(9)
――なんとも空気の重い朝食を終えた後、偽者の大公妃である、ジルことジュラルディ=クラウンは、いつものようにたったひとり、供も伴わず、王城の北の端にある塔へと足を運んでいた。
公務を終え、少し気をゆるめる時間ができると。ジルはたいてい、熱心に自分の身を飾りたてようとする女官たちから逃れるために、この塔へとやってくる。
公妃である彼女のそばには、つねに公妃付きの女官が一人二人ついて回る。だが、それも王宮の中心部でだけの話だ。この塔の入り口あたりまで付いてくると、彼女らは皆そろって引き返してしまう。
なぜなら、そこは、大公妃専用の薬物実験室であるからだ。
もともと貴人の幽閉所として使用されていたこの塔には、いまではジル以外の誰も足を踏み入れようとしない。もちろん、ジルがしつこくそう言ってきかせたせいもある。しかし、
(偉いひとたちって、ほんとうにやっかいか生活しているなあ)
うんざりしながら、ジルは、久しぶりに訪れたその室内を見回した。
書棚にはジルがかき集めた書物が並び、テーブルの上蒸留器や釜、柄の長いさじといった、錬金術の道具が所狭しと置かれている。
ほかにも、数種のカンタレラなどの毒草や、ニワトコ・セージをはじめとする薬草、鮮やかな色をしたキノコなどを、ジルはこの塔で栽培していた。もっとも、この部屋にあるものはすべて、命を狙われることの多い、ルシードのために集めているものだ。
彼が毒を飲まされたとき、手早く対処をするためには、ジル自身がその毒を知っている必要がある。そのために彼女は、ありとあらゆる毒や、薬といったものを、研究しているにすぎない。
子供のころから世界中を旅してまわり、男装してパルメニアの医学校に通っていたジルにしてみれば、アジェンセンの医学はどれもこれも時代遅れで嘘ばかりで信用がおけなかった。解毒剤だと言って胃石を飲ませたり、体力のない老人にやたらとしゃっ血を繰り返して壊疽を起こしたりする。だいたい、熱が高い患者に鹿の脳など食べさせていったいなにになるというのだ。ルシードの体は自分が見るのが一番いい。そう彼女が判断したのは当然の成り行きだっただろう。
しかし、事情を知らない者たちからしてみれば、そんなジルの姿は、怪しげな魔術に耽っているとしか見えない。およそ公妃が籠もるのには相応しくない不気味な塔…。しかも内部にはキノコに毒草。客観的にみれば妖しすぎる塔の住人と様子である。
そのせいか、今ではジルは宮廷の内外から、死霊と言葉を交わすことができるだの、魔女などとまことしやかに噂されてしまっているのだった。
(まあ、この部屋の様子じゃ、確かに仕方ないか)
なのに、魔女と怖れている女の誕生日に、山と贈り物が届くのは奇妙なことだと、ジルは思う。
とくに、今日はジルが身代わりとなっているメリルローズの誕生日ということもあって、彼女の身辺が騒がしい。もちろんそれには理由があって、アンゲリオン星教の習わしでは、生誕日というのは自分の守護聖人への感謝を表す意味もこめて、特に盛大に祝うことになっているからだ。
対外的には、ジルはこの国で一番高貴な地位にある女性である。正確には、ジルが装っている、パルメニアの王女メリルローズが、だが。うっかり部屋でくつろいでなどいると、彼女の関心を引きたいあらゆる勢力、豪族、そして貴族たちからの下心たっぷりの贈り物に埋もれてしまうだろう。そう予想した彼女は、自分への贈り物はすべて自室に届けてくれるよう、公妃つきの女官であるリリュカに頼み、早々にここに籠もることにしたのだった。
むろん、最低限会わなければならない相手には、謁見を許したあとである。朝食を終えてから三時間、身支度の時間を除けばほぼぶっつづけで玉座の上から笑顔を振りまき続けた。権力者の常とはいえ、いつも、それらの相手もしなければならないというのもおっくうなことだ。それも、貴人の務めというならば仕方がない。
しかし、今日ばかりは、特別に憂鬱に感じる。
なぜなら、今日は、本物のメリルローズの誕生日。
偽者のジルの誕生日ではもちろんない。
そればかりか、ジルは、自分の誕生日を知らないのだ。
言っても詮無きこととは分かっているが、他人の誕生日を、さも自分の祝い事のようにして騒がれることは、正直面倒以外のなにものでもない。
「――自分の誕生日を知らないなんて、おかしい、か…」
ジルは、今朝ルシードに言われたことをゆっくりと呟いた。
気にしないようにしていたが、やはり、一人きりになると、夫の心ない一言がまざまざと耳に蘇ってきてしまう。
それが、この世界では特におかしなことだということはジルにもわかっている。生まれたときに、命名よりも先に星教会で洗礼を受けるのは万人の決まりきっているし、そうでないという人間はほとんどない。私生児ですら、遅れて洗礼を受ければ、その日が正式な誕生日になる。
けれど、ジルにはそれすらないのだ。
彼女は、椅子の上で背中をまるめて、膝をかかえた。
「だって仕方がないじゃないか。…だれも、教えてくれなかったんだから…」
すると、急に空気が震え、声がした。