七話(2)

 ……桜の、雨だ。
 まるで花が、天から降り注ぐようだった。雅遠は二歩、三歩と枝垂れ桜に近づき、しばし呆然と桜を見上げていた。
 見上げていて――それで、しばらく気づかなかった。
 目の隅に映った、白と赤花の、桜襲の衣の色に。
「……」
 強い風が吹き、桜の幕を翻す。
 女がいた。
 目が合った。
 黒目勝ちな瞳が、どこかぼんやりと、こちらを見ていた。
 まさかこんな明るい日の下で若い女に出会うとも思わず、驚きのあまり、雅遠もとっさに動くことができなかった。
 ただ、桜の枝だけが、ふたりのあいだで揺れている。
 と――突然女がはっと目を瞬かせ、桜の花に似た小さな唇を開いた。
「あ……」
 たったひと言、それだけ発した女の白い頬が、さっと朱に染まる。
 女が踵を返して後ろ姿を見せたところで、雅遠も我に返った。
「あ、ちょっ、待っ――」
 思わず手を伸ばした雅遠の足元で、何かが低く唸る。見るとさっきの白黒とは違う、全身真っ黒の猫が、いまにも飛びかかってきそうな体勢で、こちらを見上げていた。
「な、何……あ、おい」
 途惑いながらも女の姿を目で追うと、女の長い髪と桜襲の裾が、御簾の中に消えようとしている。だが、黒猫の気迫に邪魔されて、一歩を踏み出すことができない。しかも門のほうから、玄武の鋭いいななきが聞こえた。
「……っ」
 舌打ちして、雅遠が門のほうへと駆け戻ると、玄武の顔の辺りを蜂が飛びまわっていた。それを嫌がって鳴いたらしい。愛馬をなだめて再び門を振り返ると、さっきの黒猫が、門前にどっかりと腰を据えている。
「何なんだ。俺を入れたいのか、入れたくないのか、どっちなんだ」
 思わずそう話しかけると、黒猫はふんと鼻を鳴らし、さっさと帰れとでもいうかのように、前足を二度振った。……可愛げがない猫だ。
雅遠は軽く息を吐き、首の後ろを掻いた。
ぶち猫に招待され、黒猫に追い出されてしまった。別に猫が怖いわけでもないので、もう一度中に入ろうと思えば入れないことはないが、どこの誰の屋敷かもわからないのに、二度踏み込むのもはばかられる。しかも、家の者と顔を合わせてしまった。
「……」
 年は十五、六くらいだったろうか。ちょっと見たところ、いい家の姫君のように見えたが、避暑の時季でもなし、こんなひなびたところに、どこぞの姫君がいるなんて、意外だ。
 そこまで考えて、雅遠は玄武の手綱を解こうとしていた手を止めた。
 いたはずだ。
 ここは、白河。
 従三位の上達部、二条中納言の別邸に、その大君が。
「……鬼姫……?」
 まさか。
 雅遠は築地越しに見える屋敷を振り仰いだ。風が吹き、周囲の木立がざわりと騒ぐ。
黒猫が門の前で、じっと挑むように、雅遠を見据えている。
「嘘だろ……」
 花見の宴で聞いた噂は、白河の鬼姫は特に美人でもない、それどころか何かに呪われていて、鬼が呼べるような恐ろしい姫君だというものだった。だが、ついさっき見た女は、色が白くて小さくて、やさしい顔立ちをしていた。鬼にはほど遠い。
 ……誰なんだ?
 こんなとき敦時ならば、すぐに正体を尋ねる歌のひとつでも詠んで、置いていくだろう。しかし自分には、そんな気の利いたことはできない。上の句ひとつすら浮かばない。それなのに、このまま帰るのもすっきりしない。
 鬼か、人か。――あれが鬼なら、顔を合わせた自分も呪われるのか。
 ……何に?
 そんな話は聞かなかった。ただ、皆が勝手に怯えていただけで。
そもそもあの小さな姫君が、鬼だの呪いだのに関わりがあるようにすら見えなかった。あれが本当に鬼姫なら、やっぱり噂なんか、当てにはならないということだ。
「……」
 雅遠は辺りを見まわし、築地に沿って点々と菫が咲いているのを見つけると、ひとつ摘み、それを持って黒猫の前にしゃがんだ。
「そんなに睨まなくても帰る。黙って入った詫びだ。さっきの姫君に渡してくれ」
 黒猫はまだ胡乱な目で雅遠を見ていたが、差し出された菫の花を器用に口にくわえて腰を上げる。
「相手を間違えるなよ。桜の下にいた姫君だぞ」
 余計なお世話だと言いたげに雅遠を一瞥し、黒猫はのっそりと門内に戻っていった。可愛げはないが、頭はいいのかもしれない。
「……帰るか、玄武」
 そういえば、日が沈むまでに戻れと保名に言われていたのだ。そろそろ帰らなくては。
 雅遠は何となくそこに心を残しながら、愛馬にまたがった。