(8)

 しかし、ルシードが彼女を捕らえる寸前、すかさず、こういうことにも有能な秘書官であるマシアスが口を挟んでくる。
「落ち着いて下さい、殿下。仮にも妃殿下のお誕生日に、大喧嘩というのはよくありません」
「だが、マシアス!」
「妃殿下も、そんなことはおっしゃられずに。どうか今日一日、殿下と仲むつまじくおすごしください。こういうことに聡い女官たちが、どんな噂をするかしれませんよ」
「う…」
「あ…」
 マシアスの言うことは、たしかに最もだった。こんな日に罵りあっているのを誰かに聞かれでもしたら、不仲であるという噂を立てられても仕方がない。
 なのに、ジルはとんでもないというように首を振り、
「いえ…、今日は殿下はどうぞお一人でお過ごし下さい。わたしのことは放っておいて下さって構いませんので」
 などと、無表情でのたまうのだった。
 そのまま、彼女はさっさと足をすすめて、ダイニングルームへ入っていってしまった。彼女は、いまでもルシードの毒味をかってでているので、彼よりも早く出されたものを食べる必要があるのだ。
 そのほっそりした後ろ姿が徐々に遠ざかるにつれて、ルシードは思いっきり肩をつりあげた。
「なんなんだ、あいつは。わけがわからん!」
「どうやら、妃殿下の機嫌を思いっきり損ねてしまわれたようですね」
 どこまで冷静なマシアスの声に、ルシードはかちんときて反論する。
「マシアス。お前まで、俺が悪いと言いたいのか!」
「いえいえ、そうではないのですが」
「だったら何だ。だいたい、自分の誕生日を自分で知らないなんて、そんなことがあるか。あいつは、俺に教えたくないんだ、きっと…」
 口惜しげに、ぎゅっと下唇をかみしめる。
 自分の神を教えないということは、つまり、彼女は自分とはなにも誓い合いたくないということなのだ。
 それほどまでに、ジルはルシードを信用していないのだ。今頃は自分が本物のメリルローズでなくてこれ幸いだと、ほっと胸をなで下ろしているかもしれない。
 そう思うと、情けないやら悔しいやらで、頭の芯がぼうっとしてくる。
 すると、
「まあ…、妃殿下がご自分のお誕生日を知らないというのが事実だとすれば、いささか…。何と言いますか。お気の毒というか…」
「お気の毒?」
 ええ、とマシアスは、声を抑えて言う。
「この信仰圏で自分の誕生日を知らないというのは、それだけで結構不安なことだとは思いますよ。とくに自分が生まれたときのことなど、覚えている人間はおりません。実際、誰かから教えて貰うしかない」
「それは、たしかにそうだが…」
「もし、殿下がご自分の誕生日を誰からも教えてもらえなかったとしたら、どうです? あまり、その話題には触れて欲しくないというのが、正直な気持ちではないですかね。誓いたくても、誓えない。もしかしたら、洗礼を受けていないのかもしれないですし…」
「……洗礼を……」
 ルシードは、黙った。
 もし、ジルが本当に、自分の誕生日を知らないのだとしたら。
 洗礼を受けられなかった子供だったとしたら。
 だとしたら自分は、絶対に聞いてはいけないことを、彼女に聞いてしまったのではないだろうか。
(そうか。洗礼を受けていないという可能性もあるんだ。あいつは、昔母親とは暮らしていなかったと言っていた。
 生まれてすぐに、母親が娼婦の娘であることを隠そうとしたのなら、あいつは母親の手で洗礼を受けさせてもらっていないということになる…)
 ――気の毒、か…
 ルシードは、珍しくも素直に、マシアスの問いを反芻してみた。
 ほかでもない、自分が己の生まれた日さえも分からないような人間だったら。
 だとしたら自分は、いったい、どんな気持ちで、他人の誕生日を過ごしていただろうか、と…