一話 (2)

「きゃ……」
「愛鈴!」
 泳ぐように腕で空を掻き、何とか止まろうとしたものの、余計に裾を踏みつけてしまい、愛鈴は大きくのけぞった。倒れる、と覚悟した刹那、慧俊にその腕を掴まれ、体を支えられる。
「――軽いな」
「え……あ、あの」
「ほら、おいで」
 愛鈴が遠慮する間もなく、慧俊は愛鈴の手を引いた。
「あ、あの、あのあのあの」
「ちょうど梅が見頃だ。昼間だったら、もっとよく見えるのだけどな」
「あの、あの……」
 手が――
 慧俊は愛鈴の手をしっかり握り、躊躇する愛鈴をぐいぐいと引っ張って進んでいる。
「こっちだ。足元気をつけて」
 さっきまであれほど寒かったのに、いまは火を噴いているのではというくらい、顔が熱い。
 様々な草木のあいだを通り、流水に掛けた橋を渡り、庭の中ほどにある池亭に辿り着くと、ようやく慧俊は愛鈴の手を離した。
 離されるなり――愛鈴は、床に額を擦りつけるほどに平伏した。
「すみ、すみませんすみません、ごめんなさいっ!」
「……何をいきなり謝っている?」
「だって、だって……」
 太子に衣を借りたあげく、素手で触れてしまったのだ。この上ない無礼であることは、いくら田舎者でもわかっている。
 いったいどんな罰を受けなくてはならないのだろうと震えていると、肩にそっと手が掛かり、体を起こされた。
「おまえにそんなことをされると、私が寂しい。頼むから、立ってくれないか」
 ……寂しい?
 その言葉に、愛鈴は思わず顔を上げた。
 逆光になって、慧俊の表情はよく見えなかった。
 だが、言葉どおり、それが少し寂しげな微笑であることが、愛鈴には見えたような気がした。
「……寂しいの、嫌です」
「そうだな」
「立ちます……」
 慧俊に促されて、愛鈴はゆっくりと立ち上がった。そのまま隅の椅子に導かれ、並んで腰掛ける。
「私も太子などという立場にあるから、皆が遠慮するのはわかっているんだ。でも、いまは愛鈴とふたりだ。誰が咎めるわけでもないから、気楽にしていいんだよ」
「……遠慮されると、寂しいですか?」
「ああ、寂しいな」
 愛鈴は、慧俊の顔を間近に見ていた。その表情は、相変わらずやさしい。
「……太子様でも、寂しいんですね」
「愛鈴も、寂しかったのか」
「はい」
 寂しくないですと、繕うことはできた。だが慧俊を見ていると、そんな嘘はつかなくてもいいように思えた。
「寂しいから、月を見てました。家から見たのと、同じかと思って」
「同じだったか?」
「……」
 愛鈴は、首を横に振った。
「家で見た月は、もっと近くに見えました。……ここの月は、なんだか遠いです」
「愛鈴の家は、どこにある」
「……三狐村」
「三狐村……卯州か。それなら水路で来たんだろう。家族も一緒か」
「ひとり、です」
 驚いたように、慧俊は目を見張った。
「一人?」
「この秋は、天気が悪くてあんまりお米が取れなくて。だから、あたし……あ、わたしを、買ってもらいました」
「買ってもらった? 誰に?」
「人買いの人です。それで、都まで来ました」
「……」
 慧俊は目を見開いたまま、眉を寄せ険しい顔をした。
「あの、どうしたんですか?」
「それは……どういうことなんだ? 不作だと、人が売り買いされるというのか?」
「お米を納められなければ、お金で税を払わなくちゃいけないんです。でも、うち、お金もないですから」