八話
……何てこと……。
御簾の中に駆け込んだ詞子は、廂に突っ伏して袖で顔を覆っていた。胸が痛いほど鳴っている。うまく息もできない。
誰もいない、いるはずもないと油断して、外に出てしまった。ちょっと桜を眺めて、すぐに中に入るつもりが、間近に行くと、やはり御簾の内から見るよりはるかに美しく、つい、時を忘れた。
油断した罰が当たったのだ。……見ず知らずの男に、はっきりと姿を見られてしまった。
女がむやみに人前に顔をさらすのははしたないことだと、いくら世間から遠ざかって久しくとも、それくらいは承知している。ここが人里から離れていても、わざわざ廂を御簾で覆っているのは何のためか。
……自分から出てしまったら、何の意味もないじゃないの。
男も驚いただろう。ここが中納言藤原国友の別邸と知れたら、中納言の娘は何ともはしたない、とんだ恥知らずだと噂を立てられるに違いない。それが本邸の者たちの耳に入ったら、また嘲りの種になってしまう。
「どうしよう……」
せめてあの男が、言いふらさずにいてくれることを祈るしかないが――
傍らで独特の泣き声がして、顔を上げると、いったい何をそんなに落ち込んでいるのかといったふうに、玻璃が首を傾げてこちらを見ていた。
「だって……どうすればいいの」
いまさらどうもできないのだが、どうにかしなくてはいけない気がして、訳もなく焦る。
そういえば、あの男はどうしたのだろう。まだ庭にいるのだろうか。
恐る恐る振り向いたが、御簾越しに見える範囲には、すでに誰の姿もなかった。かわりに瑠璃が簀子に上がってきて、小さな額で御簾の隙間をこじ開けようとしている。
「……瑠璃?」
瑠璃が、何かを口にくわえていた。御簾を少し上げてやると、瑠璃は首を詞子のほうに伸ばし、くわえていたものを落とす。濃い紫の、何か。
指先で拾い上げてみると、小さな菫の花だった。
……あ、かわいい……。
どこに咲いていたのだろう。
持ってきた瑠璃は、花になど興味なさそうに、また腹を出して寝そべっている。
瑠璃も玻璃も、外から花を拾ってきたことなどない。しおれてもいないこの花は、おそらく、たったいま摘まれたもの。
……もしかして、さっきの……。
鮮やかな桜の中で見た、萌黄の狩衣が、目に蘇る。
まだ若かった。自分と同じくらいかもしれない。見上げるほど背が高くて、まっすぐこちらを見た目が印象深い、はっきりした顔立ちをしていた。
……悪いひとには、見えなかったけど。
小さな菫を眺めているうちに、次第に気持ちも落ち着いてくる。どんな意味があって、あの男が瑠璃に花を託したのかはわからないが、迂闊さを慰めてくれているような気がした。
詞子は、ようやくほっと息をつく。
このことは内緒にしておこう。淡路と葛葉に話したら、叱られてしまう。いまのうちに風に乱れた髪を直して、袿の裾についてしまった砂を払わなくてはならない。
……その前に。
詞子は部屋の中に戻り、硯箱の蓋を開け、中にそっと、菫の花を入れた。