(5)
ルシードには、いまでも信じている、たったひとつの約束がある。
それは、自分がアジェンセンを属国としている大パルメニアのエスパルダ王宮に、人質として預けられていたころ。
頼る人も、信じられるものも何もなかった幼少時代…。ひとりぼっちだった自分に、唯一優しくしてくれた王女メリルローズと交わした、たった一つの約束だった。
『――いつか、貴方をお迎えに来てもよろしいですか、メリルローズ様』
神聖パルメニア王国の庇護国だったアジェンセンは、つねに習わしのように、王家の子供を人質に差し出してきた。
一人目は、国祖ジハードの娘、ハルギットを。
二人目は、ジハードの外孫、パールハーシアを。
そして、その彼の直系の孫にあたるルシードは、アジェンセンの嗣子として生まれた公子であるにもかかわらず、六つの頃からパルメニアに預けられていた。
だれからも忘れられ、両親は双子の弟のリドリスばかりをかわいがり――、頼れるものも、友人も、同郷の者さえいない、異国の煉獄。
そんな彼にとっての唯一の救いだったのが、本来なら敵国であるパルメニアの第一王女、メリルローズだった。
『おいでなさい、ルシード。あなたにだけ、教えてあげる。わたくしの大事な、秘密の花園を』
人質として特別扱いをすることもなく、本物の弟のように可愛がってくれた一つ年上の王女。
ルシードは、そんな彼女をずっと愛していた。
だから、彼が国に戻ることになったそのとき、いつか、かならず彼女を迎えに来ることを約束したのだ。
それから、四年。
彼は、アジェンセンの大公位をかけて、実の父と戦った。双子の弟リドリスを後継ぎに押していた母を死なせ、内乱の果てに父を破り、草原の習わしのとおりその自ら首をとった。父親の存命中に家督を相続するときは、相続の儀式を行うか、決闘で決めるというのが草原の古い掟だ。そして、ルシードもまたそれに倣った。遺恨はない。もちろん、哀しみは多分にあったけれども。
父から愛されていないのはわかっていた。だから、愛されている人に側にいてほしかった。だれからも忘れ去られていた自分が、どうしても欲しかったものが彼女、メリルローズだったのだ。そして、彼女を手に入れるためには、大国に王女に求婚するために必要な肩書き――、大公位がいる。
ルシードは、大公位につくやいなや、真っ先に、パルメニアの第一王女メリルローズを、自分の妃として迎え入れることを望んだ。
自信はなかった。残念ながら、アジェンセンはいまだ王国ではない。パルメニアに比べれば領地も狭く、生産量も乏しく、文化の層も薄い。メリルローズの父であるゾルターク王が、最愛の一人娘を自分に寄越すはずがない、そう思った。
けれど、パルメニア王は意外にも、ルシードの求婚を受け入れ、王女との結婚を許した。この婚姻により、ルシードはついに、かつて生まれて初めての求婚をした彼女を…、ルシードの告白に、嬉しいと涙を流して喜んでくれた彼女を、自分の妻とすることが出来たのだった。
二人は四年ぶりに再会し、そして結婚した。
神の前で、夫婦となることを誓いあった。
――しかし…、
「いったいいまのいままで、何をなさっていたのですか」
ほうほうのていでパルコニーへとたどり着いたルシードに、そんな温かみも労りもまったくない言葉が投げかけられる。
「う…」
「まさか、こんな日まで寝坊なされるとは。あらかじめ今日の予定はマシアスから聞いてあったでしょうに、国主としての自覚が足りないも甚だしい。まったく…」
と、星を孕んだような、美しい青の両眼が、厳しく自分を見つめてくる。
美しいのは瞳だけではなかった。やや血色の薄い、ぬけるように白い肌。そして、ガラスでできた蜘蛛が月光の下で紡いだと思わせる、きらきらと光を孕んだ銀の髪。
黙っていれば文句のつけようがない、”メリルローズそっくり”のその顔は、しかしいま、呆れ一色に染まって、ルシードを見上げている。
「ようやく、このごろ月曜日だけは遅刻しないで来られるようになったのに、やはりほかの朝はいつもの通りなのですね、大公殿下」
「…………」
王城の一番南側、広場に面した大バルコニーで、ルシードは自分に投げかけられるそれらのいやみを、黙って聞いていた。
バルコニーの外側からは、広場いっぱいに集まったパールエルムの街の人々の歓声が、興奮さめやらぬ様子で響いてくる。
彼らは、大公妃メリルローズの誕生日を祝うため、そして、大公夫妻の顔を拝むために、この場に集まったパールエルムの市民たちだ。こうして祝祭日に民へ顔見せするのが、本日一番の大公夫妻の公務だったのだった。