二話(3)
「そこで空腹に負けるところが無風流だよ」
白瑠璃の器に盛られた苺を頬張りながら、雅遠は敦時を横目で睨んだ。
「宮まで父みたいなこと言わないでくださいよ。腹が減ったら食う。それでいいでしょう」
「きみの父上の嘆きがよくわかるから言うのだよ。……ところで、前の但馬守の娘とは、あれからどうなった?」
「とっくに終わってますよ。いまは安芸守の娘のところに通ってます、一応」
敦時は嘆息をもらし、広げた扇で顔を覆った。
「情けない……。きみが前の但馬守の娘のところへ文を出すようになったと聞いたのは、つい二十日ほど前のことだというのに、また駄目だったのか……」
「だから父のようなことを言わんでくださいって」
「安芸守の娘にだって、通っているなどと言って、どうせ文を二、三度出している程度なのではないのか?」
「二度文を使いに持たせて、昨日の夜は自分で行きましたよ。女房に渡しただけですが」
「そこで歌の遣り取りは……」
「その場で歌を詠むなんて、俺ができるわけないでしょう」
「……ああ……」
さらに深くため息をつく敦時の杯に、雅遠は酒を注ぎ足す。
「ま、そう悲嘆せず飲んでくださいよ。ああ、この茄子、いい加減に漬かってますよ」
「……他ならぬきみ自身の話なのだから、きみが一番悲嘆すべきなのだがね、雅遠」
「あいにく俺は、宮のように恋が上手くないんで」
ちょうど楽が途切れて、雅遠が漬物を噛む音がこりこりこりと小気味よく響く。
「どうも、できないんですよ。顔も見たことない女に、わざわざ頭をひねって歌なんぞ詠んで、それで返事が来るならともかく、代筆代筆、また代筆で、挙句にこっちが四苦八苦して作った歌をけなされて笑われて、それでもどうにか堪えて会えるところまでこぎつけたって、簾を上げないどころか、もったいぶって話もしやしない。しかもこの期に及んで、まだ歌なんか渡してこられたら――」
「……雅遠、雅遠」
敦時が頭を振って、雅遠の肩を扇で叩いた。
「きみが好い人物だということは、私もよく知っている。……が、きみも今年で十六だろう。もう少し大人になったほうがいい。世間並みの作法というものを身につけるとでも思って、せめて歌のひとつぐらい詠めるようにならなくては、この先やっていけないよ」
「本当にうちの父そっくりのことを言いますね、宮も」
箸を置いて、雅遠は大きく息を吐き、高欄に背をもたれた。弱い風が、桜の枝を緩く揺らしている。
「きっと、その次はこう仰るつもりでしょう。歌も詠めない、頭も悪いで、そんなことだから弟の利雅に何事も先を越されるのだ。いくら同い年の兄弟とはいえ、おまえのほうがふた月も先に産まれているのだし、おまえの母は皇女で、利雅の母は受領の娘。血筋からも生まれ順からいっても、おまえがこの家の当主となるべきなのに、おまえはとても、いずれ大臣となれるような器ではない――」
「……私はそんなことまで言うつもりはないよ」
困ったように苦笑して、敦時は静かに扇を開いた。扇にも、桜花の絵が描かれている。
「きみの異腹の弟は、確かに小才が利くと評判だ。出世するだろうね。しかし、きみがそれを悔しいと思えば、いつでも追い越せるだろう」
「どうでしょうね。あいつは出来がいい。俺みたいに、歌を詠もうと考えただけで、頭が石のようになることもないでしょうよ」
そう言う雅遠の表情は、ごくあっさりとしていた。
「ま、利雅だって源氏の子です。俺には到底見込みがないと諦めているからこそ、父も利雅を跡継ぎにするつもりで、あいつを先に蔵人に推したんでしょう」
「……そこは私も、いまだに納得がいかない。きみは弟よりも器用ではないかもしれないが、間違いなく嫡子だ。十六の若さで官に就かせるならば、きみが先であるべきだね」
「宮――」
雅遠は首をめぐらせ、東の対のほうを見た。そこの廂でも多くの貴族たちが集い、談笑しているのが遠目に窺える。この屋敷では、桜は東の対からの眺めが最も素晴らしいということで、主である雅兼に招かれた人々は、ほとんど東の対にいるのだ。
「今日は、利雅も来てるんですよ」
「どこに?」
「あちらの対の屋に。いまごろ堂々と、父の客の相手をしてるんじゃないですか」
俺は面倒なんで会いませんけど――と言って、雅遠は唇の片端を少し歪めた。
「確かに、左大臣である父がひと声上げれば、俺が前の除目で何らかの官位を得るのは簡単だったでしょう。……父がそうしないで、利雅のほうを蔵人に就かせたのは、何故だと思いますか」
「わからないね」
「何もできない馬鹿息子を出仕させて、自分が世間の笑い者になりたくなかったからですよ」
振り向いた敦時は、微かに眉をひそめていた。
「……まさか」
「俺だっていずれは任官されるでしょうけど、恥をかくのはできるだけ先延ばしにしたいってことでしょうね。急いで職に就かなくても、左大臣の息子なら、何もしなくても二十一になれば、最低でも五位の位が貰えるし、それに見合った給与も出ますから」
風が、少しのあいだ強く吹き込んできた。
雅遠は目を細めて風をやり過ごし、そうして、低くつぶやく。
「父の口から聞いたんで、本当ですよ。……教養がない俺が親の力で公卿になって、左大臣の嫡子はこの程度かと言われるよりは、源氏の家は利雅に任せて、俺はせいぜい金持ちの娘の婿になるほうが現実的かもしれない、ってね」
「……」
敦時は何か言いかけるように口を開いたが、結局何も言わず、杯を干した。
再び管弦の演奏が始まる。
雅遠はその音色に耳を傾けながら、ぼんやりと桜を眺め、ひとつ、あくびをした。