一話(2)

「――艶子、艶子ーっ!」
 裏返った男の叫び声に、詞子たち三人は思わず顔を見合わせ、また様子を窺うと、この家の主――中納言藤原国友が、両手足をばたつかせ、全身で慌てながら娘の名をひたすら連呼していた。
「まぁ、お父様ったら、あんなに取り乱して……」
「しかも鬼の前で何度も名を呼んでますよ。迂闊ですね」
「こんなときこそ殿が落ち着いてくださらないと、皆がどうすればよいのか……」
 そう言っている間にも、鬼は暴れる艶子を引きずって、外に出ようとしている。
「つ、艶子、艶子! ――おい、誰か早く艶子を助けないか!」
 主の命令で、家人たちがそれぞれ鞘から抜いた剣を構え、弓に矢を番えるものの、どの男も腰が引け、威嚇のために発する声にも勢いはなく、鬼を恐れているのは明らかだった。
「いやーっ! お父様っ、お母様ーっ! 誰かっ……命婦、伊勢! あ、初雁っ、誰か……早く助けなさいよーっ!」
 名指しされた女房らは、とっくに気絶しているのか腰が抜けているのか返事すらせず、父親も相変わらず慌てているだけで、母親など姿すら見えない。
 とうとう鬼は、艶子を連れて簀子へと出てしまった。雨が容赦なく叩きつけ、艶子は叫ぶことすらできなくなる。
 詞子は、ゆっくりと立ち上がった。
「姫様」
 葛葉が、咎めるような口調で詞子を呼ぶ。
「いくら殿も男衆も腰抜けとはいえ、姫様がどうこうなさろうだなんて無茶ですよ」
「でも、ここで腰が抜けていないのは、わたくしだけだわ」
「おやめなさいませ。あの我儘な妹君のために、姫様がそこまでされることはありません」
「そ、そうですよ! 相手は得体の知れないものですよ!?」
 必死に袖を引く淡路を、詞子は雷鳴と絶叫の中にあって、かえって奇妙なほど落ち着き払って見下ろしていた。
「……艶子が助けてと望むなら、助けるしかないでしょう?」
「姫様……」
「それが、わたくしに与えられた天命だもの」
充分な明かりがあれば、その暗い瞳が見えただろうか――
 小袿の襟元を直し、詞子は柱の陰から出ると、一番近くにいた家人に手を伸ばした。
「その弓と矢を、わたくしにお貸しなさい」
「は……へっ?」
 若い家人が目を瞬かせているうちに、詞子はさっさとその手から、弓と矢を一本奪い取る。それを見て、ため息をついて淡路と葛葉も立ち上がった。
「姫様、弓矢をお使いになったことなどございませんでしょう……」
「ないわ。力が要りそうね」
「お手伝いします」
 淡路に袖を押さえさせ、詞子は弓の握りを掴み、矢を番えた。葛葉が矢を引くのを助ける。
「こ――詞子!? 何をする!?」
 雨降る外に向かって弓矢を構える詞子を見て、国友が脳天から突き抜けたような声でわめきながら、あたふたと駆け寄ってきた。
「このままでは、艶子が連れていかれますわ」
「だ、だが、おまえ、もし艶子に当たったりしたら……」
「当たらないようにお祈りなさいませ」
 淡々と言って、詞子は葛葉に頷く。
「見える?」
「雷が光れば、どうにか」
「合図をしたら、手を離して」
 稲光の間に見えた鬼は、もはや抗う力を失った艶子を脇に抱えて庭に下り、門へと向かおうとしていたが、艶子の衣や長い髪が雨に濡れて重くなっているのだろう、運ぶのに苦労しているようで、動きは鈍かった。