(4)

「おい、マシアス」
 朝の身仕度係の女官を呼び入れようとする彼に、ルシードは急いで問いかけた。
「何でしょう」
「いい加減教えろ。今日はいったい外で何があるって言うんだ。どうして月曜日でもないのに、参賀がある?」
「殿下……」
 マシアスは一瞬、ぽかんと口を開けて見せた。
 しかしすぐに、この上ないほど情けないものを見るような目で、ベッドの上でシーツをひっかぶったままのルシードを見下ろしてくる。それも、冷ややかに。
「まさか、本当にお忘れなのですか。冗談ではなく?」
「も、もったいぶってないで、さっさと言え!」
 やれやれ仕方がない、とばかりに、彼は大仰に手を開いてみせ、
「本日は、我が国にとっても大変重要な慶事でございます。さる高貴な御方が、ご生誕なされた日でありますので」
「高貴なかた? 誰だ、それ。俺の誕生日は今日じゃないぞ」
「そんなこと、貴方から言われなくてもわかってます。だいたい、貴方の誕生日に私がここまで寝坊を許すはずがありませんからね。いいですか殿下。その未だ機能を回復させていない耳をかっぽじってよーくお聞きください」
 ごくり、とルシードは唾を飲み込んで、マシアスがもたらしてくれるであろう正解を待った。返答のほうが気になって、前述にかなり失礼な前置きがあったことも聞き逃してしまう。
「今日は、あなたの正妃殿下の生誕日であらせられます」
「へ?」
 聞き慣れない単語に、思わず耳が音を広い損ねたようだ。ルシードはもう一度いってくれるよう目線で促し、
「つまり、メリルローズ様のお誕生日です。…思い出されましたか?」 
(あ!!)
 ルシードは、跳ね上がる勢いでベッドから身を引きはがした。
(そうだった、今日は、”彼女”の誕生日じゃないか!)
 突然、頭の中に突風が吹いたかのように、ルシードは目を見張った。昨夜見ていた夢のかけらや雑念が、みるみるうちに吹き飛ばされていく。すると、いままで霧がかかっていた脳裏が一瞬にして晴れやかになり、
「…思い出した。それに、起きた」
 …ついでに、目が覚めた。
 かなり、ぱっちりと。
「ああ、なんという甲斐性のないこと。妃殿下がおいたわしい」
 ようやくいつもの広さを取り戻した視界に、有能だが毒舌慇懃無礼な秘書官の顔が写り込む。マシアスは、やれやれというように肩をすくめて、
「朝も早くから、ここパールエルムの市民たちが王宮に駆けつけている理由は、そのせいです。もちろん、今日は我が国の正式な祝祭日ですからね。アンゲリオン星教会の規律では、誕生日はただの個人的な祝い事ではありませんから」
「忘れてた…、本気で…」
 まだ頭に血が回っていたなかったせいですっかり思い出せなかったが、それなら、彼女がさっさと身仕度を調えに行ってしまった理由も分かる。
 とにかく、女の身仕度というものは時間がかかるものだ。それも、誕生日ともなればなおさら美しく装う必要があるのだろう
「さあさあ、急いで下さい殿下。うわ、出まであと十分もありませんよ!」
彼が長い指を楽器のように鳴らして合図すると、それを待ちかまえていたらしい大公付きの女官軍団が、洗顔用の水差しや盥、衣装などを山のように抱えて、どっとなだれ込んでくる。
「おはようございます、大公殿下!」
「妃殿下のお誕生日、おめでとうございます、大公殿下!」
「今日の妃殿下は、ことさら美しく着飾っておられますよ!」
「あ、ああ…、そう…」
 そんな彼女らの、いつになく嬉しげな表情と祝いの言葉に、ルシードは冷や汗とともに答えた。
(まさか、すっかり忘れてた、なんて言ったら、明日からこいつらは来てくれないような気がする)
 ルシードにとって、現妃は凶悪なまでにかわいげのない女だったが、なぜか賄賂のひとつも渡している様子はないのに、女官達に絶大な人気があるのだ。
(女の集団は、よくわからん)
 馬油で髪を整えられ長衣を着せかけながら、ルシードは半ば八つ当たりをするように、マシアスを睨み付けた。そして小声でつぶやく。
「そういうことはもっと早く言え!」
 そう。もっと早く言ってくれたら、無意味にあんなにシーツの中でねばるでもなかったのに。
 しかし、対するマシアスは、さっぱり悪びれた様子もなく、
「何をおっしゃるのです。お忘れになっていた殿下が悪いのでしょう。責任転嫁は見苦しいですよ」
「う…」
 まったくもってその通りだったので、ルシードはしぶしぶ黙った。朝から胃が重い。二日酔いと、これから自分にあびせかけられるだろう罵倒を正確に予測してしまったせいだ。今度から、新酒の試し飲みは一日一本のしようと心に誓ったが、いまさら昨夜深酒をしたことを悔いたところで、意味はない。 
 時間がないせいか、少々乱暴に全身を湯で拭かれたあと、髪をくしですかれる。手を挙げている間に取り除かれた夜着のかわりに、指輪や腕輪といった、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の装飾品が、自分の手首に、胸元につぎつぎに装着されていく…。まるで、それらを身に着けるたび、その重さまで一緒に心にのしかかってくるようだ。と、ルシードは思った。もちろん、大事な日を忘れていた自分への後ろめたさもある。
(よりにもよって、この日のことを忘れるなんて!)
 パルメニアの王女、メリルローズ。
 二年前嫁いできた、自分の幼なじみにして、妻。
 アジェンセン大公のれっきとした正妻であり、現在では公私ともに唯一の伴侶である彼女。
 きっと、彼女はこのことを聞いて、大いに呆れルシードを咎めるだろう。
 朝っぱらから、あの冷たく尖った氷のような目と顔…、吹雪のように容赦のない口ぶりで罵られることを考えるだけで、気が滅入って仕方がない。
(――だけど、だからと言って、なんて言ったらいい?)
 目の前に、繻子のクッションに載せられた宝冠がうやうやしく差し出される。こればかりは、侍従や女官に頼れなくm自分で自分の頭の上に載せなければならない。なぜなら、アジェンセンの国主であることを証明するこの宝冠は、神と星教会の名においてルシードに与えられたもの。侍従ごときが、けっしてじかに手で触れてはならないのだ。
 ずしりと重い宝冠を、自分の頭の上におそるおそる載せながら、ルシードは思わずぎゅっと顔をしかめた。
(今日は、メリルローズの誕生日…。アンゲリオン星教の信徒にとって、誕生日は己の守護を決める大事な日だ。本来なら、会ってすぐに誕生日おめでとうと言うべきだろう。だけど…)
 それを彼女に伝えるべきか否かについて、実際ルシードは自分がどうすべきかずっと悩んでいた。今日の寝坊の原因は、深酒のほかに、昨夜マシアスに明日のスケジュールを聞かされたときから、このことを遅くまで考え込んでいたからでもある。
(どう考えてもおかしいだろ、あいつに、”おめでとう”は)
 ルシードは、ずっしりと重くなった頭のまま、憮然と考え込んだ。
 もちろん、大公としては、自分の妃に祝いの言葉をかけてやらなくてはならないだろう。公式の場では特に。
 けれど、本来は違う。
 今日は、あくまでメリルローズの誕生日。”彼女”の本当の誕生日でも、なんでもない日なのだ。
 自分の、偽りの伴侶。パルメニア王女メリルローズの偽者である、――彼女、
 ”ジル”に、とっては…