(6)

「わ、悪かったな。だが、時間には間に合ったんだからいいだろう!」
 にこやかに市民に向かって手を振りながら、ルシードは言った。
 だが、多少拗ねて見せたところで、追及の手をゆるめてくれる彼女ではない。
「そういうことを言っているのではありません。殿下、心構えの問題です。典礼をおろそかにされては民の信頼を得られません」
「だから、悪かったって言ってるだろう。ったく、もういい、この話は」
 と、ルシードは、勢いよく繋いでいた手を振りほどく。
 しかし、そんなルシードに冷ややかな目を向けて、彼女は、
「殿下の寝坊は今日に限ったことではありませんでしょう。昨日は早くから寝室にこもっておられたと聞きました。とすると、殿下はいったい毎日何時間お眠りになれば気が済むのですか?」
「うるさいな。昨日は、たまたま寝付きが悪かったんだ。ただそれだけだ」
「……それは、珍しいこと」
 いつも、眠ると決めたら三秒で寝入るような人なのにとばかり、彼女はいぶかしげな顔をしてみせる。
(くそ、誰のせいだ!)
 ルシードは、そう言ってやりたいのを、何とか噛みしめて呑み込んだ。
 昨夜、彼がベッドの中でなかなか眠りにつけなかったのは、ほかでもない彼女のせいである。
 その理由というのは、つまり今日の――
「とにかく、これが終わったら、さっさと朝食室に向かって下さい。今日は、このあとも謁見の予定が詰まっているのですから。みな、わたしに誕生日の祝いをいいに来るだけですが、数が数ですのでね。どうぞ横で昼寝などしないでくださいましよ!」
 にこやかな笑顔の下で、ぼそぼそと物騒なケンカを繰り返すことなど、この二人にとってはいつものことである。それでも、終始笑顔を絶やさないでいられるようになっただけ、ルシードも大公としての務めを意識できるようになったというものだ。
 参賀の時間が終わり、大公夫妻がバルコニーから退却すると、その笑顔も一瞬のうちに剥がれ落ちてどこかへいってしまった。
(やれやれ)
 さっさとダイニングルームに向かって歩き出そうとする妻に見られないようにして、ルシードはほっと溜息した。
「やはり、叱られてしまいましたね。殿下」
 背後で、二人の様子を黙って見守っていたマシアスが、どこか笑いを含ませた声で言う。
 ルシードは毒づいた。
「ふん。あの女にかわいげがないのは、いつものことだろう。誕生日なんだから、もう少し愛想良く手をふってやったらどうなんだ」
「…まあ、その点に関しては、しかたがないことと思われますが」
「ぬ」
 誕生日だというのに、嬉しそうなそぶりも何一つない。女としてかわいげなない。
 しかし、それもマシアスが言うように、仕方のないことかもしれないのだ。
 なぜなら、彼女は、ルシードの幼なじみの、パルメニアの王女メリルローズではない。初恋の相手でもなければ、命をかけて迎えに行くと約束した相手でもない。

 ――ジュラルディ=クラウン

 見た目だけはメリルローズそっくりそのままの、まったくの別人。
 実は彼女は、パルメニアがメリルローズだと言ってよこした、王女の身代わりだったのである。
 その正体は、パルメニアの首都、ローランド一の歓楽街アンティヨール出身の娼婦の娘だ。
 貴族でもない。もちろん裕福な商家の出身でもない。愛を売る女の娘。ジルは平民というよりは、身分としては最下層である、この卑しい身分の出身なのだった。
 その彼女が、どうしてメリルローズの身代わりとして、アジェンセンに送りこまれたのかは、いまだもって謎である。
「おい。待て、ジル」
 さっさと歩き始める彼女の後を追いかけながら、ルシードは、自分ジル、そしていつものように後を付いてくるくるマシアスだけになった頃を見計らって、呼びかけた。
 ――彼女の、本当の名を。
 もちろん、彼女が偽物の妃であることは、マシアスとジル、そしてルシード、三人だけの秘密だ。パルメニアが何を思って身代わりを寄越したのかはっきりしない以上、(それに、アジェンセンの恥にもなるため)とても公言できることではない。
 そして、この三人が結託する理由は、外向的な理由の他にもうひとつある。
 自分たちは、三人に共通するある目的のために、この奇妙な偽物の夫婦生活を続けることになったのだった。
 その目的とは、他でもない、あの大国パルメニアを滅ぼし、アジェンセンの一部として併呑してしまうということ。
 ルシードは、アジェンセン大公としての野心のため、
 ジルは、再び失わればらばらになった姉妹たちを助け、母親の敵をとるため、
 マシアスは、自らの復讐心のため。
 三人は、秘密を共有し、そして結託する。大国パルメニアを滅ぼす、その日まで。
「おいったら!」
「何ですか」 
 彼女は、歩みを止めないまま、ルシードを振り返ることもしないまま、そっけなく背中で言った。
「いや…、だからな、その…」
「言いたいことがあるなら、さっさとおっしゃってください」
 にこりともせず、淡々と受け答えをするジルに、ルシードはむっとなった。”とりあえず、誕生日おめでとう”、その言葉を喉先まで言いかけていたのに、思わず考えていたこととは別のことが口をついて出る。
「人のことばかりあげつらって。お前こそ、もう少し楽しそうな顔をしたらどうなんだ。仮にも今日は、お前の誕生日なんだぞ。なのに、そんなぶすーっとした顔でいいと思ってるのか?!」
「それは…」
 ジルは、痛いところをつかれた、というように口ごもった。
 しかしすぐに、開き直って、
「それは仕方がないでしょう。今日は、パルメニア王女メリルローズの誕生日。わたしの誕生日ではありません。したがって、心の底から喜べと言われても無理です」
「だからって…。ちょっとぐらい、笑う努力をしてみたらどうなんだ」
「この顔は自顔です」
「あのな…!」
 ああ言えばこう言うジルに、ルシードはたまらず、かっとなりかける。
 しかし、何を言っても彼女に言い負かされるのは今に始まったことではない。
 ジルは、頭がいい。それも、悪魔的に知謀が冴える。
 単なる口喧嘩から、内外の政策にいたるまで、ルシードは、ただの一度も彼女には勝てた試しがないのだ。
 だから、ここで腹をたてるのは、まったくもって体力のムダだ。そして、今は朝食前。万が一にも、彼女に勝てるだけの気力も体力も補えてはいない。だからこれ以上の口答えは得策ではないのだ。そう、ルシードは己をぐっと押さえつけた。
 それに、考えてみれば、彼女が終始鉄面皮であろうと、そっけなかろうと、その悪魔的に冴えた頭脳をアジェンセンのために役立ててさえくれれば、自分たちに”盟約”に支障はない。
 自分たちは、夫婦ではない。
 おたがいの秘密を分かち合う共犯者。
 ”仮面夫婦”なのだから――