四話

あれは、四歳の秋だった。
 自分の目で見る空は、遠かったけれどまだ広くて、世の中は明るく、日々は楽しかった。
 母がいて、乳母がいて、祖父母がいて、たくさんの笑顔に囲まれていた。
 父の姿を家でよく見るようになったのも、あのころからだったろうか。それまで父親というものは、日が暮れると現れるものだと思っていたが、これからは一緒に暮らすのだと、そう聞いた気がする。
 これで殿は、ずっとわたくしたちのところにいてくださるのよ――
 母が殿と呼んでいたのは、父のことだ。母は喜んでいた。いや、家の誰もが喜んでいた。
 ちょうどそのころ、頻繁に耳にしていた名があった。
 韓藍の女。
 いま思えば、それはただの呼び名だ。本当の名は知らない。とにかく女房たちが、その名を口にするたび声をひそめていたのが、子供心にも気になっていた。
韓藍は秋に咲く、鶏の頭のような赤い花のことだ。その花で、紙や布を染めることもできる。女房たちが秘密の話でもするように、韓藍の女の名前を言うことがあって、そんなときはいつも、母が韓藍で染めた紙を、難しい顔で眺めていたのを憶えている。
だが、あの女が、その韓藍の女だと知ったのは、後になってからのことだった。
 ――あの日はいまにも雨が降りそうに曇っていて、いやに蒸し暑かった。
 自分は、簀子に出て葛葉と人形で遊んでいた。
 何故、誰も気づかなかったのだろう。
 いつのまにか、庭先に女が立っていた。
 長い髪はもう何日も櫛を通していないかのように乱れ、顔は青白く、げっそりとやつれ、着ている衣は色あせて、ところどころが擦り切れて――そして、二つか三つの幼な子を連れていた。
 子供の目にも、異様だと思った。……風体ではなく、その形相が。
 葛葉が悲鳴を上げて、奥に逃げ込んだ。それを聞いて出てきた淡路も、驚いて人を呼びに行った。
 自分は、一歩も動けずにいた。
 女の血走った眼が、瞬きもせず、自分を見ていた。
 目が逸らせなかった。恐ろしさに膝が震えて、立ち上がることもできない。
 女は色あせた小袿の裾を引きずりながら、まっすぐこちらに歩いてきた。奥から出てきた女房たちが、何か口々にわめいていたが、自分は女の目に捕らわれたまま、ただそこに座り込んでいた。
 ――おまえが、あの女の娘か。
 女は、かすれた声でそう言った。あの女が誰のことか、とっさにはわからなかった。
 ――殿は、いずこか。わたしが逢いに来たと言え。
 殿といえば、父のことしか知らなかった。しかし父は、まだ帰っていなかった。
 女はどんどん近づいてきて、階を上り始めた。
 背後で女房たちが、姫、姫と、自分を呼んでいた。呼んでいたが、どういうわけか、誰も助けにはきてくれない。皆、女の鬼気迫る様子に恐れをなしていたのだろう。
 ――姫……か。
 女の頬が、引きつった。笑ったのかもしれない。
 ――おまえは姫と呼ばれ、わたしの娘は捨てられるのか。
 あえぐようにそう叫び、女が手を伸ばした。
 枯れ木のような細い指が、自分の着ていた袙を掴んだ。女の表情が、痛みに耐えているかのように、苦しげに歪む。
 ――許さない。……そんなことは、許さない。
 怖いのに、目を閉じることも、耳を塞ぐこともできない。
 袙を掴む手に、引きずり下ろされそうだった。
 誰か助けて――
 そう思ったとき、女が激しく咳き込んだ。真っ白な袙に、ぽつぽつと無数の赤黒い染みができる。背後の悲鳴が、ひときわ大きくなった。
 のろのろと顔を上げた女の、さっきまで紫色だった唇は、紅を塗りたくったように赤くなっていた。
 赤い唇が、言葉を紡ぐ。


わたしの娘を見捨て、不幸せにしたなら、許さない。
おまえ自身も、おまえに関わるすべてのものも、何もかもを滅ぼしてやる。


 その言葉は、まるで、遠い遠い天の上から聞こえてきたように、耳に響いた。
 意味はまったくわからなかったが、何か、とても恐ろしいことを言われたのだということは、よくわかった。
 ただ呆然としていると、女が再び咳き込んだ。袙がどんどん血に染まっていった。見ると、自分の両手の甲にも、赤いものが散っていた。
 ……血が。
 そのときようやく誰かが駆けつけてきて、自分と女を引き剥がした。我に返って振り向くと、それは真っ青な顔をした乳母だった。
 女は階の中ほどまですべり落ち、そこでぐったりと動かなくなった。
 ――かあさま。
 舌足らずな可愛らしい声がして、幼な子が倒れ伏した女のもとへ走り寄り、その背にすがりついた。
 気づいたのは、そのときだった。
 女の着古した小袿は――韓藍で染められていた。