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      <title>小学館：ルルル文庫／WEB小説_舞姫恋風伝</title>
      <link>http://lu3.gagaga-lululu.jp/maihime/</link>
      <description>ルルル文庫WEB小説</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2011</copyright>
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            <item>
         <title>三十三話（１）</title>
         <description>小鳥の鳴く声がする。
　目覚めたのは、いつもと同じ朝。――同じ部屋の、見慣れた光景。
「あ、起きた」
　……に、何故か、佳葉がいた。
「佳葉……ちゃん？」
「おはよ。気分はどう？」
「……どうなのかなぁ……」
　いつもと同じ目覚めのはずなのに、妙に体がだるい。
「どうなのかなぁって何よ。いいのか悪いのか、はっきりしなさい」
「悪くはないんだけど……」
　佳葉は愛鈴の寝台を覗き込んで、困ったような呆れたような、曖昧な笑みを浮かべている。
「いつもより窮屈なところで寝たからじゃないの？　起きて体を伸ばせば、すっきりするわよ」
「そうかなぁ……って、へ？」
　素直に起き上がった愛鈴は、狭い自分の寝台に、もうひとり誰かが寝そべっているのに気づいた。
　慧俊が。
「……ひゃ……」
「しっ！」
　愛鈴の絶叫を、佳葉が袖で口を押さえて寸止めする。
「落ち着いて。静かにして。手、離すわよ？　いい？　一、二、三――」
「……」
　叫びはしなかったものの、口を大きく開けたまま、愛鈴は傍らに寝転んで眠っている慧俊と、曖昧な表情の佳葉を、交互に見比べた。
「かっ、か、佳葉ちゃ……」
「そんな真っ赤にならなくても、何もなかったと思うわよ？」
「そそ、そうじゃなくって……」
「よかったわね、あんたの恋人、寝相がいいみたいで。あたし、朝起きたらあんたが落っことされてるんじゃないかと――」
「佳葉ちゃんっ！」
　ほとんど泣き顔で、愛鈴が佳葉の袖を掴む。
　佳葉はため息をついて、肩をすくめた。
「あんたの恋人が目を覚ます前に、まず着替えない？　あんたの格好、昨日のままなのよ。まったく、ひどいことになっちゃって……」
「あ」
　髪は解け、衣装はあちこち破れて、片袖もちぎれている。確かに散々な格好だった。
「あー……昨日、わたし……」
「東和殿で気を失って、太子殿下にそのまま運ばれてきたのよ。で、どういうわけか、殿下もここに居座ってるんだけど」
「……うそぉ」
「嘘って言われても、見てのとおりよ。ほら、さっさと着替えないと」
「こ、ここで？」
「あんたの部屋でしょ」
　間違いなく愛鈴の部屋だったが、すぐそこで、慧俊が寝ているのだ。
　愛鈴は佳葉の袖にしがみつきながら、半泣きで首を振り、小声で訴える。
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         <category>033三十三話</category>
         <pubDate>Wed, 02 Jul 2008 00:03:56 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十三話（２）</title>
         <description>「途中で起きちゃったら、やだ……」
「あんたの恋人でしょっ」
「そ……そうなの？」
「あたしに訊かないでよっ」
「……起きているが目はつぶっているから、いまのうちに身支度してもらえないか」
　きゃっと叫んで、愛鈴と佳葉は同時に振り向いた。
「いやだ、起きてたんですか？」
「話し声が聞こえたからな」
「ご、ごめんなさい……」
　目を開け、苦笑して慧俊は起き上がった。愛鈴は、思わず佳葉の後ろに隠れてしまう。
「おはよう。昨夜は勝手に寝台を借りて、すまなかった」
「お、おはようございます。……あの……どうして……？」
「話が先でいいのか？」
　自分の部屋のようにくつろいだ格好で寝台に座っている慧俊に、佳葉がさらに大きく息を吐いて、背後の愛鈴を肩越しに見た。
「愛鈴。お湯、使いに行きましょ」
「あ、朝から？」
「いいから支度させちゃうの。――おとなしく待っててくれますね、太子殿下？」
「もうひと寝入りさせてもらおう」
「愛鈴、着替え持って。みんなが起きてこないうちに、早く」
「え……あ、うん……」
　剥き出しの片腕を隠すように身を縮め、慧俊を振り返りつつ、しかし、まだこの状況がよくわからないまま、愛鈴は佳葉に連れられて部屋を出た。
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         <category>033三十三話</category>
         <pubDate>Wed, 09 Jul 2008 00:00:22 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十四話（１）</title>
         <description>「あんたの部屋に隠れてるのよ、太子殿下は」
「……隠れてる？」
「どんな考えがあるのか、あたしにもわからないけど――」
　愛鈴の洗い髪を、佳葉が丁寧に櫛でとかしていく。
「昨日あんたが東和殿で倒れた後、太子殿下が自分で、あんたをここまで運んできてね」
「え……」
「本当よ。――こら、動かないの。それで、しばらく身を隠さなきゃいけないけど、宮殿から出てもいけない。だから教坊でかくまってくれって。もっとも、太子殿下がここにいることを知ってるのは、あたしと慈雲と、あんただけなんだけど」
「……」
　櫛を置いて、佳葉は愛鈴の髪のひと房を手に取った。
「切れちゃったわね、ここ」
「あ……たぶん、剣が当たって」
「伸びるのを待つしかないか。……あたしも無茶したって慈雲に怒られたけど、あんたのが、よっぽど無茶したわ」
　何があったかは、慧俊にでも聞いたのだろう。佳葉がやさしく苦笑する。
「佳葉ちゃんは……大丈夫だったの？」
「あたし？　おかげさまで、転んで膝に痣ができたわ。他には何とも」
「みんなは……」
「無傷よ。大暴れして楽しかったって、笑ってた」
「……そっか」
　鏡越しに、愛鈴は佳葉に微笑んだ。
「佳葉ちゃん」
「なに？」
「いろいろ、ありがとう。……慈雲さんには、謝らなくちゃね」
「必要ないわ」
　佳葉は別の櫛を持ち、愛鈴の髪を結い始める。
「あいつ、生意気なのよ。あたしが何も言ってないのに、勝手にあたしを嫁にするって、親と話を進めちゃって――あ、動かないでってば！」
　勢いよく振り向いた、愛鈴の髪が、はらりと散らばる。
「……第一夫人？」
「そうらしいわ」
　佳葉が決まり悪そうに顔を赤らめ、愛鈴はぱっと笑った。
「おめでとう！　すごい。……嬉しい！」
「……ありがと」
　早口でそう応えて、佳葉は愛鈴の頭を無理やり前に向かせ、髪を結い直した。愛鈴は鏡の中の佳葉ににこにこと笑いかけたが、佳葉は落ち着かなく瞬きしながら、わざと唇を尖らせる。
「そっか……。あ、それじゃ、佳葉ちゃん、宮妓辞めちゃうの？」
「すぐじゃないと思うけど、そのうちね」
「嬉しいけど、寂しいな」
「遊びに来るわよ。屋敷にこもってても、つまらないもの」
　結い上げた髪に梅の簪を挿してやり、佳葉は愛鈴の肩を叩いた。
「はい、できた」
「ありがとっ。ね、襟、曲がってない？」
「平気よ」
　愛鈴は立ち上がって、薄桃色の衣の裾を手で伸ばし、緋色の帯を締め直す。
　慧俊とふたりで逢うのは、いつも夜だった。明るいところで姿を見られるのには、まだあまり慣れていない。
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         <category>034三十四話</category>
         <pubDate>Wed, 16 Jul 2008 00:00:12 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十四話（２）</title>
         <description>「……だいじょうぶ？」
「大丈夫、大丈夫。可愛いわよ」
　佳葉に促され廊下に出ると、妓女たちが忙しなく、それぞれの部屋を出入りしていた。皆、どこか深刻な顔をしている。
「……何かあったの？」
「あ――佳葉、愛鈴」
　通りすがりの妓女が足を止め、声をひそめた。
「帝様が亡くなられたわ」
「えっ……」
「さっき、知らせがあって。――私たちも喪に服すようにって、しばらく稽古はなし」
「……」
　佳葉が愛鈴を振り返る。
　愛鈴も硬い表情で、頷いた。
「わたしが……」
「……そうね」
　妓女たちのあいだに次々と話が広まり、宿舎が慌しくなる中、愛鈴は自分の部屋へ戻った。
　慧俊は寝てはおらず、窓辺の椅子に腰掛け、庭を眺めていた。
　その手には、梅の枝があった。
　ちりん――と、小さな音が響く。
　二日前の宴のとき、その枝を持っていこうとした愛鈴に、そのままでは味気ないだろうと、佳葉が紅く塗った鈴を結いつけてくれたのだ。
「……まだ持っていてくれたとは、思わなかった」
　ゆっくりと部屋の中に視線を戻し、慧俊は、愛鈴を見た。
「わたしの……宝物です」
「……そうか」
「慧俊様」
　少しためらって、愛鈴は、帝様が亡くなられました、と告げた。
　慧俊は驚く様子もなく、ただ、頷く。
「……お顔を見に行かなくて、いいんですか？」
「いいんだ。別れなら、一昨日済ませた」
　ちりん――
　慧俊は苦笑して、愛鈴に手招きした。愛鈴は、数歩近づく。
「そんな顔をするな。もう私は、息子ではなく、帝位の後継者しとて動かなくてはならない。……もっとも、いまは、あちらの出方を待っている状況だがな」
「……」
「愛鈴」
　もっとこちらへと、さらに手招きされて、愛鈴は慧俊の側に歩み寄った。
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         <category>034三十四話</category>
         <pubDate>Wed, 23 Jul 2008 00:00:40 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十四話（３）</title>
         <description>「……どこから話そうか」
　愛鈴の手を取り、慧俊が微笑む。
「昨日、張佳葉から少し聞いたんだが――愛鈴は、曹褒姫が昇貴の部屋にいるところを見たのか？」
「あ……はい。あの、伊福さんと一緒に……」
　指先を軽く握られているだけなのに、それだけで身の置きどころがなくて、愛鈴はうつむき、目を逸らしてしまう。
「でも、あの、そのときは、曹褒姫様だと知らなくて……」
「昨日の宴で？」
「……宴では、わかりませんでした。ずいぶん後に気づいて、それで……」
　最初におかしいと思ったのは佳葉だったと話すと、慧俊も頷いた。
「私も不審に思ったのは、あのときだった。曹家が昇貴と通じているのは、知らなかったからな。それで曹家がどう出るかと、あえて策に乗ったふりをしてみたんだが……まさか、おまえの耳に入っていたとは思ってもいなかった」
「……教坊は、早耳なんです」
「そうらしいな」
　慧俊は声を立てて笑い――それからふと真顔に戻り、愛鈴の手を、強く握った。
「……おまえが無事でよかった」
　握った愛鈴の指先に、慧俊が、静かに口づける。
「私自身は、昇貴に命を狙われることなど珍しくもなかった。……だから、それほど大事とも思っていなくて……おまえが、そこまで身を案じてくれているというのも……きっと、わかっていなかった」
「……」
「すまなかった。……遠ざけていれば、おまえに害が及ぶことはないと思っていたんだが、そのせいで、おまえに余計な気苦労をさせてしまったんだな」
　指先の熱と、あたたかな眼差しに、しばらくぼんやりとしてしまっていた愛鈴は、言われたことの意味を解するなり、慌てて首を振った。
「そんな。あのっ……わたしは、慧俊様が御無事なら、それで」
「ありがとう」
　愛鈴の手を取ったまま、慧俊が立ち上がる。
　もう片方の手には、梅の枝。
　いつかの夜のように、慧俊は、愛鈴の髪に、そっとそれを挿した。
　銀の梅の簪に、小さな鈴の梅花が並んで、咲いている。
「……側に、いてくれないか、愛鈴」
　少し身を屈めて、耳元で小さく、低く、慧俊が愛鈴に、語りかける。
「いつも、互いの姿が見えるところに。……こうして手の取り合える近さに、ずっと」
「……」
　愛鈴は二度、三度、瞬きをして、それからとてもゆっくりと、瞼を上げた。
　応えたいのに、何か言いたいのに、唇までが、震えている。
　慧俊は、黙って待っていた。
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         <category>034三十四話</category>
         <pubDate>Wed, 30 Jul 2008 00:00:02 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十四話（４）</title>
         <description>やさしい、けれども、強い瞳。
　……望めるなら。
　望むことを、許されるなら。
　愛鈴は、繋いだ指に――ほんのわずかだけ、力をこめた。
　それだけ。
　それ以上は、何もできなかった。
　だが、慧俊はほっと息をつき、微かに表情を和らげ、愛鈴の頭を、そっと抱き寄せた。
　ちりん、と、澄んだ音で鈴が鳴る。
　愛鈴は、慧俊の腕の中にいた。
　何も考えられなかった。何か考えたら、気持ちがあふれて、泣いてしまうに違いなかった。
　鼓動は穏やかなのに、こつこつと速い。
「……」
　こつこつと――
　鳴っているのは、どうやら心の臓だけではなかった。
　耳に聞こえる、これは。
「……あれだけ扉を叩いて、入ってこないということは、おまえの友人なんだろうな」
「え、ええっ？」
　愛鈴は真っ赤な顔で慌てて慧俊から離れ、慧俊は明らかに不満そうな表情で、しぶしぶ手を離した。
「か、佳葉ちゃんっ？」
「――入るわよ」
　扉の隙間からすべり込むようにして佳葉が部屋に入ってきて、愛鈴を見るなり、肩をすくめた。
「話は済んだの？」
「え？　あの、えーと、えーと……」
「済んだが、しかし、邪魔に来るのが早すぎはしないか？」
「あたしも好きで邪魔しに来たんじゃありませんよ。殿下こそ、こんなところでのんびりしてていいんですか？　いま、昇貴親王殿下の帝位への即位が通達されましたよ」
「……え」
　愛鈴は、慧俊を振り返った。
　しかし慧俊は、顔色ひとつ変えていない。
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         <category>034三十四話</category>
         <pubDate>Wed, 06 Aug 2008 00:00:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十四話（５）</title>
         <description>「何だ、さすがに早かったな」
「え、あの、なんで……」
「太子殿下の予定どおりってことですか？」
「昨夜、曹褒姫を捕らえた後、昇貴に偽の遣いを出しておいた。――私が、曹褒姫に毒を盛られて死んだ、とな」
　慧俊は、再びゆったりと椅子に腰掛けた。
「一応は身代わりの遺体も用意しておいたから、それを検めたかどうか知らないが、昇貴は信じたようだ。それで帝の崩御とほとんど同時に、自分の即位を宣言したんだろう」
「じゃあ、殿下がここにいるのは――」
「死んだはずの太子が、東和殿にいるのはおかしいだろう。どこかしらに隠れていなければなならないが、宮殿の外に出るわけにもいかない。それに偽の情報で、愛鈴を心配させるわけにもいかない。それならいっそ、愛鈴にかくまってもらおうと思ってな」
　そう言って、慧俊が愛鈴に、微笑みかける。
　確かに、いま目の前に慧俊がいなければ、とても正気では聞けない話だったろうが。
「……どうして、ですか？」
「ん？」
「だって、このままじゃ……」
　教坊に通達が来たということは、もう宮殿中に、昇貴の即位が言い渡されたということになる。このまま都中、いや、国中に広まってしまったら。
　だが、慧俊は笑っている。
「張佳葉。触れの者は、こう言っていなかったか？　先の帝の勅命により、陸昇貴が即位する――」
「言ってましたよ。そのとおりです」
「それなら、問題はない」
　慧俊は、勢いよく立ち上がった。
「では行こう。――愛鈴」
「は、はいっ」
「一緒に来てくれ。ああ、張佳葉もだ。世話になったから、見物を認めよう」
「あら、何か面白い見せ物でもあるんですか」
　愛鈴が手早く寝台に放り出されたままになっていた上着を広げ、背伸びをして、慧俊の肩に着せ掛ける。
「面白いかどうかはわからないが、滅多に見られるものではないだろうな」
「それは楽しみ」
「あの、どこに行くんですか……？」
　上着に袖を通して、慧俊は愛鈴に笑いかけた。
「新しい帝とやらの顔を、見に行こうじゃないか。――手土産を持ってな」
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         <category>034三十四話</category>
         <pubDate>Wed, 13 Aug 2008 00:00:23 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十五話（１）</title>
         <description>　普段は帝が臣下と評議を行うのに使われる、旭日殿の広間では、朝早くから召集された貴族、官吏たちが、ざわめいていた。
　帝崩御の報は、すでに周知されている。だが、その亡き帝が、慧俊太子ではなく、弟の昇貴親王に位を譲るとの勅書を残したことに、多くの臣下は半信半疑だった。
　まさかとやはりの声が混じる中で、合図の銅鑼が鳴り響く。
　広間が、静まり返った。
　やがて大勢の貴族官吏の前に、昇貴が母親の陳妃を伴い、現れた。金糸銀糸の刺繍に彩られた衣装に、宝玉の散りばめられた冠を頂くその姿は、父の喪に服している最中とは思えないほど、きらびやかである。
「みんな、朝早くから御苦労だった」
　貴族官吏らが黙って拝礼すると、昇貴は階を上り、玉座に腰掛け、顎を上げて満足げに広間を見まわした。
「聞いてのとおり、夕べ、我が父である帝が身罷られた。よって、その勅命により、私が次の帝に即位することになった」
「――おめでとうございます、昇貴様」
　玉座に近いところにいた、陳妃の身内である貴族が声を張り上げたが、後に続いて、おめでとうございます、と復唱した声は、まばらだった。
　前列にいた年老いた官吏が、困惑した顔で、一歩進み出る。
「おそれながら……我ら、帝位を継がれるのは慧俊太子殿下と、承っておりました。太子殿下は、いかがされましたか？」
「死んだ」
「は？」
「兄は死んだ。夕べ、帝崩御の後、勅書の中身を知って、帝位を継ぐのは自分ではないとわかって、悲嘆して自害した」
　広間が、どよめいた。
「静かにしろ！　――兄のことは、どうでもいい。もともと我が父は、私を次の帝にするつもりだったんだ！」
「勅書を――」
　誰かが、奇妙にのんびりした声で言った。
「見せちゃあいただけませんかね、親王殿下」
　周囲が声の主を振り向くと、慈雲が腕を組み、にやにやと面白そうに、高いところにいる昇貴を見上げていた。
「……何だ、貴様は」
「戸部郎中の温慈雲ですよ。どうです、昇貴親王殿下。我々は、亡き帝が急に太子ではなく親王を後に据える気になったのか、少々納得がいかない。帝の勅書があるなら、ぜひこの場で、見せていただきたいんですがねぇ」
　広間は再び静まりかえり、皆が昇貴に注目する。
「……無礼な。疑うと言うのか？」
「ま、そうとも言いますね」
　昇貴は怒りで顔を赤くし、立ち上がって足を踏み鳴らした。
「いいだろう、見せてやる！　だが貴様の無礼、その首で詫びることになるぞ！」
　耳をつんざく怒号にも、慈雲は肩をすくめただけだった。
「そりゃ怖い。まぁ、いいでしょう。この首は差し上げますから、どうぞ、見せてください」
「ますます無礼なやつだ。――よく見ろ！」
　昇貴はきらびやかな衣装の懐から、さっと一枚の紙を取り出した。
　慈雲は目を細め、首を傾げて昇貴の掲げる勅書を眺めていたが、一読して、呆れた声を上げた。
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         <link>http://lu3.gagaga-lululu.jp/maihime/2008/08/post_93.html</link>
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         <category>035三十五話</category>
         <pubDate>Wed, 20 Aug 2008 00:03:11 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十五話（２）</title>
         <description>「……そりゃ、偽物だ」
「なっ……」
「まずいですねぇ。勅書の偽造は大罪ですよ。――そうでしょう、慧俊太子殿下！」
　慈雲がくるりと後ろを向き、怒鳴った。
　全員が、一斉にそちらを見る。
　広間の隅の柱にもたれて、背の高い青年が立っていた。
　青年は驚きに声を失う官吏らのほうへ、ゆっくりと歩いていく。
「――道を開けよ」
　静かなひと言で官吏らは後ずさり、人を割って、玉座へと一本の道が開けた。
　昇貴が呆然と立ちすくみ、陳妃は短い悲鳴を上げる。
「おはよう、昇貴。良い天気だな」
「……」
「どうかしたか。顔色が悪いぞ。まるで生き返った死人でも見ているようだな」
　広間の中ほどまで歩を進めると、慧俊は立ち止まった。
「何か言ったらどうだ、昇貴」
「……」
「昨夜、おまえの恋人の曹褒姫が、珍しい酒を持って私を訪ねてきたぞ。捕らえて牢に入れてあるが、独りでは寂しいだろうから、おまえも一緒に入ってやるといい」
　昇貴が青ざめたまま、一段、玉座から下りる。
「……勅書は……本物なんだぞ……」
「そうだろうな。病の帝を説き伏せ、ようやく書かせたのだろう」
　慧俊は、肩越しに後ろを見た。
「――愛鈴」
　ちりん、と。
　鈴の音が、聞こえた。
　いつのまにか、官吏らの開けた道の端に、少女が立っていた。
　少女は控え目だが愛らしい顔を上げ、鈴のついた梅の小枝を手に、すべるように慧俊のほうへと歩み寄り、その後ろからもう一人、紅色の衣を持った少女がついていく。
　貴族官吏らが、微かにざわめいた。
　その中に、あれは『雪月梅花』の――という声が混じる。
　愛鈴は慧俊の側まで来ると、跪いた。
　佳葉は愛鈴に衣を渡し、近くに立っていた慈雲のもとへと下がる。
「……この子に憶えのある者もいるだろう」
　慧俊は、貴族たちを見まわした。
「帝の最後の宴で、かの『雪月梅花』を舞った宮妓、崔愛鈴だ。……この子はそのさい、帝よりこの衣を賜っている」
　慧俊が愛鈴を見る。愛鈴は小さく頷いて、膝の上で衣を広げた。
　紅梅に似た色の衣の、襟の縫い目の隙間から、愛鈴が、細くたたんだ紙片を引き出す。
「……どうぞ」
　愛鈴は紙片を両手で捧げ持ち、そのまま慧俊に渡す。
　紙片を開き、慧俊は、それを近くにいた官吏に、無造作に突きつけた。
「読んでくれ」
「はっ？」
「声に出して、読み上げてくれないか」
　若い官吏はおろおろと左右を見て、それから紙に目を落とした。
「……勅書」
　貴族官吏らの表情が、張りつめたものになる。
「勅命をもって、太子慧俊を、次の帝とする。……親王昇貴が、他のいかなる勅書を示そうとも、この勅書を、真の勅命とする……」
「御苦労」
　若い官吏から勅書を取り戻し、慧俊は、昇貴のほうにそれを掲げてみせた。
「近くでよく見るか？」
「……」
「見てのとおり、この勅書は、帝が崔愛鈴に下賜した衣に隠しておいたものだ。帝は、おまえや陳妃が何としても勅書を書き換えさせようとすることを、御承知だった。それで前もって、この勅書を私に託されたんだ」
　昇貴がよろめきながら、もう一段下りる。
「おまえも、こんな勅書があると、気づいていたんじゃないのか？　最近、執務室や私の部屋が度々荒らされていたが、これを探していたんだろう」
「……そんな……そんなところに……」
「私とて、そのくらいは承知していたさ。だからこそ、これは最も信頼する者に、預けておいたんだ」
　愛鈴は、思わず顔を上げた。
　慧俊が気づいて、愛鈴を見下ろして微笑む。
「……愛鈴が『雪月梅花』を稽古していると聞いて、きっと素晴らしい舞を見せてくれると思ってな。その衣を、用意しておいた」
「慧俊様……」
　信じてくれていたのだ。舞の成功を。
　そして、我が身の一生を担う、大切な証しまでも――
　……わたしに。
　他の誰でもない、自分に。
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         <category>035三十五話</category>
         <pubDate>Wed, 27 Aug 2008 00:00:09 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>三十五話（３）</title>
         <description>「―――――……」
　絶叫。
　昇貴が剣を振りかざし、走ってくる。
　愛鈴はとっさに慧俊の前に飛び出そうとして、しかし、慧俊に背後へと押し戻された。
　昇貴と慧俊のあいだに、慈雲と数人の官吏が立ちはだかる。
　佳葉が、慈雲の名を叫んだ。
　鞘に収めたままの剣で、慈雲は昇貴の剣を叩き落し、同じく剣の鞘で、官吏らが昇貴を突き倒す。
「縄を」
　慈雲の声で広間の扉が一斉に開き、番兵がなだれ込んできた。あっというまに昇貴を縛り上げ、陳妃や幾人かの貴族も引き立てていく。
　番兵が引き揚げ、貴族や官吏らがざわめいていた。
「……終わったんですか？」
「ああ、終わった」
　慧俊が頷いて、紅い衣を愛鈴の肩に羽織らせた。
　愛鈴はほっと息をつき、慧俊を見上げる。
「……慧俊様が、帝様ですね？」
「そうだ」
「よかった。……おめでとうございます」
　にこりと笑って、愛鈴は、後ろに下がろうとした。これから慧俊が、玉座に上るのだ。
　だが、慧俊は愛鈴の手を掴んだ。
「何故下がる？」
「え……」
「愛鈴」
　佳葉が、愛鈴に呼びかけた。
「行きなさい、愛鈴」
「……佳葉ちゃん」
「大丈夫よ。あんたなら。……あたしが言うのよ。間違いないわ」
　佳葉と、その隣りで慈雲が、晴れやかに愛鈴に笑いかける。
「……」
　愛鈴は、慧俊を見た。
「一緒においで。……愛鈴」
　穏やかな微笑み。
　手にした枝の、鈴が鳴る。
　月は――
　近くにあるのだと、信じても、いいのだろうか。
　思い出になるのを待たなくても、いいのだと。
　慧俊が、愛鈴の手を引く。
　その手に導かれ、愛鈴は、前へと進んだ。
　慧俊とともに、玉座への階を、一段、一段、上っていく。
　最も高いところまで来て、慧俊は、広間を振り返った。
「……これより三日、先帝の喪に服す。国内への正式な通達はその後で出すが、皆には、いま、この場で知らせておこう」
　ゆっくりと人々を見まわし、慧俊が、静かに告げる。
「太子陸慧俊、今日より帝として即位する。合わせて、この崔愛鈴を我が后とすることを、ここに伝える」
「――おめでとうございます、新帝陛下」
　慈雲が拝礼し、今度こそ貴族官吏のすべてが、声を合わせて復唱した。
　……あれ？
　広間中が沸き立つ中で、愛鈴はひとり、首を傾げていた。
　后って、妃と違うよね……？
「愛鈴、どうかしたか？」
「……あの、慧俊様」
　愛鈴は困ったように、傍らの慧俊を見上げた。
「わたし、お后様なんですか？」
「そうだが？」
「……」
　后ってことは、妃じゃなくて、確か、帝様の一番目の奥さんで……。
　愛鈴の顔が、すっと青くなった。
「あ、あの、あのっ……お后様って、普通、貴族様のお嬢様が選ばれるんじゃ……」
「だいたいそういうものらしいが、別に、そうしなくてはいけないという決まりなどない。私の妻なのだから、私が選んだ。それだけだ」
「……」
　堂々と慧俊に寄り添える、貴族の娘に嫉妬したのは事実だ。后という立場の縁遠さに、泣いたことも。
　しかし、まさか――まさか、である。
　……わたし、が？
「后……って……妃じゃなくて、ですか？」
「私は妃を持つつもりはない。愛鈴ひとり、いればいい。そもそも后だ妃だと、何人も持つから、腹違いの子ができて、こういう面倒が起きるんだ」
「……」
　何かとんでもないことを聞いてしまった気がして、愛鈴は、ただ呆然と慧俊を見上げる。
　そんな愛鈴の様子を、少し離れたところから慈雲が面白そうに眺め、その横で佳葉が、額を押さえて大きなため息をついた。
「……やっぱりあの子、わかってなかったんだわ……」
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         <category>035三十五話</category>
         <pubDate>Wed, 03 Sep 2008 00:00:26 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十六話（１）</title>
         <description>　緑の水面に浮かぶように、白や薄紅の蓮が咲いている。
吹く風のあたたかさは、夏が近いことを告げていた。
　欄干から身を乗り出すように、蓮の花を見ていた佳葉が、部屋の中へと戻ってきた。
「いい庭ね。さすが、帝の奥さんの部屋は違うわ」
「慈雲さんの家の庭のが、もっと広かったじゃない」
　椅子に座って、佳葉は三杯目の茶に手を伸ばす。
「広いんだけど、小さいころから見慣れちゃってるから、あんまり新鮮さがないのよね」
「贅沢だー」
　愛鈴は笑って、菓子皿を佳葉の前に押し出した。佳葉は遠慮なく、菓子を取る。
「でも慈雲さんだって、佳葉ちゃんのためにお部屋増やしたって聞いたけど」
「嫌ね。旦那のほうから筒抜けなんだから」
　佳葉は顔をしかめ、それから少し、呆れた表情になる。
「思い出した。――あんた、旦那に何か欲しいものはないかって聞かれて、宮妓たちに新しい衣装か簪が欲しいって言ったんだって？」
「あ、だって、みんなにはお世話になったし……」
「それはそれでいいけど、たまにはあんたが欲しいものを言ってあげないと、あんたの旦那、またうちの旦那に愚痴言うじゃないの。愛鈴が遠慮するって」
「……筒抜けだね」
　愛鈴は茶を飲みながら、困ったように笑う。
「でも、わたし、欲しいものなんて、そんなにないし」
　服や食べる物はもちろん、故郷への仕送りも、充分にさせてもらっていた。
「遠慮してるわけじゃないの。舞のお稽古も続けさせてもらってるし、いつでも佳葉ちゃんに遊びに来てもらっていいって言われてるし、他のことなんて、何もないんだよ」
「……欲のない子ね、相変わらず」
　ときどき慧俊が気の毒になる、佳葉だった。
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         <category>036三十六話</category>
         <pubDate>Wed, 10 Sep 2008 00:00:50 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十六話（２）</title>
         <description>「お后様なんだから、格好ぐらい、もうちょっと華やかにしたら？　宮妓のときと、あんまり変わらないじゃないの」
　あたしのがよほど派手な格好をしていると、髪には簪ひとつ、ほとんど無地の衣の愛鈴を見て、佳葉が言う。
「そんな……いつも絹を着てるっていうだけでも、結構落ち着かないんだよ？」
「ひと月かそこらじゃ、性分は変わらないってわけね……」
　いままでのことを考えれば、天と地ほどの違いがある暮らしなのだ。無理もないとは思うが。
「それにしても、あんたの旦那だって、甘やかしがいがないじゃない。本当にないの？　欲しいもの」
「ないよー」
「ひとつも？」
「あ」
　突然愛鈴がぽんと手を叩き、にっこりと笑う。
「赤ちゃんは欲しいな」
「……」
　佳葉が、茶を噴き出しかけた。
「ここのお針子さんでね、赤ちゃん産んだ人がいるの。見せてもらったんだけど、すっごくかわいくて――」
「……愛鈴、愛鈴」
　口を押さえていた佳葉が、ようやく顔を上げる。
「それ、旦那に言ってやりなさい。絶対言ってやりなさい」
「え、言っていいの？」
「いいの、いいの」
　佳葉は、引きつった笑顔で手を振った。……これで少しは、慧俊も報われるだろう。
　笑いを堪えて、佳葉が何気なく庭のほうを見ると、池の向こうに人影が見えた。
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         <category>036三十六話</category>
         <pubDate>Wed, 17 Sep 2008 00:00:20 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十六話（３）</title>
         <description>「あら？　――あれ、伊福の爺さんじゃないの？」
「あ、うん。ここの庭も、見てくれてるの」
「元気そうじゃない」
　席を立って、声をかけようと端近に出た佳葉を、愛鈴が慌てて止める。
「待って待って。……今日は、駄目」
「どうしてよ？」
「だって……ほら」
　愛鈴の指したほうを佳葉も見ると、伊福の後ろを、白髪交じりの女が一人、歩いていた。
「……貞琴先生？」
「そう」
「嘘っ。……なんで？」
「伊福さんが、ときどき貞琴先生に庭を見せに来るの。だから、いまは声かけないでね？」
「……邪魔はしないわよ」
　肩をすくめ、佳葉は小さく笑った。
「あたしも、帰ろうかな」
「もう帰っちゃうの？」
「今日は慈雲が早く帰るようなこと言ってたから」
「あ、それじゃ、慧俊様も早くお帰りかな……」
　菓子の残りを紙に包んで、愛鈴が佳葉に持たせる。
「ごちそうさま。また来るわ」
「うん。今度、教坊のほうにも顔出してね？」
「そうね」
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         <category>036三十六話</category>
         <pubDate>Wed, 24 Sep 2008 00:00:32 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十六話（４）</title>
         <description>　佳葉が帰るのを、建物の外まで見送ってから、愛鈴は部屋に戻った。茶器を片付けていると、まだ幼さの残る侍女が、慌てて入ってきた。
「――す、すみませんっ！　あの、あたし片付けますから……」
「いいのよー。わたし、やるから」
「駄目です！　お后様にそんなことさせてって、あたしまた怒られますー！」
　必死の様子の少女に、愛鈴は微笑んで、茶器の盆を渡した。
「じゃあ、お願い。それと、代わりの茶碗を……」
「はい、持ってきますっ」
「急がなくていいからね？　落ち着いてね？」
「はいっっ」
　ここに来て日の浅い少女が、失敗を繰り返しては、古参の侍女たちに叱られているのを、よく目にしていた。
　……でも、頑張ってるし。
　家は華安の小さな古着屋だというが、父親が病がちなので、宮殿に働きに来たのだという。
宮殿の、それも后付きの侍女ともなれば、貴族の娘などが選ばれるのが普通だったが、愛鈴の身辺には、この少女のように、それほど身分の高くない侍女が何人かいた。愛鈴が侍女にまで気を遣わなくていいようにという、慧俊の配慮である。
　そろそろと茶器を運んできた少女が、盆を卓に置き、ほっと息をつくのを、愛鈴は目を細めて眺めていた。
「ありがとう。――どう？　だいぶ慣れた？」
「あ、はい。でも……」
「でも？」
　下を向いて、少女がつぶやく。
「……やっぱりあたし、駄目ですね」
　愛鈴は一度、庭のほうを振り向いた。遠くで伊福と貞琴が、ゆっくりと歩いている。
　少女のほうに目を戻して、愛鈴はにこりと笑った。
「わたしも前は、よくお茶碗割ったり、茶葉を間違えて、叱られなぁ」
「……お后様が？」
　少女は信じられないという顔で、目を瞬かせている。
「だって、わたしもここに来るまで、いいお茶なんて淹れたことなかったもの。舞も下手で、毎日毎日、怒られてた」
「……」
　愛鈴が妓女で、田舎の出だったということは、この少女も知っていた。
「そんなにすぐに、駄目なんて言うものじゃないのよ？」
「……」
　少女が、おずおずと顔を上げた。
「だって、まだこれからじゃない。駄目なんて言ったら、あなたがかわいそう」
　なんて――と言って、愛鈴は笑う。
「わたしも、そう励まされて、ここまで来たの」
「……」
　少女は愛鈴を見つめ、そして、唇を引き結び、背筋を伸ばした。
「あの、あたし、頑張ります」
「……ええ」
「ありがとうございました。……失礼しますっ」
　勢いよくお辞儀をして、少女が部屋を出ていった。まだ肩に力が入っているから、もうしばらくは、失敗も続くかもしれないが。
　……だいじょうぶ。
　信じていれば、きっと。
　愛鈴は端近に出て、欄干にもたれ、息を吸った。
　水と、緑の匂いがする。
　いつのまにか、伊福たちの姿は見えなくなっていた。
　静かな庭に、小鳥のさえずりが聞こえる。
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         <category>036三十六話</category>
         <pubDate>Wed, 01 Oct 2008 00:00:45 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>三十六話（５）</title>
         <description>「……あ」
　庭の向こうの渡り廊下を、一人の青年が、こちらの建物へと歩いていた。
　愛鈴は身を翻して中に戻ると、すぐに茶葉を選び、湯を汲んだ。
　やがて、ちょうど茶の支度が整ったころ、部屋の扉が開く。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、愛鈴」
　慧俊が、出迎えた愛鈴に微笑みかける。
その顔を見て、愛鈴は小首を傾げた。
「……何か、ございましたか？」
「わかるのか？」
「お疲れのようでしたので……」
「お見通しか」
　慧俊は笑って、庭に面した椅子に腰掛けた。愛鈴がその傍らの卓で、用意していた茶を注ぎ、慧俊の前に置く。
「頭の固い連中と、評議で少々やり合っただけだ。気にすることはない」
「……はい」
　慧俊は、肘掛けに頬杖をついて、愛鈴を見ている。
　愛鈴が目で問うと、慧俊は、すぐ隣りの椅子を、指で叩いた。
「……」
　ちょっとはにかんで、愛鈴は、黙ってそこに座った。
　涼やかな風。
　白い蓮も、池の水面も、夕日の色に染まろうとしていた。
　慧俊が、愛鈴の肩を抱き寄せる。
やさしい指が、頬に触れた。
　目を閉じる。――微かな吐息。
　唇が重ねられ、愛鈴は、応えるように、そっとその身を添わせた。（了）

（長い間、ご覧いただきましてありがとうございました。編集部）
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         <pubDate>Wed, 08 Oct 2008 00:00:25 +0900</pubDate>
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