三話(2)

 ぶち猫のほうが頭を上げ、うー、と猫らしからぬ声で唸る。
「玻璃?」
 詞子が呼びかけると、白黒のぶち猫は返事をするように尻尾を動かしたが、すぐにまた丸くなって眠ってしまった。
 小さく笑って、詞子はまた、辺りを見まわす。
 少しの調度しかない、がらんとした薄暗い部屋と、御簾に隔てられた、小さな花々の咲き乱れる明るい庭。その光景は、二条の本邸とそれほど違いはない。
 ただ、目を閉じると、木々の枝葉が風に揺れる音が、以前のように襖越しに漏れる女たちのはしゃいだ声に邪魔されることなく、涼やかに耳に届いてくる。
 ……これでよかったのよ。
 いつかは、こんな静かな暮らしを送るつもりでいた。もっともそのときには、髪を下ろし、墨染めの衣を着て、誰も連れずに独り――
「それにしても、手入れもされていなかったのに、見事に咲いていますわね」
 淡路の弾んだ声に、顔を上げる。御簾の内からでもわかる鮮やかな色に、詞子も唇をほころばせた。
「そうね。……前に見たのは、いつだったかしら」
「姫様の御母上が亡くなられる前の年の春じゃありませんか」
「そうだったわ。葛葉はよく憶えているわね」
「あのころは庭に下りて見ましたよ。御母上は東の対から御覧になられておいででした」
「向こうからのほうが、よく見えるわね」
 腰を浮かせかけた詞子を、淡路が慌てて手で制する。
「いけませんよ、姫様。東の対に行く渡殿は、床板が腐っていて通れないんです」
「あら、残念」
「有輔さんに頼んで、少しずつ直してもらいますよ。釣殿に渡る廊も傷んでましたから、そっちを先に見てもらわないと、夏に涼む場所がないです」
「それじゃ、東の対に渡れるのは、来年になるわね」
 ぶち猫の玻璃がのそりと起き上がり、前足を思いきり伸ばした。そうして御簾の隙間から表の簀子へと出ると、そのまま庭に飛び降りてしまう。
「玻璃、あまり遠くへ行っては駄目よ」
「食事の時間になったら戻ってきますよ」
 それでは――と言って、淡路と葛葉が立ち上がった。
「小鷺さんがわたしたちの単を縫ってくれていますので、ちょっと手伝ってきます」
「あたしも筆丸に頼む用事がありますから――」
「ええ。いってらっしゃい」
 淡路と葛葉が家人夫婦のいる下屋に行ってしまって、寝殿には詞子と、黒猫の瑠璃だけになった。瑠璃は相変わらず、腹を見せた豪快な格好で寝ている。
 このあいだの雷雨の夜が嘘のような穏やかさだった。こうしていると、まるであの夜が、遠い昔のことのようにさえ思えてくる。
 あれは、鬼だったのだろうか。
 遠い昔の出来事のようなのに、艶子の言葉が、耳の奥にいまもはっきり残っている。
 鬼姫。あんたが仲間を呼んだんでしょう――
「……また、嫌われてしまったわね」
 知らず自嘲の笑みがこぼれた。
わかっている。あれから十二年経つが、もはや自分はあの家にあって、恐れられ、疎まれるだけの存在でしかないのだ。これから先もずっと。
 そう。……それこそが、この身に受けた呪い。
 憶えている。こうして目を閉じるだけで、瞼の裏に、ありありと浮かんでくる――