(14)
「あの、殿下、何を…!」
あっという間にその鞍の上に押し上げられ、瞬きもしないうちに後ろにルシードが跨る。相乗りさせられたと分かったときには、もう既に馬は走り出していた。
夜陰に、馬の蹄が地面を蹴る音だけが響いていく。結い上げもしていない髪や頬が一気に夜風に巻き上げられる。
そして、目の前は真っ暗だ。
「ルシード!」
悲鳴のようなものが口から出そうになり、ジルは懸命にそれを呑み込んだ。
「しっかり捕まってろ!」
ごく近くで、ルシードの声がした。彼の手が、ジルの二の腕ごと体をぐいと引き寄せた。胸に、顔を押しつけられる。
(あ)
咄嗟に、彼の腰に腕をまわしてから、ジルは、あまりにも彼との距離が近いことに激しく動揺した。
貴婦人が馬に乗るさい、裾から足が見えないようにするために横乗りをする。馬の胴に跨るのではなく、両足を片側に垂らすようにして乗るのだ。
不自然なその姿勢で乗るためには当然、訓練が必要になるし、ましてや全力で馬を走らせるとなると相当な慣れが必要になってくる。
そして貴人でもないジルには、そんな経験はない。まっすぐに乗ったことはあっても、横乗りには慣れていないのだ。ひたすらルシードにしがみついて、馬の背中から落ちないようにするしかない。
だから、彼に抱きつくような格好になっているのは不可抗力なのだ。
(そ、そうだ。不可抗…、ふか…ふかかかか…)
あまりの混乱に、頭の中でまでろれつが回っていない。なにせ、毎朝同じベッドの上で寝起きをしているとはいえ、こんなにも夫に密着したことなど一度もないジルである。
その上、これほどまでに近い距離に彼の顔があるなど、めったにないことだ。
お互い、いままで触れあうことはほとんどなかった。
一週間に一度、バルコニーへ参賀に出るために、手をつなぐだけ。
なのに、いまはこんなに近くにいる。
(近すぎる…!)
目をつぶった。五感のひとつをなくしてしまうと、耳がいつもよりもっと聞こえる気がした。
ルシードが、息をする音が聞こえる。
ルシードの、心臓が脈打っているのがわかる。
触れあった皮膚から伝わる熱に、自分よりも彼の方が体温が高いことを知る。否、それともいま彼の頬が上気しているのは、馬をかけさせているせいだろうか…
(し、心臓がうるさい。顔が、顔が熱い…)
跳ねるようにして後ろへ流れていく景色に、ジルは意識を移そうと懸命に試みた。そうだこんなときこそ冷静に。冷静になろう。ルシードの意図を考えるのだ。
そもそも、いったい、こんな夜更けにルシードは自分をどこへ連れて行くつもりなのだろう。しかも、自分たち二人が城を出るというのに、護衛すらひきつれていない。マシアスが許すはずもないのに、彼が追いかけてくる様子もない。というのは、どういうことか。
(っていうか、あなたはトイレでメリルローズを祝ってあげるんじゃなかったの!?)
問いただしたいことは山ほどあるのに、口を開くと舌を噛んでしまいそうで、ジルは大人しく彼に身を預けていることにした。
そして、
「おい、ついたぞ」
しばらく馬を走らせた後、ルシードはようやく速さをゆるめつつ、手綱を引いた。
先に馬の背から降りた彼に手をさしのべられて、ジルはゆっくりと地面に足を下ろした。
「あの、ここは…」
足の下には、背の低い草の感触がした。まるで丘のように土の盛り上がっている場所だった。駆けた時間からいっても、おそらくはそう、城からそうは離れていない。
今夜は月が明るいのか、灯りがなくても周囲を見るのに苦労はいらなかった。
ルシードは、地面に杭を打って馬をつなぎ止めると、馬の腹にくくりつけてあった羊毛の敷布をその場に広げた。ジルに、座るよう促す。
「座れ」
「あの…」
「いいから座れって」
強く言われて、しぶしぶ腰を下ろす。
「いったい、どういうつもりなのですか。説明して下さい。いくらなんでも、こんな不用心なことは…」
もし、刺客にでも襲われたらどうするのだと、ジルは非難がましく言った。さっきからなかなか心臓が落ち着かないのは、おそらくはそのことが気がかりなせいにに違いない。けれど、彼は心配いらないというように、
「マシアスが、この辺りを見張っている。この丘の下で待っているはずだ」
「そう…なのですか…」
ジルは、あらためて辺りを見やった。なるほど、たしかに、そう遠くないところに、かすかに人の動く気配がある。
しかしながら、こんな夜中にかり出される近衛兵のことを考えると、ジルは気の毒でならなかった。いったいどういう気まぐれで、ルシードはこんな予定にもなかったことをしでかしたのだろうか。