五話

 詞子は、静かに目を開けた。
 韓藍の女。
 呪いの言葉を残して息絶えた――艶子の母。
 いまでは自分を産んでくれた母の面差しさえうまく思い出すことができないというのに、鬼気迫る韓藍の女の顔は、どんなに忘れたくても記憶から消し去ることができない。
 やつれ果てた、恐ろしい、それでいてひどく哀しい――
「……」
 あの呪いは自分に向けられたものだ。女の目は、間違いなく自分を見ていた。だから皆、自分を恐れた。呪いに関わることを恐れ、怯え、離れていった。……実の父親でさえも。
 いまとなっては、頼れるのは淡路と葛葉だけ。でも本当は、二人とも離れたほうがいいのだ。いつまでも自分に縛りつけておいてはいけないのに。
「ね、瑠璃。……わたくしは、誰とも関わらずに生きてゆくほうがいいのにね」
 くつろいでいた黒猫の尻尾が、小さく動いた。
「……そうなのよ。決して幸せにはなれないのなら、誰も巻き込まずに……」
 独り言ちた詞子に、瑠璃が潰れたような声でうめき、ごろりと転がって、不機嫌そうな金色の目で詞子を見上げてきた。
「あら、ごめんね。起こしてしまったわね」
そう言ったところで、別に起こされたから機嫌が悪そうなのではなく、この猫の目つきが悪いのは生まれつきである。二年前に艶子の飼い猫が八匹の子猫を産んだが、そのうち二匹は器量が悪いからと、艶子が詞子に押しつけてきた。せめて名前ぐらいは美しくしようと、瑠璃、玻璃と名付けたが、無愛想な顔は相変わらずだ。
 瑠璃が辺りを見まわしているので、詞子は御簾の隙間をそっと手で広げてやる。
「玻璃なら外よ。庭にいるんじゃないかしら」
 返事をするようにひと声鳴いて、瑠璃も外に出ていく。だが瑠璃は兄弟の姿を捜すのではなく、階を下りたあたりに腰を落ち着け、天を仰いだ。
 満開の、枝垂れ桜があった。
 淡い紅色に包まれた枝が、水底にたゆたう藻草のように、ゆらゆらと風に揺れている。
「……花は、変わらないわね」
 自分はあのころと、こんなにも変わってしまっているのに――
 瑠璃が振り返り、またひと声鳴いた。一緒に花見をしようと誘われているようでおかしくて、詞子はくすりと笑う。
「駄目よ瑠璃。わたくしは、もう軽々しく庭に出られる年じゃないのよ?」
 しかし瑠璃はなおも鳴いて、短い尻尾をしきりに振っている。
 花はまさに、いまが盛り。
「……」
 都の中ではない。……喧騒からは、遠い場所。
 周囲には人家らしいものもなかった。小さな寺や、僧侶が暮らしていると思われる庵が、幾つかあっただけ。
 詞子は、そっと立ち上がった。
 ……ちょっとだけ。
 御簾の内からではなく、もっと近くで花が見たい。
 小袿の裾を持ち上げ、詞子は御簾を押した。