(19)
すっくと、彼女は立ち上がった。
「ジル?」
絹の靴をぬいだ裸足のまま、ジルは、草の上に一歩を踏み出した。砂糖をまぶしたレモンのような月と、その明かりが、彼女の足下を照らし出している。
だから、怖くはない。
振り返れば、あたたかな火がそこにあることを知っているから。
ルシードが、彼女を追ってきた。この気持ちを、ちゃんと彼に伝えたくて、ジルはそっと彼の手を取った。
「手」
「え…?」
「城にもどったら、ちゃんと消毒させてください」
傷の多さを指摘されたと思ったのか、ルシードは顔を歪めてそっぽを向いた。
「……べつに、このくらい何ともない」
「そういうわけにはいきません。小さな傷でも化膿すればやっかいです」
おそらくこの包帯の下には、彼が羊やチーズと格闘してできたときの傷が山とあるのだろう。
腰に穿いたルクナクスを振るえば、一枚の葉でも確実に落とす腕のあるルシードである。なのに、剣の扱いにはあれだけたけているのに、包丁だけは満足に扱えないのかとと思うと、なんだか無性におかしかった。
(ほんとうに、ルシードには驚かされるばかりだ)
いままでは、知らず知らずのうちに、誕生日なんて知らなくてもいいと心でつっぱねていた。
けれど、思いもかけなく、自分は誕生日を手に入れることができた。こんなことは予想だにしなかった。実の母親ですらくれなかったものを、異国の地で出会った、夫が、自分にくれたのだ。
今は心から今日がかけがえなく思う。自分が生まれた見知らぬ遠い日よりも、ルシードが祝ってくれた今日のほうが大事に感じるのだ。宝物のように感じるのだ。
(けれど、この日は、いつまでも、わたしの誕生日にはならないだろう)
駆け出したくなるほどの喜びとともに、それとは違う苦みが、ジルの胸に引き潮のような名残を残していく。
いつの日か、ルシードが再びメリルローズに会うその日が来たら、きっと消えてなくなってしまう”誕生日”だろうけれど。
(それでも、いい)
彼女は思う。
やがてくるその”いつか”まで、この日を自分の誕生日のように思って、大切にしよう。
なぜなら、この誕生日こそ、偽りの夫である彼が、メリルローズにではない、”ジル”に対してくれた、初めてのプレゼントなのだから。
やがて、何かをもごもごと口のなかで呟いていたルシードが、真っ赤な顔のままぽつりと言った。
「……あの、さ」
「え」
「その…、なんだ。――言い忘れるところだった」
「なにをです?」
「だから、た、た……」
「た?」
ジルは、ルシードを見た。
――まるで、苦虫を踏みつぶしたような顔だった。
「誕生日、おめでとう…」
そんな夫の顔を見て、思った。
そうだ。
どんなものでも、消えてなくなってしまうからこそ、愛おしい。
この、彼のはにかんだ笑顔のように。
だからたまには、そんな誕生日があっても、いいではないか。
「ありがとう」
――がらにもなく、泣きたい気分になった。