二話 (3)

「佳葉、愛鈴、遅い!」
「すみませんっ」
「ほら、あたしまで怒られた……」
 慌てて列の後ろにつくと、すぐ横に楽器を持った楽人たちも並んでいた。琵琶を抱えた老人が、愛鈴を見つけて歩み寄ってくる。
「やぁ、愛鈴。あんたは今日、前には出んのかね」
「わたしが出ることなんて、ないわ」
「そりゃあ残念だ。速い曲でやらせりゃ、あんた一番上手いのにな」
「……まさか。まだまだだよ、わたしなんて」
「しかし――」
「ほら、琵琶も出番だよ。行かなくちゃ」
「おお」
 老楽師はよろよろと小走りで列を追い――ふと、振り向いた。
「愛鈴。あんたなら、いずれ『雪月梅花』を舞えるよ」
 それだけ言うと、老楽師はまた、よろめきながら走っていった。
 愛鈴は頼りない後ろ姿を見送りながら、苦笑した。
「……それこそ、まさか、だよ」
「何、愛鈴。『雪月梅花』って、あの『雪月梅花』?」
「あの爺さんも、もとは卯州の人なんだって。だからわたしを、買い被ってるのよ」
「ああ、そういうこと。そうよね、いくらなんでも、あんたにも『雪月梅花』は、無理だわ。珠燕さんにだってできないのに」
「……」
 返事はせず、愛鈴は列とともに進み、広間の隅に立った。
 目だけを動かし、その姿を探す。
 ……席は、あるけど。
 広間の両側には卓が並び、五十人ほどの貴族高官が、すでに席に着いている。しかし、正面にあるその椅子にだけは、まだ誰も座ってはいなかった。
「それにしても、地味な宴よね……」
 佳葉のつぶやきに、愛鈴は首を傾げた。
「地味なの?」
 思わず広間を見まわすが、庭に面した窓は大きく開かれて明るく、壁や柱には作りものの花が飾られ、貴族たちは上等な衣を着ている。どこも地味には見えない。
「地味よ。帝様がお元気なころは、月に三回は宴が催されてたでしょ。それも、宵のうちから朝まで。あんたは知らないでしょうけど、見事な芸を披露した妓女には、たくさん褒美が出るのよ」
「へぇ?」
「それが、帝様が御病気になられてからは、全然やらなくなって。やっとあたしたちも、前に出て舞わせてはもらえなくても、こうして後ろで踊れるようになってきたっていうのに」
 妓女になって最初の一、二年は、まだ宴の場に入ることすらできない。佳葉は一度、帝が病気になる前の、曰く地味ではない宴に出たことがあったが、愛鈴は今度が初めてである。
「でも、また宴が開かれるようになったんだから、いいじゃない」
「昼間から日が暮れるまででしょ。褒美もせいぜい、銀銭一枚って聞いたわよ。地味すぎるわ」
「……」
 佳葉の不満が、誰に対して向けられているのか、愛鈴にはわかっていた。――もともと病がちだった帝が、ついに床に伏すようになって半年。代わって政務を取り仕切っているのは、後継ぎの慧俊である。
 ……父さんや母さんが病気になってしまったら、わたしなら、宴どころじゃないけどな。
 それでも慧俊が、控え目にしながらも宴を開いた訳は、こうして隅からでも見ていれば、愛鈴にも何となく察することはできた。
 酒食の並ぶ卓で、多くの貴族がにやにやと、締まりのない顔を隠そうともせずに、妓女たちを眺めている。彼らは帝の病など関係なく、宴が好きなのだろう。
 鈴の音がして――広間は、急に静まった。
 やがて奥の部屋から、背の高い青年が出てくる。
 愛鈴は袖を握りしめ、瞬きもせず、その姿を見つめた。
 三年――
 あの夜のことが夢ではないかと疑いそうになるほど、やはりその人は遠かった。
 顔を見ることも叶わず、初めて出られた前の宴のときは、姿を見せていなかった。
 ……慧俊様。
 目の縁が熱くなって、愛鈴は唇を噛みしめる。
 黙ったまま慧俊は席に着き、代わりに宰相が、酒盃を持って立ち上がった。貴族らも同じように、盃を掲げる。
「――猿国の繁栄に!」
 皆が一斉に酒を飲み干し、楽師たちが演奏を始める。