただろう、大概のことは分かる」
 人前ではもっと人間らしく振る舞う彼だが、今夜は進んで魔物らしいことをした。
 そんな自身を苦く笑いつつも、彼はぱっと湖の方へ向けて手を払う。
「それだけあれば足りるか?」 
「え……?」
 視線を泳がせてから籠に目をやると、まだ少ししか摘んでいなかった筈なのに、籠の中が黄色い花で満たされている。
「すごい、すごいわ!」
 ルナは感激し、目を輝かせて礼を言う。そして、息を弾ませるように言葉を続けた。
「お母さんがね、ご本を読んでくれたのよ!」
「本?」
 唐突に話が変わり、彼は短く問い返した。
 ルナは大きな瞳を更に輝かせて語り始める。
「きれいなお姫様とかっこいい王子様、あとお姫様に悪さをする化け物。それから、お姫様を助ける魔法使いのおばあさんが出てくるの。あなたは、その中の魔法使いね!」
 青年は目を瞬いた。それから、堪え切れずにくすくすと笑い声を漏らす。
「そうか、私はおばあさんなのか」
 ——化け物ではなく。
「もう、そうじゃないわ!」
 頬を膨らませるルナに、青年はこれまでとは打って変わって穏やかな声で言う。
「もう用は済んだのだろう。だったら、帰るといい。そなたには待っている者がいるのだろう?」
 その言葉にルナの心は再び沈んでしまう。
「どうした?」
 急に静かになったルナを怪訝な表情で見ると、彼女はぽつりと言った。
「あなたにはいないの?」
「何?」
「待ってる人……」
 琥珀色の瞳が不安そうに青年の言葉を待つ。
 彼は降参とでも言うように、軽く息を吐き出した。
「そなたは読心術に長けた魔物よりも、よっぽど心が見えるらしい」
 そう言って彼はくすくすと笑うけれど、少しも楽しさを孕んでいない。
「そうだな。私は長いこと一人でいる。……何故そなたがそんな顔をする?」
 ルナは今にも泣きそうな顔をしている。
「だって……一人は淋しいわ」
「私はもう何百年も一人でいる。……だから、一人には慣れている」
 安心させるつもりで言ったが、少女は更に顔を歪めて声を震わせた。
「何……百年……?」
 それは彼女の想像出来る範疇を超えていたが、途方もない時間であることだけは分かった。
 ルナは俯き、暫く何かを考えるようにしていたが、またぱっと顔を上げた。
「じゃあ、私が一緒にいるわ!」
 青年は気圧されたように目を瞬いた。
「一緒に? そなたが?」
「私が一緒にいれば、もう一人じゃないでしょ?」
「……だが、そなたには待っている者がいるのだろう?」
 それにはルナも顔を曇らせる。自分が帰らないことで、優しい両親と少し生意気だけど愛しい弟の悲しむ顔が浮かんだのだ。
 しゅんと項垂れるルナを見て、彼は想いを断ち切るように背中を向けた。その場を去ろうと踏み出された足が、下草をかき分ける。
(待って……!)
 ルナは必死に思考を巡らし、そして叫んだ。
「じゃあ、あなたにトツげばいいんだわ!」
 青年は思わずルナを振り返った。虚を突かれたように見る。
「そなたは……意味が分かって言っているのか?」
「お母さんに言われたの。いつか私もお父さんみたいに素敵な人にトツいで、一緒に暮らすようになるって。そうしたら、お父さんもお母さんも淋しいけど嬉しいって。だから、トツげば淋しくても誰も悲しまないわ」
 ルナはにっこりと微笑んだ。
 零れるような笑みと共に、彼を一人にはしたくないという少女の純粋な気持ちが流れ込んできて、彼はやんわりと目を細めた。温かい想いに触れたことで、凍結した心が溶けてしまったのだろうか。いつからかずっと願うことをやめていたのに、今になって思ってしまったのだ。
 永遠(とわ)に続く夜……それを共に過ごしてくれる相手がいれば——と。
 好んで夜の住人として生まれたわけではない彼は、自分以外の誰をもこんな呪われた身へ堕としたくはないと思っていた。だから、仲間を増やすことを最大の禁忌としてずっと生きてきた。
 触れれば折れてしまいそうなその細い首に唇を押し当てて血を喰らい、その上で自らの呪われた血を与えれば、少女を終わりなき夜の世界へとひきずり込むことが出来る。それは彼にとって実に容易(たやす)いことだ——
 しかし、涼やかな顔に少しも苦渋の色を浮かべることなく、彼は湧きあがった欲望を抑え込んだ。そして首筋に口付ける代わりに、ルナの前にすっと手を差し出した。
 まるでダンスを申し込むかのように優雅に差し出された手の上には、月明かりを受けて神秘的な光を放つ銀色の指輪が乗っている。
 ルナは躊躇いがちに手を伸ばし、青年の顔色を窺いながらもそれをそっと拾い上げた。
「それは、約束の証だ」
「約束?」
「私の花嫁になるという約束だ。私の花嫁になるということは、終わりなき夜の世界を共に生きることを意味する」
「ずっと一緒ってことね!」
 青年は微かに笑い、
「だが、そなたはまだ幼い。そなたが……そう、十六になった時、迎えに来よう。私との約束を覚えていれば、だが——」
 こんな約束など彼女はきっと忘れてしまう。そう彼は思っていた。子供の頃の記憶は大人になるにつれ薄れていき、最後には朝露のように消えてしまうのだ。
 ルナは暫くの間、自分の小さな手の中にある銀色の指輪に視線を落としていたが、やがてその愛らしい顔を持ち上げ、真っすぐに青年を見上げて微笑んだ。
「うん、待ってる」
 彼は何も言わずに、ただ薄く笑みを浮かべた。
 踵を返して淋しげに去っていく背中を、ルナは見えなくなってからも、記憶の中でいつまでも見つめていた——

「約束……証……」
 燭台の灯りに照らされた部屋の中で、ルナはぼんやりと呟いた。
 月明かりが眩しい森の中、そこで出逢った美しい青年。そして、この銀の指輪——
 失われた欠片が一つ一つ集まり、形を成していく。

 ——何処で拾って来たの?
 ——木の上にいた男の人がくれたのよ。
 ——まぁ、ルナったら。きっと鳥が何処からか咥(くわ)えてきて、落としてしまったのね。

 この指輪は母に貰ったものだと思い込んでいた。しかし、そうではなかったことが徐々に思い出されていく。

 ——あらあら、また落として……まだ大きいから紐に通してあげるわね……。

 まだ幼いルナには大きすぎてすぐに指から抜け落ちてしまい、その度にしゃがみ込んでは大事そうに拾っていた。それを見かねた母が、紐に通して首にかけてくれたのだ。
(どうして忘れてたの、こんな大事なこと……)
 指輪をはめた手の震えを、もう片方の手で包み込む。
(これは、あの人がくれたもの……そして……)

 木の上の青年……あれは間違いなく彼だわ——

 そう言い切れるのは、記憶の中の青年とハディスの間には、十数年の時の隔たりがある筈なのに、その容姿は全くと言っていいほど変わっていないからだ。思い出した瞬間、まるで前世の恋人を思い出したかのような衝撃が胸の内を駆け抜けたが、それと同時にルナの視線は自然と先程の紙片へと注がれる。
 
 真実を知りたければ——

 耳の奥で、カイの声がそう囁いた。それを合図に、疑問が次々と溢れてくる。
 もしかして迎えに来たの? もしそうなら、どうして言ってくれないの?
 私が忘れてたから、怒ってるの……?
 胸の前できゅっと繊手を組み、ルナは覚悟を決めた。
 テーブルの上に置かれた燭台の炎に、手紙をさっと焼(く)べてしまう。昂然と顎を反らし、しっかりと前を見据えた。ドレスの裾が足に纏わりつくことも厭わずに、足早に窓辺へと駆け寄り、勢いよく窓を開け放つ。
 夜明けにはまだ遠く、辺りは闇一色に染まっている。ただ、天上の月だけがひたすら眩しく、ハディスの生きる夜の世界をうっすらと浮かび上がらせている。
 遙か眼下に巣食う闇は、両手を広げてルナが来るのを今か今かと待ち構えている。途中で救いの手が差し伸べられなければ、そのまま地の果てへ真っ逆さまだ。受け止めてくれると手紙にはあったが、出会ったばかりの彼を果たして信用して良いものかと訝る。
(でも、もし私を殺したいのなら……)
 こんな迂遠な方法をとる必要はないのではないか。魔物である彼にとって、ルナを殺すことは簡単だ。顔を合わせた瞬間に殺されていても、おかしくはなかった。でも、彼はそうしなかった。
(迷ってなんかいられないわ——)
 心に再び迷いが生じる前に、ルナは勇気を奮い立たせて夜の世界へと一気に旅立った——
 ばさっとくぐもった音をたててドレスが風に煽られ、そのまま急速に落下する。激しく風が吹き上げるが、少しもルナを持ち上げてはくれない。支えを失った恐怖に意識が飛びそうになり、指輪を強く強く握り締める。
「本当に飛び降りたのか」
 耳元で呟く声があり、ルナははっとなって閉じかけていた瞼を開いた。勢いよく落下していた身体が、ふわりとすくい上げられる。
 状況を確認しようと顔を上げた瞬間、紅い目と視線が合った。
「きゃあっ」
「……人の顔を見て、きゃあ、はないんじゃないか、お姫様?」
「え、あ——」
 ルナは漸く自分の置かれた状況を理解する。闇の狭間を漂うようにして浮いているカイの腕に、力強く抱きとめられていたのだ。
「あ、ありがとう……」
「飛び降りろと言った俺に、礼を言うのか?」
 それでも、とルナは息を整える。
「飛び降りたのは私の意志よ」
 琥珀色の瞳が射るようにカイを見据え、紡いだ言葉に真実味を与える。誰に言われたからではない。真実を求めて、自らの意志で塔の窓から飛び立ったのだ。
「守られるだけのお姫様かと思っていたが……」
 唇を楽しげにつり上げ、ルナの脇腹にまわしていた手に力を入れる。
「ちゃんと掴まってろよ。次は拾ってやらん」
「え? きゃ——」
 身体がほんの少し沈み込んだかと思えば、カイはルナを抱いたまま空高く飛翔した。黒いマントが蝙蝠の羽のように風を切り、星々の合間を凄まじい速さで飛んでいく。
 唸る風にかき消されないように、ルナは語気を強めて訊いた。
「お願い、教えて。真実って何? 何を隠してるの!?」
「……その目で見るといい」
 それきり、彼は何を尋ねても答えを返さなくなってしまった。
 カイが空を一つ蹴る度に、景色が目まぐるしく変わった。そして、どれだけの距離を飛んだのか、カイは密集した森林地帯へと緩やかに降りていき、形の良い適当な木の枝に着地した。着地の衝撃は殆どなく、ただ僅かに枝をしならせ葉を散らせた。
 目的地に着いたのかと、周囲に目を配らせたルナの瞳が、あっ……と見開かれる。
「ここは——」
 乱立する樹木、重なり合った枝葉の隙間から漏れる淡い月明かり。
 ありふれた景色だが、この地に慣れ親しんだルナには分かる。
「西の森……西の森だわ!」
 ルナの生まれ育った家の裏手に広がるウェッダの森を、村人はそう呼んでいた。そして記憶が正しければ、ここから森の出口まではすぐだ。
「お願い、下へ降ろして」
 懇願するように言うと、カイは何も言わずに地に降り、ルナを解放してくれる。自由になったルナはすぐに辺りを見回し、ああ、と歓喜に震え口元を手で覆う。記憶が導くままに、村のある方へと駆け出した。
(お父さん、お母さん、マルス、みんなっ——)
 息を弾ませながら、ルナは村を目指して必死に森の中を突っ切って行く。木の枝がドレスのレースを破いてしまっても、気にせずに走り続ける。すると、記憶の中にある通り、目の前に森の切れ目が見えてきた。

「な……に……」
 青ざめたルナの唇から、漸くその二音だけが零れ落ちる。
 森を抜けたルナは、凍りついた表情で目の前の光景を見た——
「嘘……嘘よ……」
 家があった筈の場所に家は無く、それどころか村すら無かった。
 白々とした月明かりに照らされ、乾いた大地が黒く視界を埋め尽くしている。家屋の残骸と思われる瓦礫の山があちらこちらに点在し、辛うじて形を留めている家はあっても、皆一様に廃家(はいか)と化している。
「いいか、これが真実だ。お前の帰りたかった村はもうない」
 現実をはっきりと告げたカイの言葉が、深く心に突き刺さる。
「どうして……こんな……」
「馬鹿だね——」
 すっと隣に現れた影が、ルナの肩に手を添えて言う。
「ずっと囚われのお姫様でいれば良かったのに、真実を知ろうとするなど……」
(——!?)
 声のした方を振り向いたルナの瞳が、驚きに瞠られる。
「ハディス……?」
 青ざめた顔のまま名を呼ぶと、ハディスは目を細めて淋しそうに微笑んだ。
 カイの方を振り返り、涼しげな佇まいに冷たい怒りを纏わせる。
「カイ……何故、ルナをここに連れてきた?」
「何故?」
 カイも負けじと声に怒気を含ませる。
「お前の目を覚まさせる為だ。お前はルナを馬鹿と言ったが、馬鹿はお前の方だ。この娘の血がどれだけ危険か分かってる筈だ。なのに——」
「危険? 危険って何?」
「知る必要はないよ」
 ハディスは冷たく突き放す。
 ルナは顔を上げ、真っすぐハディスを見た。
 故郷の凄惨な光景を目の当たりにし、色を失った顔。けれど、その瞳に揺るぎない意志を宿してハディスに迫る。
「お願い、教えて。何を隠してるの?」
「ルナ、これ以上——」
「私はまだ何か忘れてるの?」
 ハディスははっとなって、答えを待つルナの瞳を見つめた。
 ルナの心を透かし見て、夜気で冷たくなった頬にそっと手を添える。
「思い……出したのか……」
 頷く代わりに、ルナは薄く笑みを返した。
 顔が青白いのは月明かりのせいではない。それでも、想いを告げるようにルナは出来得る限りの笑みをハディスに向ける。
「ルナ——」
 愛しさを籠めて名を呼んだ彼の声が、しかしふいに緊張を孕んで途切れた。
「話は後だ……」
 え、とルナが尋ねようとした時。
 辺りに淀んだ空気が立ち籠め、ルナの背筋をぞくりとさせた。
「お出ましか」
 カイが分かったような言葉を吐く。
 心臓をわしづかみされたような不快感に、ルナは全身を強張らせた。
(何……この感じ……どこかで——)
「出てきたらどうだ?」
 ハディスが闇に向かって冷やかな声を投げると、くくく……と押し殺したような笑い声と共に、その男は忽然と闇の中から姿を現した。
 異様な程白い長衣が目を引いた。冴え冴えとした青銀の髪を鬱陶しげもなく頬にかけている。くせのない細い髪の合間から覗く顔は端整だが、研ぎ澄まされた刃物のような美しさだ。
 男の正体を知らしめる紅い瞳が意味ありげにルナを見やり、その這うような視線にルナは唇を震わせた。
「私……知ってる……」
 そんな言葉が考えるよりも早くルナの口を衝いて出た。記憶はないのに、身体は鮮明に目の前の男を覚えている。
「知ってる、とは。つれないことを言ってくれる。私とお前は、まごうことなき血の絆で結ばれているというのに」
「血の……絆……?」
「ルナ、耳を貸す必要はないよ」
 窘(たしな)めるように言い、ハディスがすっと一歩前に出る。男は愉快そうに喉の奥で笑った。
「また邪魔立てする気か?」
(また……?)
 引っかかりを覚え、ルナの心がざわつく。
 男から隠すようにして立つハディスの背中。煌めく月光を纏いつかせた長い白金の髪が、風の軌跡を描いてさらりと靡く。
 目にしているものが現在(いま)なのか、それとも過去の残影なのか、ルナは一瞬判断がつかなくなった。
(前にも、こんなことが……あった?)
「我が花嫁を攫っておいて騎士気取りとは」
(え——?)
 男は自分の放った一言がルナの興味を引いたことを分かってか、声音を甘やかなものへと変えて、ハディスの背後へと言葉をかける。
「ルナ、この男は私からお前を奪った憎き者なのだよ」
「何を言ってるの?」
「ルナ——」
 ハディスの制止を無視して、ルナはのろのろと進み出る。
 震えを必死に抑え込んで対峙するルナを見て、男は不快気に眉根を寄せた。
「ああ、大分薄れてしまった。我らの絆を断とうとするなど、実に許し難いが——」
 そこで男は愉しげに口の端を引き上げた。
「愚かしい行為を繰り返すこやつを見るのも、中々愉快というもの」
 男に跳びかかろうとするハディスを、カイが腕を引いて止める。
「カイ——」
「この娘は村の惨状を知った。もう何も隠す必要はないだろう?」
 カイの言葉に、一つの真実がルナの脳裏を掠めた。
「じゃあ……私を城に閉じ込めたのは……?」
 カイに腕を掴まれたまま、ハディスは沈鬱な面持ちでルナを見る。ルナの眦(まなじり)に雫が浮かんだ。村を失った悲しみと、それを知られまいとしたハディスの想いに、胸の奥が熱くなる。
「我らは生き血を糧に永劫の時を生きる。中でも、人間の血はとりわけ甘美だ」
 見つめ合う二人を見て、男は低い笑声(しょうせい)と共に言う。
「そんな我らにも避けねばならぬ血がある。同族の血……それだけは禁忌(タブー)なのだ」
(禁忌(タブー)——)
 カイも前に言っていた、同族の血は禁忌(タブー)だと。しかし、それが何だと言うのか。そんなルナの疑問を見透かしたように、男は訊いてきた。
「何故、禁忌(タブー)だか分かるか?」
「……分からないわ」
 ルナは怖れを包み隠して答える。男はくつくつと笑った。
「毒なのだよ、自分以外の同族の血は。触れただけでも、不死の身に多大な損傷(ダメージ)を与える。つまり、お前の血はその男の命を奪いかねないのだよ」
(私の血がハディスを殺す? そんなの——)
「ありえないわ。だって私は……」
「人間、か?」
 男がルナの言葉を攫い、嘲笑も露わに言う。
「感じぬか? お前の身体に息づく吸血鬼の血を」
 男の言葉に反応して、どくん、と鼓動が跳ねた。
(何……気持ち悪い……)
「ルナ!」
「思い出さぬか? あの甘美な瞬間を——」
 男が近付いて来る気配にルナは、はっと顔を上げた。
 血に濡れた紅い瞳、愉悦に歪んだ唇、その僅かな隙間から零れ落ちる白い牙——
「いやっ——」
 ルナは両手で顔を覆って震えた。記憶の奥底に封じ込めていた光景が、まざまざと眼裏(まなうら)に蘇り、ルナの視界を支配した。
(そうだわ、あの時、私はこの男の牙にかかって、無理矢理この男の血を飲まされて——ああ、でも、それよりも——)
「あなたが、あなたが村をっ!」
 ルナは渾身の力を振り絞って叫んだ。
「どうして、どうしてなの!?」
「私の手にかかり、無残に死んでゆく者の断末魔は、どんな楽の音よりも心地良い」
 紅い瞳が狂気に彩られ、生気のない白い腕がルナを引き寄せる。
「いや、放して!」
「ルナ! ——手を放せ、カイ」
 鋭い視線で威圧するが、カイはどこ吹く風だ。
 茶番としか映らない光景を一瞥し、男は腕(かいな)に抱いたルナの耳朶(じだ)に甘く囁く。
「さて、そこの男のせいで吸血鬼化が中途半端となってしまったが……今度はじっくりと時をかけて血の儀式を執り行ってやろう」
「ハディスの……せいって……?」
「その男は、毎夜お前の血を吸っていたのだろう? 私の血を飲んだことで吸血鬼へと変化しつつあるお前の血を。愚かにも、その男はお前の中に流れる私の血を吸い出すことで吸血鬼化を抑え、お前を人間に戻そうとしていたのだよ」
「嘘、そんなことしたら……」
 がくがくと身体を震わせるルナに、男は容赦なく続ける。
「そやつに中断されたとはいえ、微量でも私の血に犯されたお前の血は猛毒だ。冷静を取り繕っているようだが、相当に弱っているのが見て取れるぞ?」
(そんな——)
 男の腕の中でルナはもがくように身をよじり、ハディスを見る。
「ルナ、心配ない。私は——」
「そういうことは、俺の腕を振りほどいてから言ったらどうだ? 本来のお前は、あんな吸血鬼に負けない力を持っている。実際、難なくあの娘をかっ攫って来たんだからな。だが、今のざまは何だ?」
 くっ……とハディスは唇を噛みしめた。今も必死にカイの拘束を解こうとしているが、思うように力が入らない。
「あの娘を殺すことは俺も本意じゃない。無闇な殺生は嫌いだ。だが、あいつは花嫁にしてくれると言うんだ。殺されはしない」
 犬歯を覗かせて笑うカイを見て、ハディスは彼の真意を理解する。
 ルナの血に含まれていた、男の血。それを媒介に、その男のみが近付くことが出来ないよう、城には強固な結界を施していた。だからカイはルナを城から連れ出した。それも、ハディスが諦めるよう、ルナが自ら出て行くよう仕向けて。一度(ひとたび)城から出てしまえば、この男がルナの元へやって来ることは必至だ。カイは、ハディスが手を出せない状況を作り出した上で、ルナをこの男に渡してしまうつもりなのだ。
「カイっ!」
 一喝するが、彼の手が緩むことはない。
 各地を転々とし、時折思い出したようにハディスの城に顔を出す彼とは、実に二百年来のつきあいだが、友達思いの熱い一面を持っていた。
「さぁ、ルナ。我が花嫁よ。参列者もいることだ、我らの婚儀を始めるとしよう」
「いや……っ! どうして私なの!?」
 男は牙を完全に穿(うが)つ寸前で顔を上げた。
 この男が自分に固執する理由が分からない。
「私を好きなわけでもないのでしょう? そんな私をどうして花嫁にするというの!?」
 男は笑った。ひどく愉しげに、咽(むせ)ぶように嗤笑(ししょう)した。ルナの顎を指先で持ち上げ、怯えながらも決して屈することのない、琥珀色の瞳を覗き込む。
「愛しているとも」
(!?)
 思いがけない言葉に、ルナの目が大きく瞠られる。
「私は死にゆく者の断末魔が好きだ。だが、死んでしまっては、それ以上私を愉しませてはくれまい?」
「何を言って……」
「村一つを滅ぼしたとて、覚えている者がいなければ興が冷めるというもの」
 男の爪が嬲るように頬を撫で、ルナの背筋を悪寒が走る。
「村の惨状をお前は忘れまい。私の血を受けて不死の身となれば、その悲しみは永遠に失われることはない。私はそんなお前を見ていたいのだよ」
 男の狂気にあてられ、ルナはくらりと目眩を覚えるが、必死に自我を保とうとする。
「ああ、その目だ……絶望して逃げまどう者達の中で、お前だけが私を強く睨み据えていた。愛する家族の亡骸を胸に抱きながらも、その瞳は射抜くように私を見ていた。悲壮を湛えた瞳は、私をこの上なく甘美な気分に浸らせてくれる」
 男はうっとりとした表情で言う。
「そんなお前を、私は愛することが出来るのだよ」
「く……狂ってるわ……」
「狂っているか……だが、無為に過ぎ行く時の中で私が歓(よろこ)びを得るのは、狂気に酔いしれている時だけなのだよ」
 男はうっすら微笑んだ。その微笑はルナの心を一瞬とらえたが、考えるよりも先に行為を再開され思考は霧散する。首筋に落とされた冷たい唇の感触に、いよいよ逃げられないと悟り、ルナはぎゅっと目を瞑った。
 しかし次の瞬間、男はルナを抱いたまま、どうしてか後ろへ飛び退った。
 突然のことに悲鳴を上げると、目の前を白金の髪が流れた。伸びてきた手がルナの腕を掴み、男から引き剥がすようにして強く抱き寄せる。
「ルナ——」
 表情の乏しい顔が心配そうにルナを見ていた。
「ハディス……?」
 その名を唇に乗せた瞬間、ハディスは地面を蹴って高く跳躍した。風が凄まじい速さで下へ下へと流れて行き、ルナはぐっと息を殺した。
 大きな月が間近に迫り、激昂する男の声とカイの叫ぶ声が遙か下の方から聞こえた。
 それらを無視して、ハディスは瞬く間に森の中へと姿を隠し、ルナを草の上に降ろした。
(ここは——)
 満天の星空、その下に広がる大きな湖面にも、同じように輝く夜空があった。
「ルナ、すまない……」
「何を謝るの?」
「そなたの血が流れたことに気付いて駆けつけた時には、既に村は失われた後だった。何故、もっと早くに気付けなかったのか……」
 そんなこと、とルナは訴える。村のことで彼に辛い想いをさせてしまっていることが、何よりも辛かった。
「連れて行かれそうになるそなたを、私はあの男から奪い去り城に連れ帰った。記憶を失っていることを知ってからは、真実から遠ざけることで私はそなたを守ろうとした。だが、私はただルナを側に置いておきたかっただけなのかもしれない」
 ルナの手をとり、その指にはめられた指輪をそっとなぞる。
「そなたは、これを母から貰ったものだと言っていた。悲しくはなかったよ。子供の頃の記憶など、いずれ消えてしまうことは分かっていた。だから私はあの時、そなたを仲間にしようと考えた」
 見上げてくる琥珀色の瞳に、彼は儚げに微笑んだ。
「同じだよ、あの男と。私は同じことをしようとした。私に向けられたその穢れのない瞳、私を一人にしたくはないと言ったその純粋な心……それら全てを閉じ込めて、永い夜を共に生きてほしいと、私は思ってしまった」
「でも、あの時……あなたは……」
「そう、出来なかったよ。こんな呪われた身に、そなたを堕とすことの罪深さを思えば。だから、代わりにその指輪を贈った。約束を覚えていたなら、花嫁として迎えに来る、と」
 切なげに目を細めながら、永い時を生きる者にとっては、ほんの少し前にしか感じない日のことを彼は思い出していた。
「忘れられてしまうと分かっていながら、それでも私は約束が欲しかった。十数年の年月(としつき)など、私にとっては瞬(まばた)くほどの時間だが、そんな僅かな時間でもいい。ただ無情に流れていく時を、あの娘は約束を覚えているだろうか、例え忘れても思い出してくれるのではないか。そう思いながら過ごすことが出来ればと、私は願ったのだ」
 琥珀色の双眸から零れ落ちた雫を、彼はそっと指ですくった。
「何故、そなたがそんな顔をする」
 あの時と変わらない声と調子で、ハディスは同じことを言った。
 終わりなき旅に疲弊した顔はとても優しくて、それで余計に涙が溢れてくる。
「そなたは何も変わっていないな。穢れのない瞳も、その純粋な心も」
 ハディスは安心したように微笑むと、ついと視線を上げて夜空を見た。その目は先程までの優しさを失い、鋭く虚空を睨んでいる。
「ハディス……?」
「あの男が近付いてくる」
 さっと顔を青くしたルナを、ハディスは胸に抱き寄せる。
「ルナ、心配はいらない。必ずそなたを守る。私は魔物だから神ではなく、私達を引き合わせたあの天上の月に誓うよ」
 ハディスの強い優しさに包まれ、ルナも彼の身体を抱き締め返す。
「ごめんなさい……」
 平然を装ってはいるけれど、元々弱っていた上にルナを助けてここまで飛んできたのだ。
 相当に力を消耗している筈だ。
(私に力があれば……)
 そこでルナははっと顔を上げた。
 ルナの思い詰めた表情に、ハディスは心配げに頬を撫でた。
「どうした?」
(そうよ、私にも出来ることがあるわ……!)
「ハディス、お願いがあるの」 
 ルナは琥珀色の瞳に力を籠めて、その願いを口にした。

「あの男は何処へ行った?」
 月光を遮るようにして、男が空から舞い降りる。
 ルナがただ一人湖の縁に立っているのを不審げに見るが、すぐに酷薄な笑みを浮かべた。
「あれだけ弱っていたのだ、灰にでもなったか?」
 男の軽口にルナはただ睨むような視線を向けるが、男は嬉々としてそれを受け入れる。
「美しい……」
 感嘆めいた声すら漏らし、無遠慮にルナの顎を掴んで無理矢理顔を引き寄せる。
「そうだ、私をもっと憎め。憎悪に歪んだ瞳を見せてみろ」
 ルナは顔を背けた。けれど、それすらも男には楽しい演出の一つに過ぎない。
「そんな風に顔を逸らすと、ここが無防備になるぞ?」
 首筋をぺろりと舐められ、ルナは顔を背けたままびくりと身を震わせた。ひやりと冷たい手と同様に吹きかけられる息は凍っているが、縦横無尽に這いまわる唇は、白く透き通った肌に赤い花を散らすように熱を刻んでいく。
「散々、焦らしてくれたのだ。お前の血は、さぞや私を酔わせてくれるのだろう?」
 言いつつ、虚ろな瞳は既に酩酊(めいてい)したように正気を失っている。
 尖った牙が、ぷつりと音を立ててルナの肌を傷つけた。
「——っ」
 きつく目を閉じてその痛みをやり過ごすが、男の牙が深く深く肌へと侵入する嫌悪感にルナは唇を戦慄(わなな)かせた。血を吸い上げられる感覚に足元がよろめきそうになるが、男の胸を頼ることだけは絶対にしたくない。
(ハディスっ——)
 目じりに涙を溜めながら、心の中で強くその名を呼んだ時だった。
「ぐはっ……」 
 男は突如呻き声を上げると、乱暴にルナを突きとばした。
 短い悲鳴と共に、ルナの華奢な肢体は草の上に投げ出される。
「ま……さ……か……」
 がくりとその場に頽(くずお)れ、男はルナの前で片膝をついた。薄い唇からは一筋の赤い雫がこぼれ、裂けんばかりに見開かれた男の瞳は、彼がルナに執拗に求めた憎悪の色に染まっている。
「あの男の血か……っ」
「ええ、そうよ。今の私の血は、あなたにとっては禁忌(タブー)でしょ?」
「だが、あの男の血如きで……」
 ルナの言葉に男は引きつった笑みを浮かべるが、
「ぐ……かはっ…………」
 ハディスの血が男の中で暴れ出し、男は地に手をついて悶えた。長い爪が荒々しく土をかき、下草を引きちぎる。血の毒性はその個体の力に比例する。ハディスの力を今更のように思い知らされるが、男は呪いの言葉を吐くでもなく、ひとしきり暴れた後にただ狂ったように笑い出した。
「ふ……はは……は……」
 指先をさ迷わせながら、自分を見下ろすルナへと腕を伸ばす。男の手が求めるように近付いて来るのを見て、それでもルナはその場を動かなかった。
 ドレスは所々裂け、結わずに垂らした髪も風に煽られるままとなっている。しかし、その瞳は気高さを失わずに凛として男を見つめる。
 そんな彼女の瞳が、僅かに……ほんの僅かに細められた。
 憐れみを滲ませた表情が、月明かりの下で男の目に透けて見えた。
「違う……その目ではない……そんな……」
 伸ばされた手はルナに触れることなく、ぱたりと地に落ちた——。

 男が横たわっていた筈の場所には、もう何も残されてはいなかった。
 風に吹かれるままにその身を揺らす草花と違い、男はその場に留まることを許されなかった。男の姿は砂塵のように崩れていき、風と共に儚く消えてしまったのだ。
 男の手にかかって無残にも命を散らした者たちを思い、ルナは目を閉じて月に祈りを捧げた。そしてそんなルナを、後ろから包み込む人影があった。
「無茶なことをする……」
 ハディスの言葉に、ルナは静かに微笑んで見せた。
「でも、私を信じてくれたから許してくれたのでしょう?」
「そなたを危険に晒すのは本意ではないよ」
「怒ってるの?」
「怒ってなどいない。ただ……」
 目を伏せて、淋しげに言う。
「守ると言いながら、私はそなたを守ることが出来なかった。それが許せないだけだよ」
 ルナは瞬き、その瞳を優しく和ませた。
「それは嘘ね。あなたはちゃんと私を守ってくれたわ」
 鼓動を確かめるように、胸に手を当てて言う。
「あなたの血が私を守ってくれたのよ。あなたを近くで感じることが出来たから、怖いものは何もなかったわ」
「ルナ……」
 ハディスの口元に笑みが浮かんだ。しかし、すぐに忌々しげに歪められる。
「だが、そなたを一時でもあの男の自由にさせてしまった」
 頬に触れていた手を、ゆっくりと首筋へ移していく。
「……ルナ、これが最後だよ」
「え?」
 ルナは驚いたようにハディスを見上げた。
「あの男の血はもう残っていないから、あとは私の血を浄化すれば、そなたは人として生きていける。私の血は多量に飲ませてしまったが、自分の血が私を害すことはないから安心していい」
 そう言ってハディスは穏やかに微笑するけれど、ルナは少しも安心することなんて出来ない。
「あなたは、私を置いて行ってしまうつもりなの?」
 悲しげに目を細めてハディスを見ると、彼の手が再びルナの頬に触れた。
「ルナ……そなたは大切なものを失った。私と共に行くということは、更に色々なものを失うということだよ」
 ルナは想いを籠めて、優しく微笑んだ。
「ハディス、私の心は初めて逢った日から決まっていたのよ。それなのに——」
 睫毛を伏せ、憂いを滲ませて言う。
「どうしてあの約束を忘れていられたのか——」
 唇に指を当てられ、ルナは言葉を呑み込んだ。
「私は一つだけルナに嘘をついた」
「え……?」
 ハディスはやんわり微笑むと、戸惑うルナの頬にかかる髪をそっと払う。
「忘れられても悲しくはなかった、と言ったのは嘘だ。思い出してくれたと知った時、自分でも驚いてしまうほど嬉しかったのだから」
 ルナの目元に溜まっていた涙が、堪え切れずに滑り落ちる。
「一緒に連れていって。あなたを一人にしないと約束するから」
「ルナ……私もそなたを一人にはしないと約束する」
 ハディスはルナを抱き寄せると、蕾のような唇に優しく接吻(キス)を落とす。
「もし望むなら、私はそなたの悲しみを消すことが出来る。だが……」
 ルナはハディスの言わんとしていることを察し、首を横に振った。
「それは、みんなのことも忘れてしまうってことでしょ? あなたも言ったわよね。忘れられたら悲しいわ……」
「ああ、そうだな」
 ルナは彼の背中に手をまわした。
 ハディスの肩越しに、金色に輝く月が見える。
「ねぇ、見て。月が私たちを祝福してるわ」
 ルナはつとめて明るく言う。
「そなたは月が好きなのか?」
 ルナはぱちりと目を瞬いた。あの日交わした会話を思い出し、
「ええ、好きよ。ハディスは?」
 この夜の世界に、月以外に愛でるものがなかった。でも、今は——
「ああ、好きだよ。とても……」
 その意味を本当には分かっていなかったけれど、ハディスの答えにルナは嬉しそうに微笑んだ。

 そんな二人を、少しばかり面白くなさそうに見つめる影があった。
(ったく、お熱いことで……)
 がさがさと、草木をかき分けるようにして森の中を進む。
(当分、あいつの城に顔を出さなくても良さそうだな)
 不貞腐れたように呟くと、彼は漆黒のマントを翻し、闇の中に姿を隠した——。 

 【終】