(13)
(そうだと、いいのに)
ぽつん、とその想いが、自分でもまったく予想外に浮かび上がってきた。
そうだといい。誕生日当日、メリルローズは国内行事に忙しくて、ルシードはきっとパルメニアのエスパルダ王宮内のトイレで、もんもんと寂しくしていたんだ。パーティにも呼ばれず、贈り物も出来ず。――そう、今のわたしのように。
(…うん?)
ふいに、ジルははっと息を呑んだ。
さっきから自分は何を妙なことばかり考えているのだろう。これではまるで、ルシードに、メリルローズとの思い出がなければいいとでも、考えているようではないか。
(な、なんでそんなこと…。気にしてるわけでも、ぜんぜんないのに)
頬が熱をもっているのがわかって、窒息する勢いで毛布に顔をおしつけてみる。意味もなくじたじたと暴れていたら、急に馬鹿らしくなって、やめた。
今頃は、ルシードはどこかでひっそりメリルローズのことでも思い出しながら、杯を傾けているに違いない。いくら国王に溺愛されていた一人娘とはいえ、その彼女とちゃっかり結婚の約束までしたルシードのことである。思い出が何もないというようなことは、ないはずだ。
愛し合っていたのだ。
そんな想い出は、きっとわたしが母や姉妹を思い出すように、強くて情熱的なものに違いない。
(おういい。さっさと寝よう。どうせルシードは夜更かしするんだろうし)
ジルは、わずかに漏れてくる灯りからも逃れようと、頭からがばっとシーツを被った。
しかしながら、ベッドの上で無駄に暴れたからか、体がほてってなかなかうまく眠りにつけそうにない。
妙な気分だった。一日中嘘の笑顔を振りまいて、体はくたくたに疲れている。ルシードのことにしても、彼には秘書官のマシアスが魚のふんのようにひっついて面倒をみてくれているだろう。
なにも心配は要らないはずだ。
…なのに、こうまで妙な胸騒ぎがするのは、何故なのか。
ふと、シンと静まっていた廊下に、だれかがすり足で歩いてくる音が聞こえた。
(おや?)
しばらくして、かすかな声がかかる。
「妃殿下、お休みのところ、失礼致します」
おそらく今日の夜番の女官だろうが、なぜか声が慌てているのが気になった。
「どうかしましたか」
「あのう、それが、殿下が…」
ジルは一瞬のうちに、顔を強ばらせた。がばっと毛布をめくって、飛び起きる。
「どうしたのです。まさか、殿下に何かあったのですか!?」
「い、いえ、そうではありませんが…」
そこに、新たな声が割り込んだ。それも、思いがけない声が。
「――なんだ。寝てたのか」
女官の持つ、風よけのついた蝋燭のあかりに映しだされたその顔に、ジルはびっくりして目を丸くした。
「で、殿下?」
「こんな早くから床に入るなんてめずらしいな。疲れてるのか」
「い、いえ…。それは…」
ジルは黙った。今日が早く終わってしまえばいいと想ったから、とはとても口にできそうにない状況だ。
「いま、動けるか」
「え、ええ」
「なら、来い」
突然寝室にやってきたルシードは、女官から蝋燭を受け取ると、ジルの手をぐいと引っ張った。そのまま、部屋のそとにツレだし、どこかに連れて行こうとする。
「あの。殿下、いったいどこへ…」
そのときふと、ジルは、握り慣れているはずの手に違和感を感じて、慌てて視線を向けた。
「まさか、手に怪我を…?」
自分をつかんでいる手を両手でとりあげ、手のひらを返してみる。なんと、彼の指には、あちこちに薬用の布が巻かれていた。それも、十本の指ほぼすべてに。
「これはいったい…、ルシード、何があったのです!?」
しかし彼は、ぎくりと肩を振るわせて、
「こ、これは…、ちょっと切っただけだ。心配ない」
「切った!?」
「あ、いや、たいしたことじゃ…」
「だめです。ちゃんと消毒をされたのですか? 切り傷や擦り傷を舐めてはいけません。放っておけば破傷風になる畏れが――!」
ルシードはジルに最後まで言わせなかった。
「いいから、黙ってついてこいって!」
「ですが」
「いいから!」
ジルは、困惑した。
いったい、彼は今まで何をしていたのだろう。だいたい、どうやったら、全ての指を切ったりするようなことが起きるのか。
なにより、いまからどこへ連れて行く気なのか。自分はまだ夜着のままで、人前に出られるような格好ではない。
その上、今は夜中だ。
(なんなんだ、いったい)
しかしルシードは、ジルの混乱などおかまいなしというように、迷いなく足を進めていく。
やがて、二人はロ・アンジェリー城の北側にある、人気のない裏門までやってきた。そこは、左翼宮に使える女官たちが、私用での出入りに利用する門である。
ジルは、門を出たところに一頭の馬が用意されているのを見付けた。おそらく、彼の愛馬である雌馬だろう。首のあたりに白毛が混じっている。毛の短い、美しい草原の馬だ。
が、それを悠長に眺めている余裕は、今のジルには与えられなかった。