(10)
「誕生日というものは、そんなに大切なのものなのか?」
ジルは、ほんの少し目を開いて、後ろを振り返った。
そこには、いつのまにか、水のような青い髪をした、背の高い女性がふらりと現れていた。
「涙を失ったお前が傷ついた顔をするほどに、人間にとって大切なのものなのか? ジュラルディ」
そう言った彼女は、ふわりと宙に浮いた格好のまま、悪戯っぽい目でジルを見つめている。
「ミゼリコルド」
ジルは、彼女の名を呼んだ。
もちろん、羽根のように軽やかに宙に浮くなどと、人にできることではない。
よって、彼女は、人ではない。
星石の精霊”ミゼリコルド”
太古の昔に、この世に降り注いだ星が地の上に固まって出来たと言われる、大粒のサファイア。いつも、ジルの胸にペンダントとしてぶら下がっている青い石に宿る不思議ないのち――それが、彼女の正体だった。
およそ人には扱えない不思議な術を使う彼女は、もう遠い昔に滅んだ文明の生き残りだという。
ジルは、ときとして彼女の術に助けられ、あるいは試され、そしてそのつど、代償を差し出してきた。
あるときは、笑顔を。
そしてあるときは、涙を。
そうしてジルは、感情を露わにする術を失っていった。嬉しいときも悲しいときも、涙するような残酷な場面でさえ、彼女の表情がひとつとして揺れることはない。今では、そんな顔色一つ変えずたんたんと命令を下す彼女を見て、だれもが、あれこそは氷の心を持つ魔女なのだと噂する。ほかでもない、ジルの夫ルシードでさえ。
「べ、…べつに、傷ついてなんか…ないけど、さ…」
胸元のサファイアをそっと撫でながら、ジルは言った。
「誕生日を知らないのは、今に始まったことじゃない。ずっと昔からだ。いまさら、気にするなんて変なんだ。でも、…そうだね。ミゼリコルド。普通の人間にとって、それはとても特別な日かもしれない。わたしにとっては、違うけれど」
だれもが、あたりまえにもっているもの。
でも、ジルはもっていない。
それを、こんな日は痛感させられる。自分は普通の人間とは、すこし違っているのだということ。
「なるほど。それではお前は、誕生日とやらを誰からも祝って貰ったことがないのか、ジル」
どこかからかうように、ミゼリコルドは笑った。
「誕生日が分からないのなら、だれかから祝われることもあるまい。それとも、そうではないのかな」
「祝ってもらったことはあるよ」
ジルは、そっけなく言った。
「ほう…」
「ほら。言っただろ。わたしがまだアンティヨールにいたころ。キキとヒースと一緒に、年に一度、お祝いして貰ってた」
それは、ジルがメリルローズの身代わりとして、母親たちから引き離される以前のこと。
高級娼婦だった母と、自分たち三姉妹が一緒に暮らしていたとき…、幸せだったあのひとときの中にある思い出だった。
いつも、誕生日のお祝いは、三人揃ってと決まっていた。
母クラレンシースが焼いてくれた、たっぷりと蜂蜜糖の入った菓子。なぜか、クラレンシースからの贈り物は、いつだって三人が心の底から欲しいと思っていたもので、たしか最後に過ごしたその日の贈り物は、医者になりたいと願うジルのために母が揃えてくれた薬学の分厚い書物だった。