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    <title>小学館：ルルル文庫／WEB小説_プリンセスハーツ 〜麗しの仮面夫婦の巻〜</title>
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    <updated>2011-12-27T04:10:32Z</updated>
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    <title>プリンセスハーツ～麗しの仮面夫婦の巻～</title>
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    <published>2011-12-27T02:55:00Z</published>
    <updated>2011-12-27T04:10:32Z</updated>
    
    <summary>   昔むかし、あるところに、アジェンセンという、出来たばかりの小さな国がありました。 　その国には、ルシードという名の年若い快活な大公様と、メリルローズという、それはそれはお美しいお妃さまがいらっしゃいました。 　お二人は政略結婚で結ばれましたが、とても仲むつまじく、戦ばかりしている大公殿下をお妃さまがよく助け、アジェンセンの国はとみに栄えていったのです。 　 　しかし、そんなお二人には、だれに...</summary>
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        <name>motoyama(小学館)</name>
        
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        <![CDATA[   昔むかし、あるところに、アジェンセンという、出来たばかりの小さな国がありました。
　その国には、ルシードという名の年若い快活な大公様と、メリルローズという、それはそれはお美しいお妃さまがいらっしゃいました。
　お二人は政略結婚で結ばれましたが、とても仲むつまじく、戦ばかりしている大公殿下をお妃さまがよく助け、アジェンセンの国はとみに栄えていったのです。
　
　しかし、そんなお二人には、だれにも言えない秘密がありました。
　
　なんと、そんな仲むつまじいお二人は、
　実は、
　正真正銘の、”仮面夫婦”だったのです――！

<br>
<br>

　北方の国アジェンセンの国主、大公ルシード＝ミリ＝アジェンセンは、しばしば昔の夢を見る。
　それは、彼の身の丈がまだ今の肩くらいまでしかなかったころ。
　大陸一の強国であり、アジェンセンを属国としている大パルメニアの王宮に、ていのいい人質として預けられていたころの夢だった。
　
「ねえ、ルシード。これは秘密よ。ここのことは、誰にも言っちゃダメなのよ」
　
　サクランボのような小さな唇に人差し指を当てて、しーっと彼女は口をすぼめた。
「ここは、わたくしとあなたしか知らない秘密の場所なんだから。青の庭。青い花しか咲かないところ。パルメニア中でここにしかない花も、東から来たいい香りのする香木もあるのよ。わたくしは、パルメニア王宮でここがいっとう好きなの。いいえ、…ここだけが」
　そう言いながらほほえむ顔のそばで、彼女の長い絹のような銀髪がきらきらと揺れる。
　小さいメリルローズ。
　愛らしいメリルローズ。
　彼より一つ年上で、なのにたったそれだけのことで、いつもそんな風にお姉さんぶってみせる。
　――彼女は、ルシードが捕らわれていた大パルメニアの、第一王女だった。
　そんなメリルローズが、よく家庭教師から逃れるためにルシードを連れて逃げ込んだのは、その昔、パルメニアの何代目かの王様がこよなく愛したと言われる、奥の庭だった。
　翼を広げた鷲のかたちに広がる、パルメニアの金の鷲の(エスパルダ)王宮。小さな彼らにとっては、迷路も同然のそこの、さらに奥…。自分よりうんと背の高い石垣に囲まれた、草ぼうぼうの小さな庭園に、その日メリルローズはルシードを案内した。
　その行動には、ある特別な意味があった。
　ルシードがアジェンセンからパルメニアにやってきて、八年。けれど明日、彼は故郷へと帰る。
　…そう。お別れの時が、近づいていたのだ。
「さみしいわ。ルシードがいなくなってしまったら、もうかくれんぼうもお母さんごっこもできないわね」
　青ニワトコの花をかきわけ、もうすぐ花をつけそうなツユクサを踏まないようにしながら、メリルローズは奥へと進んでいった。
　だれもいない廃園、だれも気味悪がって近づかない奥の庭。
　ここはかつて、残虐王とも悪魔王とも呼ばれたミルドレッド二世が、ひっそりと魔術を行っていたという伝説がある。
　彼女は、しごく残念そうに言った。
「ルシードのお母さん役はとても上手だったわ。それから、ごはんを作るふりも」
「それはどうも」
　そう答えながらも、ルシードの心内は微妙だった。本当のところ彼がなりたかったのは、決してメリルローズの母親役でも弟でもなかったので。
「ね。ルシードはいくつのときに、パルメニア王宮に来たのだったかしら」
「たしか、六歳のころでした」
　もう、八年も前のことをおぼろげに思い出しながら、彼は言った。
　神聖パルメニア王国は、大陸一の強大な国である。
　その北に位置し、まだ国家が生まれて日の浅いアジェンセンは、パルメニアの庇護国として、そして忠実な従属国として、つねに習わしのように王家の子供を人質に差し出してきた。
　ほかでもないルシードは、そのアジェンセンの嗣子として生まれた公子だった。
　双子の弟リドリスがいるとはいえ、いずれは、父のあとをを継いで大公となるはずだった自分…
　なのに、父である大公も母も、嗣子である彼をパルメニアへと差し出した。パルメニアとの関係が悪化すれば、いつ死んでもおかしくない人質として…
（弟の、リドリスではなく！）
　なぜそれほどまでに、自分は母に疎まれていたのだろう。
　あまりにも小さいころに母親とは別れたので、ルシードにはそれが今でもわからない。けれどきっといまでは、彼の双子の弟リドリスが、すっかりあととりの顔をしてアジェンセンの王宮を我がもの顔で闊歩しているのだろう。それだけはわかる。
「かわいそうね。そんなに小さかったのに、お父様もお母様もいないで、寂しかったわね」
「いいえ。でも、俺にはメリルローズ様がいらっしゃいましたから」
　一つ年上の、憎い敵国の王女。
　けれど、彼女がいなければ…、彼女がなにかとまわりからルシードを庇いかまってくれなければ、自分の命はとうの昔に尽きていただろう。そう、思う。
　メリルローズが進む先に、さびた鉄のドーム屋根の古いあずまやが見えてきた。ツタがからまって、まるで大きな鳥かごのようだ。
　彼女は、言った。
「でも、もうお別れね。わたくしは、かごの鳥。生きてこのお城を出ることもない。お嫁に行くこともないわ。きっとお父様が許してくださらないでしょうから」
　そう言われたときに、ルシードは、ついに昨晩寝ずに考えていた、あることを決行することを心に決めたのだった。
　彼女の華奢な後ろ姿に向かって、彼は言った。
「……いつか、貴女をお迎えに来てもよろしいですか、メリルローズ様」
　それは、彼がいつのころからか、ずっと心に秘めていた想いだった。
「え…」
「お、俺が、アジェンセンに帰って、貴女にふさわしい男になったら」
　その言葉の中には、たしかに、弟を倒して、アジェンセン大公位を自分が継ぐのだという野望も含まれていた。けれどルシードにとっては、それ以上に情熱的で熱っぽい響きをもつものだった。
　生まれてはじめての、プロポーズだった。
　そして、おそらくは一生に一度の。
「ルシード…」
　メリルローズは、どこか呆然とした顔で彼を眺めていた。
　足下に、水が流れていた。壊れた噴水がいつのまにか庭に小さな川を作っていたのだ。彼は、その川をなんなく飛び越えた。ここに来たときとは違う。ルシードの背はもうとっくにメリルローズを追い越していたし、川はたんなる水たまりでしかない。
（もう、子供じゃない）
　と、彼は思っていた。
　もう、彼女とままごとで姉弟ごっこをしたりはしない。
　泣きべそをかいている彼を、メリルローズが庇ったりしない。
　二人とも、幼かった日々は、遠く離れつつある。
　彼は十四で、彼女は十五。
　それは、男は騎士の名乗りをあげ、女は嫁に行く歳だった。
　だから、言わずにはいられなかった。
　初めて会ったときからずっと、彼女を見ていたことを。
　――ずっと、愛していることを。
「ルシード、ほんとうに？」
　メリルローズは、一歩ルシードに近づいた。
「ほんとうに、迎えに来てくれるの。わたくしを、この鳥かごから出してくれる？　あなたがわたくしを、お父様から奪ってくれる？」
「そのために、俺はアジェンセンに帰るのです。もはや敵しかいないあの貧しい国へ。貴女を国王陛下から奪いとるためには、力がいる。弟を倒し、アジェンセンの富と権力をこの手にしなければ、この大パルメニアには勝てないでしょう」
「…約束、してくれる？」
「必ず」
　すると、いままで穏やかだったメリルローズの顔が、くしゃっとゆがんだ。
　初めて見る涙が、白く血色のうすい彼女の頬をまっすぐに伝っていく。
「ずっと、だれかがそう言ってくれるのを待っていたわ…」
　彼女は、小さくしゃくりをあげた。
　まるで、子供のように。
「待っているわ、ルシード。いつまでも、この青い妖精の庭で、気が触れた女のふりをしてでも待ってる。あなたがいつか、わたくしを迎えに来てくれるまで」
「メリルローズ」
　もう、すっかり自分より小さくなってしまった彼女を、ルシードは万の勇気を出して抱きしめた。
　彼女は、抵抗しなかった。そのときから、彼は彼女の中で、自分という存在が泣き虫の弟から自分を守ってくれる騎士へと変貌したことを知った。
「必ず、迎えに来ます。時間はかかるでしょう。あなたをお待たせするかもしれません。けれど、俺は忘れない」
「わたくしも忘れない。たとえ、あなたが迎えに来てくれなくても。醜い白髪の老婆になっても、ここで青い花だけを摘んで待っています。死者の国に咲く花だけ…」
　彼は、メリルローズの青い目を見た。
　そのように青い色を、ルシードはほかに見たことがなかった。伝え聞くところによると、商人たちが行き交う東の砂漠の上の空は、そのように青いという。
　あるいは、死者の国の花も。
　――そのとき、彼女の紺碧の両眼に映った自分の顔を、ルシードは片時も忘れなかった。
「約束します」
　彼は、彼女に口づけた。
　はじめての口づけは、そこが庭園だったからだろうか…、
　――花の、香りがした。
　
　
　――それから、メリルローズと別れ、アジェンセンに戻った後の四年間は、ルシードにとって血を吐くような日々の連続だった。
　まず、彼は、弟リドリスを跡継ぎとしようとしていた母を殺し、実の父と戦った。地方に何年潜伏もしながら、中央集権化に取り残されていた部族とのかかわりを深め、彼らの力を得ることで、父大公よりも強大な武力を手に入れることに成功した。
　そうして、彼が父を破って念願のアジェンセンの大公位についたとき、真っ先に望んだのは、パルメニアの第一王女メリルローズを、自分の妃として迎え入れることだった。
　この四年、彼がアジェンセンを掌握し、徐々に外部への影響力を強めている間にも、大パルメニアは疲弊していた。
　現国王ゾルターク一世の改革はことごとく失敗…。貴族たちの心は離れ、パルメニアはかつてのような強大な国ではなくなっていたのだ。
　
「必ず、迎えに来ます」
　
　あの深い春の日に、己の守護聖人と誇りに誓ってから四年目にして、ルシードは約束どおりメリルローズを妻にした。
　二人の結婚式は、かつてなく盛大なものだった。
　アジェンセン中の国民が、約一ヶ月の間国を挙げてのお祭りさわぎに酔いしれ、大パルメニアの第一王女を、こんな小国の大公妃として迎え入れられる喜びと、まさかという驚きに浸っていたのだった。
　この四年の間、ルシードは、変わらずにメリルローズを愛していた。
　メリルローズもまた、再会したとき、ルシードに会いたかったと言った。
　
　そして…
　
　いま、神の前で誓った夫婦である、夫ルシード＝ミリ＝アジェンセンと妻メリルローズが同衾するベッドの真ん中には、なぜか、だれにも見えない国境がある。
　
「こんな状態で、よく寝れるな」
　その朝、めずらしく妻より早く起きたルシードは、自分の隣で死んだように腕を胸の上で組んで眠っている彼女の顔をしみじみと見た。
　…あれから、四年。
　十九歳になったメリルローズは、相変わらず美しかった。
　金と銀のまざったようなまだらの髪は、まるで天上の国を流れるという水のようだったし、いまは閉じられている瞼の下には、星を孕んだ青の両眼がある。
　そして、抜けるような白い肌。
　色の薄いツンととがったくちびる。
　もし、一介の庶民がパルメニアの（しかも父王の命令によって監禁され、王宮の奥深くから一歩も出たことがない）王女の顔を知っていれば、紛れもなくあのメリルローズに間違いないと言うだろう。
　しかし、残念ながらそうではない。
　いま、ルシードの隣に眠っているのは、ルシードの妃であっても、あの日結婚の約束をした幼なじみのメリルローズではなかったのだ。
　なぜなら…
「あ」
　彼の無意識のため息が頬にかかったためか、彼女が目を覚ました。
　そうして、まるで人形のように角張って首を動かし、朝っぱらから着替えもせずに妻の顔をじいっと見つめている夫に向かって言う。
「……なにをなさっておられるのですか？」
　その鈴を振るような声までもが、まさにメリルローズそのもの。
「な、なにって、その…」
「殿下。珍しく早起きされたのなら、わたしの顔など見ていず、さっさと支度係をお呼びください。今日は一般参賀の日です」
　そのパサついたパンのような乾いた返事に、ルシードはがっくりとうなだれた。
　新婚一年だというのに、それらしい甘い雰囲気もクソもない。
　それもそのはず、実は、彼女はメリルローズではない。あの自分が幼い日に恋をした、銀色の妖精…、大パルメニアの第一王女ではない。
　
　彼女の名前は、ジェラルディ＝クラウン。
　
　出身は、パルメニアの首都ローランド一の歓楽街アンティヨール。
　そして、母親は高級娼婦。
　そう。実は彼女は、パルメニアがメリルローズだと言ってよこした、彼女そっくりの身代わりだったのである！
　彼女は勢いよく起きあがると、パンと手を打ち、
「さあ、起きてください殿下。…誰かある！　なんと、大公殿下がめずらしく、すでに起きていらっしゃいますよ！」
　その身も蓋もないジルの言葉に、女主人から声がかかるのを今や遅しと待っていた女官軍団が、どどっと大公夫妻の寝室へなだれ込んでくる。
「お支度のお時間でございます」
「お支度のお時間でございます」
　あっという間に、二人が上体を起こしている寝台の周りは、女官たちによってとりかこまれた。
　よく見ると、皆、腕には洗顔用の水差しから盥、服用のブラシ、バスケットいっぱいの髪結い道具、数とおりの衣装を山のように抱えている。大公夫妻が目覚めるとすかさず押しかけてくる、朝の身支度係だ。
　その数、およそ二十名。
「おはようございます、大公殿下！」
「おはようございます、大公妃殿下！」
「ああ、おはよ…」
　うつろな顔でルシードは答えた。
　偽物の王女、
　そして、偽物の妻…
　
　かくして、ルシードの、いつもの災難の一日が始まるのだ。
　


　――アジェンセン、という名の国があった。
　国土は、大陸のやや東よりの北方。元は、荒々しい騎馬民族が治めていた土地であり、数百年の間、二十四の部族がそれぞれの土地をめぐって争っていた無法地帯である。
　そのアジェンセン…、火山が多いことから、古い言葉で火の国という意味をもつこの草原を、ジハード＝ロンギオンという一人の男が統一した。
　これが、現在のアジェンセン公国のはじまりである。
　その小さなまとまりをより強固なものにしようと、大王ロンギオンは、大国パルメニアに朝貢使を送った。
　これにより、アジェンセンは国家として正式に認められ、パルメニアの庇護国として歴史を刻み始めたのである。
　以来、五十年。
　アジェンセンの民にとって、パルメニアからの完全な独立は悲願だった。
　もちろん、それは現在のアジェンセンの主、大公ルシードにとっても同様である。
　そして、彼の側に影のようによりそう、一人の女性にとっても…

＊

「おや、これはおめでたい。殿下が私にたたき起こされるまでに目覚めていらっしゃるなど、実に何年ぶりでしょう」
　と、朝っぱらから余計な一言を吐いてみせたのは、ルシードの首席秘書官であるマシアス＝ソアソン準男爵だった。
　すらりとした、というよりはやや痩せぎみの長身を、秘書官らしい深緑の長衣で包んでいる。房のついた肩掛けがないのは、彼のもつ爵位が世襲制でないことの証拠だ。
「おはよう、マシアス」
　仏頂面でルシードは言った。
「おはようございます、いつもはお寝坊の大公殿下。今日は良い天気だと思っておりましたが、実は昼から槍でも降りますかな」
「うるさい」
「ちなみに、今朝は昨日と比べて二十三分の早起きです。もちろん新記録です。すばらしい。いつもこの調子でお願いしたいものです」
「…………」
　このせっかち男マシアスの手の中にあるのは、精密機械で知られるヴィスタンシア製の小型時計である。
　おかげで、ルシードときたらなにをするにも分刻み。唯一一人きりになれるトイレの時間すら、きっかり時間をはかられて大か小かを申告されてしまう。
　それで、ついたあだ名が”時計男爵”。
　彼が、各国の王族ですら持っていないというこのすばらしい機械を手にしたせいで、ルシードは毎日のように彼と時計の針に追い立てられる日々をすごしている。もちろん、その被害は彼だけにとどまらない。このアジェンセンのロ・アンジェリー王城では、通りすがりに彼に時間をせかされる人間が少なくないのだ。
（あー、ねむい）
　ルシードは、あくびをかみ殺した。
　国の主たるものの務めの中に、朝の一般参賀というものがある。
　これは、もともとは遊牧民族だったアジェンセンをひとつにまとめた、偉大なる初代大王ジハード＝ロンギオンが始めたもので、国主であるルシードといえど疎かにするわけにはいかない宮廷の習わしだった。
　ルシードがぽかんとしている間にも、妃を伴った女官軍団の半分は、さっさと部屋を出て行く。女の身支度には時間がかかる。男の自分のように、寝室でさっと着替えて済むようなものではない。
　なのに、ルシードがぐずぐずしている隙に、あの長い銀髪を見事に高く結い上げ、耳上に大きな生花を差して、じゃらじゃらと音の鳴る簪とともに現れるのである。
　女は男よりもずっと非力だと言うが、自分の身を飾るアクセサリーの重さにだけは耐えられる生き物らしい。…と、ルシードなどは思う。
「殿下、御髪をととのえます」
「今日のお衣装でございます」
　馬油で髪をなでつけられ、細身の脚依を穿かされ、胸元に立ち上がった竜の刺繍が大きく入った練り絹の長衣に袖を通す。この長衣は袖ぐりや襟ぐりに貂の毛皮が飾られている豪奢なもので、主に典礼や今日のような一般参賀の日にしか着用しない。もちろん、王冠もだ。
「殿下、指輪でございます」
「統治杖でございます」
「腕輪でございます」
　専属の金物係が、ぴかぴかに磨き上げられた金属製の装飾品を、うやうやしく銀の盆の上にのせて差し出す。重い、とにかく重い…。身軽さを第一に好むルシードにとっては、鋼鉄製の甲冑のほうがよほど軽く思えるほどである。
「殿下、一般参賀まであと三分です。お急ぎください」
　マシアスの…、というより、彼の手の中の時計においたてられ、急ぎ足で部屋を出る。王城の一番南側、広場に面した大バルコニーのある部屋の前までくると、すでにジルが、上から下まで完璧なお妃姿に身を包んで彼を待っていた。
「遅かったですね」
「わ、悪かったな」
「せっかく早起きをしたというのに、いったい何をなさってたんですか」
　その涼しげにイヤミを吐く顔を、たまには絶句させてやりたくなって、ルシードは言った。
「美人の女官に見とれていたんだ。すごい美人だ。おまえなんかより」
「なにをいまさら。宮廷の女官が美しいのはあたりまえです。そうやって選んでいるのですから」
「…………」
　イヤミのつもりで言った一言も、そんなふうに大まじめに返されて、ルシードは逆に黙り込んだ。
（くそう…、ああ言えばこう言う…）
　まったくもって、かわいげのない女だと思う。なんでこんな女が、よりにもよって自分の唯一の妻なのだろう。
　マシアスの声がかかった。
「両殿下、一般参賀のお時間でございます！」
　がらん、がらんがらん…
　アジェンセンの都パールエルムの街中に、この街で一番高いところにあるパールエルム大聖堂の鐘が鳴り響く。それとほぼ同時に、ルシードの目の前の、バルコニーへと続くドアがあけられた。朝日がまぶしい。しかし、出なければならない。
「おい、手」
　ぶっきらぼうにジルの手をとると、その手を前に差し出しながら、彼はずいと前へと進み出た。
　広場いっぱいに集まったパールエルムの人々の歓声が、バルコニーで二人を出迎える。
　ルシードたちは、出来るだけにこやかに手を振ってみせた。正直、民の顔など見えたものではない。しかしやらねばならない。これがこのアジェンセン公国の国主たるものの務めなのであるから。
（おい）
　朝起きたときから少しも変わらない鉄面皮のジルの脇を、肘でつつく。
（少しは笑えよ）
（笑ってます）
（笑ってねえよ、ぶすーっとしやがって。そんなんで一般参賀になるかってんだ）
（あなたこそ、今日、民にかける言葉は決めてきたのですか？）
　彼女に、脇ではなくもっと痛いところをつつかれて、ルシードはうっと押し黙った。
　そう、アジェンセン大公の務めとは、ただバルコニーに出てにこやかに手を振っているだけではない。
　ありがたくも、じきじきに大公の声を聞くことができる機会として、集まってくれたアジェンセンの民に向かって、毎回教訓めいた一言をかけなければならないのだ。
　なにをかくそう、ルシードはこれがいちばん苦手だった。
　文化人として名を残した祖父ロンギオンはともかくとして、毎週毎週、しかもまだ頭に血がまわりきっていない早朝に、みなに気の利いた言葉をかけろというほうが無茶である。
「…だから、前の日に考えておいたほうがいいと言ったのに」
　隣から聞こえてくるボソッとしたつぶやきが、ルシードの心境をますます危うげなものにする。
「う、うるさいな！　朝の言葉くらい、ちゃんと考えてある。昨晩から練りに練ったやつを用意してきたんだ」
　彼は、心にもない強がりを言うと、ジルを置いてバルコニーのぎりぎりまで進み出た。いよいよ、大公の”お言葉”が始まるのかと、民衆たちは声をあげるのをやめて彼が何か言い出すのを待ち始めている。
「お、おはよう、諸君！」
　ルシードは言った
「あー、おはよう。今日も良い朝だ。良い朝、だから…」
　しかし、なかなか後が続かない。
（ううう……）
　朝日が目にしみる。
　沈黙が長引いた。後ろで、マシアスがごほんと咳払いして、先を促す。
　どうにもこうにも追いつめられ、しかたなく彼は言った。
　まるで、怒鳴るように。
　
「みんな、ちゃんと朝メシは食え!!」
　
　…一瞬間をおいて、王城前の広場は、大爆笑の渦に巻き込まれた。
＊
「馬鹿じゃないですか」
　ぐさっ。
　妻の心ない一言が、手にしている二股フォークのように、ルシードの心につきささった。
「いったい、あれのどこが、昨夜から練りに練った”朝のお言葉”なんでしょう」
　場所は変わって、そこは大公夫妻が毎朝食事をとるダイニングルーム。
　午前中、光が一番入るようになっているその東南の角部屋には、季節ごとに模様入りの絨毯がしかれ、壁には暖かみのあるタペストリーが、そして毎日のようにオイルで磨かれた家具調度品が並んでいる。
　そして、テーブルの上には朝食が。
「今日の”お言葉”は、指で数えて約六秒半といったところでしょうか。新記録ですな」
　と、秘書官のマシアスが言う。
　彼は、細長いテーブルに向かい合っている大公夫妻のちょうど間に、分厚い予定表を広げながら立っていた。
　ルシードは、フンと鼻をならした。
「何が悪い。短くても、十分民のことを思いやっている。いい言葉じゃないか」
「へーえ」
「ほーう」
　朝日とは正反対の冷たい視線をあびて、ルシードはしきりに冷えたスープを口へ運び続けた。腹がすいていたのではない。単に、返す言葉がなかっただけだ。
「ま、とにかく。今日も今日とて予定がたてこんでいます。分刻みでの行動をおねがいしますよ、特に殿下」
「へーへー」
　ルシードは、ゴブレットの中に残っていたりんごのシードルを飲み干し、新たに自分で注いだ。朝食の間は、主にマシアスとジルとの内緒話の時間にあたるので、いったん食事がそろってしまうと給仕の出入りはない。
　彼らが、ここまで警戒するのには、ある理由があった。
　それはほかでもない、パルメニアから嫁いできた大公妃メリルローズが、実は偽物であるからなのである。
　実は、彼女が偽物であるということは、この三人しか知らないことだった。
　そして、この三人だけの秘密の盟約があるということも…
「いまのところ、妃殿下のことを疑問に思っている人間はいないようですな」
　と、マシアスは言った。
「まあ、それもそうでしょうな。ルシード殿下が騙されるくらい、うり二つでいらっしゃるようですから」
「俺には、悪夢だけどな」
「…………」
　ルシードは、パンをちぎっているふりをして、チラリとジルを盗み見た。
　しかし、彼女はいつものごとく、特に傷ついた様子も彼の言葉に反応した様子すらない。
（なんて表情の乏しい鉄面皮女だ）
　と、ルシードは舌打ちする。本物のメリルローズ王女は、あんなにもはかなげでたおやかな美少女だったのに…
（外面が似ているだけで、中身はまるで大違いだ）
　しかし、いくら彼女のその無表情、無反応が気に入らなくても、ルシードはこれからも彼女と、いまのような夫婦生活を続けていかなければならないのだった。
　彼女と交わした、”とある盟約”のために。
　マシアスが言った。
「ご朝食のあとの、本日の殿下のスケジュールです。午前十時、各長官・大臣らを交えての会議になります。本日の議題は、例の”十字大街道”の建設について」
”十字大街道”とは、まだ統一後日も浅いアジェンセンの領土に、都パールエルムを中心として、アジェンセンを十字に貫く大街道を建設しようという、画期的なこころみのことだった。
　実は、この街道の建設は、アジェンセンという国のこれからの発展に大きくかかわってくる。
　なぜなら、今のままの小規模な街道では交通も不便で、いたるところに領主が勝手に関所をもうけ、税のとりたてがスムーズにいかない。なにより、国中を網羅しているというにはあまりにもとぎれとぎれで、なにかと運搬に時間がかかりすぎる。
　なにより、いまのままでは大規模な軍隊をパルメニアには派兵できない。未熟な街道で迂回路をとってばかりいるうちに、パルメニアの首都ローランドでは、防御策がとられてしまうだろう。これでは、奇襲の意味がない。
　しかし、大臣たちはこの大街道の建設には否定的だった。
　金が、かかりすぎるからである。
「そのことに関しては、昨夜のうちに殿下にカンペをお渡ししてあります」
　そっけない口調で、ジルが言った。
　マシアスが、ふとルシードを見る。
「ほう、ということは昨夜はまたお二人とも、寝室で寝ずに対策を練っておいでだったと」
　ルシードは、心なしか胸を張った。
「そうだ。そして、ばっちり対策案もまとまった」
「主に、妃殿下の案で？」
「…………」
　そうだ、と一呼吸おいてから、ルシードはしぶしぶ認めた。
　昨夜、ルシードとジルの共有する寝台は、二人きりの会議の場になっていた。
　そして、彼の提案した事項は、ことごとく妻によって論破されてしまったのである。
　もっとも、これはいつものことだ。
　世界広しといえども、天蓋のまとめを下ろしてまで、あーでもないこーでもないと書類と格闘している夫婦は、自分たち二人くらいのものではないだろうか。と、ルシードは思う。
　ちなみに、彼らのベッドが、本来の使用目的で使われたことは、一度もない。
　一度も…
「結構なことです。寝台の使い方としてはいささか使用目的に反しておりますが、お二人に本来の使い方を強要するつもりはありませんからな」
「と、当然だ」
　なぜか、ルシードの返事はつかえがちになる。
「この”十字大街道”の建設をこれ以上遅らせては、のちのちの我らの計画にさしさわります。なんとしても、今日の会議で決着をつけなくては」
「ああ、わかってる」
　マシアスの言葉に、ルシードとジルが頷きあう。
　なんとしても、今日の御前会議で、あのクソ憎たらしい大臣どもを黙らせなくてはならない。
　父であった大公を戦で破り、新たにアジェンセンの国主の座についたルシードだったが、ただ兵を動かすだけでは国は治まらないことは、じゅうじゅう承知しているつもりだった。
　王とはいえ、他人の協力がなければ、政はできない。
　そしてその政に一番やっかいなのは、人の心。
　その人の心を読み間違うことのないためにも、いまの彼には、ジルが必要だった。
　彼女の、悪魔的なまでに冴えた頭脳と、知略が…
「それから、もう二つほど懸案が」
「なんだ」
「午後からの謁見で、公都パールエルムの医師衛生局組合の代表が参っております。この問題はもう四年も放置されておりますので、急ぎ手をうつ必要があるかと」
「医師衛生局…？　医者どもの寄り合いが、この俺にいったいなんの用なんだ」
「まあ、つまり、医師の就業発行権について、です」
　マシアスが、手短に説明し始めた。
　医師衛生局は、先だって大陸中に蔓延した”死神病”にともない、各都市でととのえられた医師たちの組合である。
　彼らは、都市を衛生的に保ち、高度な医療の発展をおしすすめるために、医師を開業する権利（すなわち医師試験を実施する権利）を自分たちに与えるよう求めてきた。
　しかし、それに待ったをかけたのが、アンゲリオン星教会である。
　この大陸の主立った国々は、ほぼ、このアンゲリオン星教という宗教を信仰している。
　…で、ある以上、人々は国を治める王とともに、法王と呼ばれる星教のトップからも、信仰という名の支配をうけている。
　つまり、国には二人の王がいるようなものなのだ。
　そして今回、その国王に勝るとも劣らない権力をもつ彼らが、この医師組合にいちゃもんをつけてきた。
「いままで、神と精霊による”奇跡”を必殺技としてきた星教会にとって、医療行為はお手軽に民意をつかむことができる手段のひとつだったのです。
　そんな彼らの活動資金は、もちろん多額の寄付と民による信仰心。それらを得続けたい教会にとって、病気を治すことができるのは、ぜひとも聖職者の特権であることにしておきたいのですよ」
「なるほど」
　マシアスの説明に、ルシードは納得した。
「だから、坊主どもが反対しているのか。医師組合に就業権を渡せば、自分たちのやってるインチキ医療がモロにばれるもんな」
「そういうことです」
　しかし、このことを、単に馬鹿らしいという一言ですましてしまうことは、ルシードにはできない。
　現在、アンゲリオン星教会は、司法権の半分と、所得の十分の一を税として徴収する信仰税の権利を保有している。
　簡単に言うと、権力と金をもちすぎている集団なのだ。
　坊主を怒らせると、さらなる第二の必殺技”破門”をくらってしまう。大公といえど、やつらは安易に敵にまわしていい存在ではない。
「ったく、奇跡の大安売りで俺より金持ちのくせに。あいつらが大陸街道を造ってくれたらこっちはどんなに楽か」
　と、ルシードは思わずぼやいた。
　たしかに、やっかいな問題だった。
　できるだけ、組合は支援してやりたい。また、”死神病”のような疫病が大流行したら、パルメニアに侵攻どころではなくなってしまう。
　しかし、坊主も怖い。
（さて、どうしたものか）
　正直なところ、一つの問題が片づいても、新たに三つ四つ立て続けに問題が起こっているのが政府の現状なのだった。
「そのことに関してですが…」
　ふいに、いままでほとんど言葉を発していなかったジルが、言った。
「妃殿下？」
「ジル？」
　彼女は、椀の中のミルクとインゲンのスープを綺麗にたいらげてしまうと、スプーンを置いて、
「明後日、大司法院で開かれるジギー＝バロンの裁判をわたしにまかせていただけるなら、わたしに案があります」
「ジギー＝バロン？」
　いぶかしげに、ルシードは言った。マシアスが、横から口を挟んだ。
「って、あの大泥棒団パペット団のボスのことですか。半年前に捕まって、すでに星教会で絞首刑が決まっているという…」
「ええ」
　前述のとおり、大陸のほとんどの国では、司法権の半分は教会がもっている。そして、たいがい教会の決定のほうが強い。国と教会、二審行われるのはかたちだけで、教会の決定が司法院でくつがえされることはめったにない。
　なぜなら、みんな坊主が怖いからだ。
　なのに、ジルはそのほぼ決まってしまっている死刑囚の運命を、いまさらどうするつもりだというのだろう。
「いったい、どうする気なんだ。そのバロンとかいう男の裁判を利用して、教会にケンカでも売るつもりか」
「まさか」
　ジルは、いつもの冷酷な笑みを口元に浮かべ、
「そんな野暮なまねはいたしません。ただ、その裁判をわたしにまかせていただけるなら、星教会から医師就業権をとりあげ、なおかつ大陸街道の資金を彼らから出させてみせますが…」
「なんだって!?」
　あまりのはったり発言に、ルシードはテーブルの向こうで涼しげな顔つきでシードルを飲んでいるジルを睨み付けた。
「おい、たかが死刑囚の裁判でどうしようっていうんだ。もう四年ももめている懸案なんだぞ。しかも、あのケチな坊主どもから、街道の資金をまきあげるだと。ほらもたいがいにしろ」
「ほらではありません」
「じゃあ、どうするんだ！」
「それは、わたしの条件をのんでいただいてから話しましょう」
　天蓋の中で、と彼女は付け加えた。
　ルシードは、ぎりりと歯を食いしばった。
　彼女がやれると言ったからにはかなりの確率で勝算があることが、ルシードはわかっていた。
　しかし、にわかには信じられない。
　星教会は、大陸中に支部を持つ、もっとも大きな組織だ。ひとつの国家よりも大規模なのである。
　そんな組織を相手に、たかが女一人の知恵で利権をもぎとれるのだろうか。
（いや、たかが女じゃない。こいつだからやれるのか…！）
　ルシードは、悔しげに言った。
「ほんとうにやれるのか。その男の裁判をまかせるだけだぞ。そのために、金貨一枚だって、一兵の手練れだってお前にはやらん。それでもか」
「はい。そればかりではなく、殿下の手持ちの切り札を、一枚増やしてさしあげましょう」
「切り札だと」
「ええ。どうせ動くのなら、二兎も三兎も得ることを考えたいもの。それに切り札は手に入れるものではない、もともとはただの紙です。そこにもったいぶった絵柄を書き込んでこそ切り札になる…」
　その、あまりにも都合の良い彼女の言い分に、ルシードは思わず悪魔と取引している気分になった。目眩をこらえながら言う。
「…い、いいだろう、そのバロンとかいう男、お前の好きにしろ」
「ありがとうございます」
「そのかわり、失敗したらどうなるかわかってるんだろうな」
　脅しともとれる口調で、ルシードは彼女に詰め寄った。
「ここパールエルムはアジェンセンの首都。まがりなりにもあの教会は大司教区の統括だ。もし、お前が坊主どもとの関係を悪化させれば、いろいろと面倒ことになる。――責任をとってもらうぞ」
　まな板の上に乗っかっていたハーブで煮込んだ肉のかたまりに、わざとらしくぶすりとナイフを入れる。
　しかし、ジルは動じなかった。
　彼女の数少ない表情のうち、もっともよくする薄い氷のような笑みを浮かべ、言った。
「そのときが来たなら、反対にあなたさまがわたし自身を個人裁判にかければよろしいでしょう。どうせ、わたしは偽物の妻。アンティヨールの娼婦の娘。煮るなり焼くなりお好きになさったらいい。もっとも、そのときが来たなら、ですが」
「……っ」
　ルシードは言葉を失った。思わず、手持ちぶさたになった腕を胸の前で組んで、余裕を見せようとする。
　しかし、
「その腕を組む癖、早くお直しください」
「なんだと」
「自分が相手に対して必要以上に警戒心をもっていることがバレますよ」
　さらに、ルシードは言葉を失う。…のが嫌で、彼は無理矢理に笑ってみせた。
「まさか…」
　慌てて解いた手で、今度はもう一方の腕でさする。さらに、落ち着きなく首をさすって、髪をかき上げる。
　すかさずジルが、言った。
「その、やたらに自分の体をさする癖もです。見る人が見れば、あなたの弱点がわかります」
「ほ、ほう、それで、俺のなにがわかるっていうんだ」
「たとえば、貴方がお母様に愛されなかったこととか。本当は、だれかに甘えたいと思っていることとか…。寒さが苦手なところとか」
「!?」
　今度こそ二の句が継げないどころではなく、ルシードは絶句した。信じられないという目でジルを睨め付ける。
（こいつ、俺の心が読めるのか!?）
　いつも、こうだ。この女を少しでも困らせてやろう、動じさせてやろうと揺すぶりをかけるのに、それがうまくいったためしがない。それどころか、「やれるもんならやってみなさい」とばかりに一笑に付されるのだ。
　ふりまわされる。
　彼女の、メリルローズそっくりの美貌。
　金と銀の髪、冬の国を閉じこめたような寒さと、つららの鋭さを併せ持つ視線。
　そして、泉のごとくわき出る知略に。
「…魔女め！」
　ルシードは、徐に彼女に向かってナイフを放り投げた。ビイイン、とナイフが大きくしなって、ジルの首筋を通り抜け、すぐうしろの柱に突き刺さる。
「たいしたタマだよお前は。たかが歓楽街出身の女の分際で、俺の影から一国をあやつってみせる。おまえの言うとおりにして、いままでどうにもならなかった問題が一気に片づいたことだって少なくない。今日の会議だって、うまくいくだろう。お前の言うとおりにすれば。なんせ、人の心が読めるのだからな！」
「…………」
「だが、俺はお前と話すたび、悪魔と取引している気分になるのさ。もっとも、周りの者が言うようにお前がほんものの魔女なら、さもあらんことだろうがな！」
　しかし、なにを言われようとも、ジルは顔色ひとつ変えない。
　その落ち着き加減が、いちいち自分が馬鹿にされているようでルシードはいらつくのだ。
　そして、もっとひどい言葉をかけたくなる。
　朝のダイニングルームに、険悪な雰囲気が漂い始めた。すかさず、有能な秘書官マシアスが、場の話題を変えようとした。
「さて、殿下がた。三つ目の懸案事項です。先日、焼死なさったボンヌフォン公爵の葬儀を、国葬にするかどうかで、彼の親族が相談に参っております」
　二人は、飛ばしていた火花をおさめて、それぞれマシアスを見た。
「ボンヌフォン…？　ああ、たしか俺の遠い親戚だな」
「王位継承権第十位をお持ちです。もっとも、御歳から言うと閣下が大公位に就かれることはありえなかったでしょうが」
　その、王族の一人、老人ルパート＝ボンヌフォン公爵が、先日死んだ。
　死因は、焼死。
　ここ数年来足を悪くしていた公爵は、ふいの昼間の出火に逃げ遅れたのだという。
「なにか、不審なことでも見つかったのか」
「いいえ。出火原因は暖炉の火が絨毯に燃え移ったのではないかと」
「昼間だからな」
　と、ルシードは言った。
　もし、だれかによる放火なら、人目につく昼ではなく夜にするだろう。それに、もと軍の権力者とはいえ、公爵が騎士団を引退して早十年以上たっている。だれかの恨みを買っていたとも思えない。
「アジェンセンを統一した祖父ロンギオンの、最後の盟友だ。国葬で送り出してさしあげよう」
「御意」
　ルシードは立ち上がった。それ以上の報告は、会議に向かう途中マシアスから直接受ければいい。
　ジルに声をかけることなく、ダイニングルームを出て行こうとする。ふいに、マシアスが彼女に言った。
「そう言えば、妃殿下は本日のご予定は？」
　ジルは、マシアスのほうを見ることなく、口の中のものを飲み込み、
「いつもの部屋におります」
　そうして、実にゆったりとした風情で、金の酒でも飲むようにゴブレットのシードルを飲み干したのだった。

＊

「いったいなんなんだ。あの女は！」
　下袴を足首までずらし、大きく穴の空いたトイレ用の椅子に腰を下ろしたなさけない格好で、ルシードは言った。
　ここは、ほかでもない、大公専用のトイレである。
　毎朝快食快便のルシードは、朝食を終えうざったい会議に出向く前に、かならず彼専用のトイレに寄るのが習慣だった。
「いつもいつも、人を馬鹿にしくさった目で見やがって。人の心を読むどころか、本物の悪魔だって、あいつにかかれば魂を盗られるってんだ。けっ！」
　ひとしきり、ジルに対する不満をぶちまけたあと、ルシードはふーっと息を吐いた。
　トイレは、いい場所だ。
　この狭い空間と、だれにも邪魔されないわずかなひととき…。幼いころ、敵国の宮殿で軟禁同然の日々を過ごしていた彼にとって、一人きりで落ち着ける場所といえば、トイレくらいしかなかったのだ。
　なのに。
　どんどんどん、と無粋な音がした。
「あと五分ほどで、会議がはじまります、殿下」
　トイレの扉の向こうで、さっきから彼を待ちかまえているマシアスが言った。
「のんきに”大”をなさっている場合ではありません。適当なところで切り上げてください」
「だっ、大じゃない！　単にくつろいでるだけだ！」
　ルシードは、慌てて自分の局部を洗うと、ぽっかりと穴のあいている椅子からたちあがった。
　ちなみに、遊牧民族アジェンセン人の使うトイレは、移動することを考えて壺を使ったものがほとんどである。
（まったく、大公位についてから、トイレの時間すらゆっくりできないとは…）
　盥の上で手を洗って、ルシードはついたてを押しやり、トイレの外へ出た。
　すかさず、マシアスが彼の側に張り付く。
「今日もまた、ストレスがたまっておられるようですね」
「あの魔女のせいでな。あれじゃ、悪魔と契約しているとか、ありとあらゆる毒をあやつり、人の心を読むという噂もあながち嘘じゃないぞ」
「魔女、ねえ…」
　マシアスは、どこか可笑しそうに目を細めた。
　ルシードは、子供のように頬をふくらませて、
「だってそうだろ。あいつが、なにもない空間に向かってぶつぶつ言っているところは、あいつ付きの女官が目撃しているんだし、さっきみたく一目見ただけで相手の心を読むことだってしょっちゅうだ。それに、今日だってこれから、例の”開かずの間”で毒草の手入れにはげむんだろ」
　と、吐き捨てる。
　大公妃メリルローズが、少々変わった性格であることは、いまやアジェンセンの宮廷で知らないものはいない。
　たとえば、”開かずの間”と呼ばれる、彼女専用の部屋の壁一面には、毒キノコがびっしり生えていて、暖炉には魔術に使うトカゲの干物がぶらさがっている。
　それだけではない、棚にずらりと並んだ青い瓶には魚の目が浮いているし（魚の目は悪魔を見ると言われていた）、魔女の使い魔であるフクロウが夜な夜な窓から出入りをする。テーブルの上には、細かい量まで量れる天秤に、ありとあらゆる練金術道具。そして、どこからともなく聞こえてくるぶううんという妖しげな音。
　あげくのはてには、死刑囚の死体を解剖したいと彼女が申し出たことも、数名の宮廷人の知るところとなっているのだ。
　これでも、彼女が魔女ではないと言えるだろうか。いいや、限りなくそれは無理だ。あまりにも、彼女の行動は妖しすぎる。
「しかし、妃殿下のおかげで助かったことも、一度や二度ではありますまい」
「うっ…」
　ルシードは、押し黙った。
「この間、イノシシ猟に出かけて毒を盛られたときも、郊外を視察の際暗殺者の毒矢にあたったときも、熊に対抗して蜂毒にあたったときも、食い意地をはったあげく食中毒になったときも、妃殿下の的確な処置がなければ、あなたさまはとっくにあの世の住人になられていたはず」
「う、うるさいな！」
　返す言葉もないので、自然と早足になる。
「あいつに恩に着る必要はない。俺が健康で丈夫だったからもちこたえたんだ。あいつみたいに食っても食っても太らないような不健康な体じゃないからな！」
「妃殿下のお食事の半分は、あなたの毒味なわけですが…」
「そ、そんなの、俺が頼んだわけじゃない！」
　しかし、あまりにも毒殺されそうな機会が多いルシードのために、ジルが公な場所で彼の毒味役をかって出たのは事実だった。
　それからというもの、彼の食事に毒が混ざることはなくなっている。
　いや、混ざっているのかもしれないが、ジルがその毒に倒れたことはない。
　一度も…
「へっ、魔女に毒など効くものか。あいつには正真正銘悪魔が憑いているんだぞ」
「単なる、女官たちの噂ですよ」
「いいや、あいつは絶対悪魔憑きだ。そうに決まってる。まったく、なんて気色の悪い女だ！」
「けれど、かといって妃殿下に、あなたの人生からご退場いただくわけにはまいりますまい」
　マシアスの言葉には、針のような真実が混ざっていた。
　それが、的確にルシードの心をチクリと刺激する。
「………う」
「あの方の存在は、あなたにとって劇薬のようなものです。うまく使えばこれ以上ない薬だが、使い方を間違えれば毒になる」
　パルメニアがよこした王女メリルローズが、実はジル＝クラウンという偽物の少女だったということは、マシアスとルシードしか知らない秘密である。
　彼らは、決してこの事実を公にすることはできなかった。
　なぜなら、その理由の一つは、偽物を送ってきたパルメニアの意図を計りかねていること。
　二つ目は、偽物を掴まされたことがもし対外に知れれば、統一を果たしたばかりの若い国家であるアジェンセンの恥に…、すなわち傷になること。
　そして三つ目は、
「そう。俺たちの間には、秘密の盟約があるからな」
　ルシードと、ジル、それにマシアス。
　自分たち三人が抱く、大それたともいうべき望み。
　それはほかでもない、あの大パルメニアを滅ぼし、アジェンセンの一部として併呑してしまうということ。
　ルシードは、もちろん祖国アジェンセンの繁栄とメリルローズのため。
　マシアスは、過去の復讐のため。
　…そしてジルは、とある男と再び出会うため、だと本人が言い張っている。
　言うならば、この三人はまったく血のつながらない他人ではあるが、奇妙な契約によって秘密を共有し、結託しているということになるのだった。
　ちなみに、ルシードは、ジルが会いたいと願っている男について詳しくは知らない。
　もう一年もいっしょにいるというのに、彼女は、あまり自分のことを多く話さなかったから。
「たしかに、あの女は頭がいい。それは認める」
「はい」
「東の大陸の医術にも精通しているし、どこで覚えたのか帝王学というのも知っている。嗣子として育てられたこの俺以上にな。その上、あいつの目は、どんな人間の心の秘密をも暴いてしまう。不気味なほどに…」
「あなた様は、たしかに武の王ではいらっしゃいますが、生来の性格が災いしてか政の細かい配慮に向いておられません。その点、あの方はあなた様の影の部分をよく引き受けられる」
「俺が甘ちゃんだと言いたいんだろう、マシアス」
　ルシードの皮肉に、彼は、言い得られたようににやりと笑った。
「その甘い部分が、私の理想とする”大王”に必要だとも思っておりますよ。ただ、それだけでは国は治められない。時には、毒をもって毒を制することも必要です」
「その毒が、あの女か」
　半ばあきらめたように、ルシードはため息をついた。その肩を、なぐさめるようにマシアスがぽんぽんと叩く。まるで、親しい友にするように…
「毒を妻にした男の気持ちなど、お前にはわからんだろうな、マシアス」
「なんの。悪魔憑きで、毒をもあやつる魔女が味方なら、ほかのどんな魑魅魍魎とも戦えるというものです、殿下」
　そう言って、マシアスが廊下の突き当たりを促す。
　そこは、これから御前会議に使用される、日当たりの良い南の角部屋だった。
　多くの権力者たちによって、”試練の間”と呼ばれた――、ほかでもない、人間の皮をかぶった欲深い魑魅魍魎どもが、ルシードを待ちかまえている場所。
「さて、行くか」
　ルシードは、深呼吸をした。
　これからが、正真正銘、大公である彼にとっての、試練の時間のはじまりなのだ。
＊
「さて、あの”三代目”は、どんな顔してやってきますかな」
　と、テーブルの上に肘をつきながら、アジェンセンの中枢をつかさどる五人の大臣と四名の軍人が、彼らの主君を待ちかまえていた。
　その顔は、どれも一筋縄ではいかないようなかたくなさに満ちている。
　アジェンセン大公国は、もとは二十四の部族が、大王ロンギオンのもとに一つに統一された、まだ年若い国家である。
　そのロンギオン政権下、統一に力を貸した有力部族の族長たちが、大臣として中央の役職についたのは、しごく当然のなりゆきだった。
　碧・金・銀・銅・紫の五公爵が大臣職を独占し（赤は大公家であるアジェンセンの色だ）、各地域に広大な公爵領と私兵をもつ。
　・碧公・ルクセイア湖沼国
　・金公・ウジャト金麗国
　・銀公・バイセン銀闇国
　・銅公・エクー緑銅国
　・紫公・ラプリューズ紫雲国
　いずれも、大公位継承権をもつ、大公家の親戚である。
　その他にも、テーブルには、竜団と呼ばれるアジェンセン伝統の武闘部族の長たちが席についていた。
　しかし彼らには、いまだそう大きな権力は与えられていない。ロンギオンが大王を名乗ったあとに、あとからあわてて忠誠を誓った部族だからである。
　それでも、その四部族がこの御前会議の場にいるのは、ひとえに”三代目”である大公ルシードが、彼らを重用しているからにほかならない。
　ルシードは、武を好む王だった。
　そして、アジェンセンも元は武闘派の一族だ。彼が権力をにぎり、内政を好き放題しようとしている老人たちよりも、代替わりしたばかりの若い戦士たちに好意を抱くのはしかたがないことかもしれない。
「しかし、いくら三代目が戦争好きとはいえ、あのような大規模な大街道事業はいかがなものかと。内政をおろそかになさっては戦費もままならぬというに」
「いかにも」
　と、大公を待つ間に、老練なタヌキどもは口々に言った。
「まずは、予算がない」
「人足もな」
「少なく見積もっても十年はかかる事業だ。その間田畑から男手が消えれば、農民どもはとてもではないが税を払えない」
　だれもが、頷きあった。さも当然というように。
「まったく無茶な事案だ。あの三代目がなにを言っても、ここは我らで強引に流してしまうほかはないだろう」
「さようさよう」
　タヌキどもがめいめいに発言する間、それぞれの騎士団長たちは、年少者らしく黙ったままである。
　彼ら五公爵にとっては、たかが騎士団の長ごときがこの場にいることさえ、論外なのである。発言が望まれているはずもない。それを、騎士団長たちは、十分にわかっているのだった。
「では、結論としては、”十字大街道”の工事は、実現は不可能な案であるということでよろしいかな」
　
「よろしいわけがない！」
　
　予期せぬ若々しい声が、結論を急いでいた公爵たちの頬を軽く打った。
　公爵らは、顔を上げた。
　いつの間にか、重いクルミ材でできた扉が開け放たれ、彼らの若い主君が自分たちを睨め付けていたのだった。
「これは…、大公殿下」
　たいして慌てた様子もなく、公爵たちは席から立ち上がった。
　主君が着席するのを待って、上位の公爵から元の椅子に腰を下ろしていく。
「この俺抜きで勝手に結論を出してもらっては困るな、碧公よ」
　かつて、アジェンセン溶岩国と呼ばれた元火山の国の長は、湖沼国の国の公爵に向かって挑戦的に言った。
（ちっ、どこから聞いていたものやら）
　碧公は、内心舌打ちした。
　いつものように、彼の側には、胸にカチカチうるさい懐中時計をぶら下げた秘書官がひかえている。ルシード大公がパルメニアから連れ帰った、出自も得体も知れない男だ。
　ルシードは言った。
「この案については、まだ話し合いが必要だと申し伝えたはずだ。お前たちが結論を急ぐ必要はない」
「しかし、アジェンセンはお身内による内戦を終えたばかり、その傷は癒えてはおりません。いまの民草をさらにおいつめるような事業はいかがなものかと」
　つまり、もっとざっくばらんに言うと、「そもそも、民が貧乏になったのは、お前たち大公家の跡目争いのせいだ。公共事業なんて悠長なことしてる場合か」という意味である。
　しかし、五公爵のねらいはもっとほかのところにあった。
　アジェンセンをぶちぬくような街道を造られては、いざというときに都から大公の私兵が自分の領地に押し寄せてくるかもしれないのだ。また、その費用を自分たちの懐から分担するのはごめんである。
　あくまで、大公家はきらびやかな御輿にすぎない。そんな街道を整えられて、税を直接税にでもされてしまったらたまったものではないのだ。この上での親政の宣言は、自分たち臣下の権限を削ぐことになる。
　ただでさえ、あのパルメニアの王女を大公妃に迎え、大公の権力は増しつつある。なんとしても、これ以上大公家が力をもつようなことは阻止しなくては…
　彼らは、内心そう考えていたのだった。
　しかし、
「民たちの労力は最低限にとどめる。そのための案は考えてある」
　ルシードは力強く、テーブルを見渡した。
「マシアス、説明しろ」
「御意に」
　マシアス＝ソアソン準男爵が、控えめに一歩進み出た。そして、麻の一種を叩いてうすく伸ばした紙を、テーブルの上に並べてみせる。
「これは、都パールエルムから伸びる街道の予定地を、百二十六の区間に分けたものです」
　と、彼は大学の教師のような口調で話し始めた。
「百二十六の区間だと。そんなにも細かくわけてどうするつもりだ」
「普通、街道はできあがるたびに工員を移動させて工事を続けますが、今回の工員は、すべて地元から徴収します。よって、工員の移動による移動費、日数その他を節約します」
　騎士団長の一人が、その計画を記した紙をとりあげた。そこには、地元の農夫に地元の工事をさせることで、長く田畑を離れる必要がないこと。収穫期には家に戻ることが可能であること。また、自分の受け持ち分さえ終わらせれば、すぐに家に戻れること。工員の徴収と受け持ち分は村単位で行い、日数を早く仕上げれば仕上げるほど、税の免除率が高くなることが、細かく計算されて記してあったのだった。
「ほう。これは、なかなか」
　ざっと紙面に目をすべらせたらしい、春将ジャンシードがつぶやいた。
　春の騎士団長、青狼族のあととり、ジャンシード＝ホロウ。
　額に歴戦の傷のある、アジェンセン屈指の勇者である。
「なるほど、これならば都から全員工員を連れていかなくてもすむ。移動日数やその間の経費の削減になると、そういうわけですな」
「そのとおりです、ジャンシード殿」
「し、しかし…」
　顔色を変えたのは、もちろん五公爵のほうだった。すべて地元から徴集するということは、彼らの領民をこきつかうということである。しかも、その費用のほとんどは彼らもちだ。
　その上、勝手にごほうびの免税なぞ設定されては、領地から徴収される彼らの財産が減ってしまうことになる。
「収穫期の免税など、もってのほかですぞ！　ただでさえ、わが国には余裕がないというのに」
「ほう、それにしてはそちはまるまると肥え太っているではないか。主がそうなら、当然バイセンの民は潤っていると思っていたのだがな、銀公よ」
　五公爵の中で、もっとも横幅のあるバイセン銀公が、カッと顔を赤らめた。
「た、大公殿下…」
「そうケチるもんじゃないぞ。おまえのところは、銀山からわんさか銀を西へ運んでいるだろう。ならどうせ、この街道を使うことになる。もちろん、今回の計画にお前が異をとなえるなら、バイセンには街道を通さず、よってここを通る荷の税を徴収する権利はバイセンにはない」
　赤らんでいたバイセン銀公の顔が、今度はサッと青ざめた。
　彼は、彼のくせであるらしい、右手の指で何度も下唇をはじく仕草をした。
「そ、そんなことをおっしゃっても、我らが反対すれば、とても工事金の都合は…」
「残念ながら、お前たち五人が、いくら仲良しこよしでこの計画に反対しても、こちらはとうに資金のやりくりはできている」
「なんと…」
　ルシードは、刃物を思わせる目で、ギロリと銀公を見やった。
「いいか、皆よく聞け。やると言ったからには、俺はこの街道は絶対につくる。そのかわり、出資しないものに配当金はない。つまり、もしお前たちの国に街道が通っても、そこを通る行商人からいっさいの税を徴収する権利はない！」
「そ、そんな！」
「あたりまえだろう。金も人も出さないやつに、なんで関所を預ける必要がある」
　馬鹿にしたように見下されて、五人は押し黙った。
　ルシードは、楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「べつにいいんだぞ。お前たちの自由にしても。そのかわり、他国からやってくる商人たちは、いまの細くて狭くて歩きにくーい街道より、新しくて広くて、おまけに通行税の安い大街道を使うだろう。おまえたちがめいめい勝手に懐にいれている金も、だんだん少なくなるって寸法だ」
「しかし、その、都合のついた財源というのは…」
「まだわからんのか。おまえたちよりも金持ちで、おまえたちよりも説教くさいやつらがいるだろう。それこそ世界中に」
（坊主ども…、アンゲリオン星教会か!?）
　…と、その場にいただれもが、謎の出資者が、”この世でもっとも金持ち”すなわち、アンゲリオン星教会であることを悟った。
　まさか、とてもではないがあの坊主どもが大公に金を出すなど考えられぬ。しかし、自分たちの知らないところで、両者が深く結びついている可能性も、ないわけではない。
「なんだ、意見があるなら聞くぞ」
　その鷹のような目…、大公の自分たちを見つめる視線の中に、確かな自信と手応えを感じ取って、公爵たちは震え上がった。
（こ、こんなはずでは…）
　突然、彼らの頭の中に、予期していなかった、どうしよう、という迷いが生じる。
　大公の言い分が、はったりであればいい。けれど、もし彼がほんとうに大街道を建設し、自分たちがつまはじきにされてしまったら、そして、この中のだれかが抜け駆けして彼に出資してしまったら、自分はいったいどうなるのか…
　五公爵たちが、ちらちらとお互いの表情を盗み見はじめる。
「どうやら、結論は出たようだな」
「そのようですな」
　ルシードが、勝ち誇ったように、にやりとテーブルを見渡した。
「では、マシアス。ほかにあがっている議題についての、今後の予定を」
「は」
　すでに、場の流れはルシード大公ひとりに掌握され、”大街道”の着工は決まったことになっていた。彼の秘書官であるマシアスが、次々にこれからの予定を読み上げていく。
　あくまで、大公側に都合の良い”予定”を…
「……」
　だれも、なにも言わなかった。
　それぐらい、この場の雰囲気はルシードの思うがままになっていたのだ。
「――では、この件の決議は出たものとみなす。みなとはまた、来週お会いしよう」
　まだ、顔に”迷い”を貼り付けたままの五公爵を尻目に、大公はそっけなくそう言い置いてその場をあとにしようとした。
　しかし、彼の勝ち逃げを許さなかった者が一人いた。
「お待ちください、殿下！」
　ルシードは振り返った。
　声を上げた男の顔を、じっと睨め付ける。
「なんだ、ルクセイア碧公。まだなにかあるのか」
「恐れながら、殿下にはぜひお心に止めていただきたき儀がございます！」
　まるで、追いつめられたネズミが一矢報いようとするかのように、ルクセイア公爵が口上した。
「なんだ。ルクセイアは金を出さないとでもいうつもりか」
「いえいえ、大街道の件ではございません。もっと重要で、アジェンセンの未来にとって憂慮すべき案件についてでございます」
「憂慮すべき案件…？」
　ルクセイア公は、先ほどの屈辱的な顔つきをすっかり消し去って、ゆうゆうと言ってのけた。
「はい、そうでございます。この件が片づかなくては、われわれはもとより国中の臣民が、大街道の件に着手できないでしょう」
　ルシードは、あからさまに顔を不機嫌にさせた。
「もったいぶるな、ルクセイア。言いたいことがあるなら言え」
　主のいらだちを煽ることに成功した碧公は、うやうやし気に手を胸にやってうなだれ、
「それはもちろん」
「もちろん？」
「このアジェンセンの大王たる大公殿下に、いまだお世継ぎがない件についてでございます」
　
　――その日、その部屋に入って初めて、ルシードの顔が硬直した。

＊

「痛いところをつかれましたな」
　所変わって、そこは、ルシードがいつもお籠もりに使う小部屋。――つまり、トイレ。
　庶民たちの何百倍も豪華な繻子ばりの便器に、花を生けてもおかしくなさそうなトイレ壺をそなえた、ルシードのささやかな憩いの場所。
　しかし、
「くっそー！」
　あの会議の場を、完全な勝利で締めくくることのできなかった大公殿下は、ショックを便意でごまかすために、会議部屋を出たあと、迷わずここに直行していた。
「この俺に世継ぎだと。あのルクセイアめ。最後の最後で余計なことを言いやがって！」
　本来ならば、あまり深呼吸したくない場所で、思いっきり息を吸う。
「そんなの、できるはずがないだろうが。あの女とは、することをしてないんだから！」
「殿下、お声が大きい」
　トイレの中扉の向こうで、マシアスが慌てて咳払いした。
「しかし、ルクセイア公のおっしゃることももっともです。殿下。メリルローズ妃とのご婚礼から早一年。若く健康なお二人の間に、”なにもないなどとは、よもやだれも思いますまい」
「けっ。だれが魔女と寝る気になるかってんだ」
「メリルローズ様と同じ顔でも…？」
　う…、とルシードは口ごもった。
　正直なところ、最愛の人にそっくりだというジルの顔に、いままで惑わないことがなかったわけではない。
　今でも、（そんなことはめったにないのだが）真夜中に目が覚めてふと横を見ると、ほんとうにメリルローズがいるような気がすることもある。
　朝、身支度を終えて髪を結い上げ、アジェンセンの女性の特徴である大きな花の髪飾りをつけている彼女を見たときなど、やはり本物のメリルローズが自分の妻として側にいるのではないか、そしてアジェンセンの服を着て、自分の妃となっているのではないかと錯覚するほどだった。
　けれど、その幸せな幻想も、ある理由のためにすぐに冷めてしまう。
（あの、氷のような鉄面皮のせいで…！）
　そう、ジルはめったに笑わない。まるで、生まれたときに母親の胎内に残してきてしまったかのように、ほとんど表情を変えないのだ。
　だから、ルシードはジルが笑ったところを、今まで一度も見たことがなかった。
　もちろん、泣いている顔も…
　マシアスが、慰めるように言った。
「まあ、それでも、妃殿下のおかげで例の大街道の件をごりおしできたのですから、よしとしなくては」
「…ああ、まあな」
　舌打ちしたい気分で、ルシードは膝まで落とした脚依をたくしあげた。
　あの古タヌキどもがどんな魂胆でいるのか、ルシードのことをどう思い、どう操ってやろうと構えているのか、ジルはすべて正確に予測していた。そして、ルシードにこう指示したのだ。
『あの五人の中で一番口数が少なく、会議の場で顔や唇をいじっている者がいれば、その者を集中して責めなさい』
　なぜなら、口数が少ないということは、たんに慎重なのではなく、プライドが高い証拠である。自分が失敗することを極端に恐れているゆえに、発言が少ない。
　なおかつ、唇をいじる者は欲が深い。
　そんな人間なら、自分だけが計画にとり残され、せっかくの取り分を失うことを必ず恐れるはずだ…、と…
　そして、見事それに当てはまったのが、あのバイセン銀公だったのである。
（恐ろしい女だ。会ったこともないのに、バイセンの心を知り抜いてやがった）
　バイセン銀公を集中して責め、そんな彼が揺らいでいくところを露呈することによって、ほかの公爵たちも、このままではいけないと思うようになる。
　そうして、あっという間に、彼らの間にあった結束は崩壊した。
　本来なら、あとは、ルシードたちの思うがままだったはずなのだ。
　ルクセイア公の、あのトンデモ発言さえなければ。
（くそ…）
　ルシードは、ぶるりと身震いした。
　あの女が、自分にとって薬でもあり切り札であるということは、マシアスに言われるまでもなく理解している。彼女は頭が良い。そして、ルシードに協力的だ。諸外国に、アジェンセンはパルメニアの縁続きになったとアピールしておきたい以上、彼女が偽物であることは隠し通さなくてはならない。
　しかし、それもいつまで持つか。
　ほかでもない、パルメニアの国王であり、メリルローズの父親ゾルターク王はそのことを知っている。当然、側近たちも、嫁がせた王女が偽物であることぐらい知っているだろう。
　これは、駆け引きだった。
　偽物のメリルローズを、自分の切り札とするか、それとも弱点とするか、すべてはルシードの立ち回りによって決まってくる。
「…パルメニアは、あの女のことをどうするつもりなんだろうな」
　その独語は、ドアの向こうにいたマシアスにまでも聞こえたようだった。
「まあ、それは常にわれわれにとっての懸案事項ではありますが、…そういえば、殿下」
「うん？」
「実は、先日、お亡くなりになったルパート＝ボンヌフォン公爵のお悔やみを言うために、そのパルメニアの外交官からぜひ来訪したい旨、申し出がありました」
　ルシードは、適当に相づちをうつ。
「ほう。それはご丁寧なことだ。パルメニアの大使というと、だれだろう」
「キーマ＝パパラギ伯爵ですな」
「な…」
　その思ってもいなかった男の名に、ルシードの顔が思わずひきつりかける。
「パパラギだと。あの道化野郎。またパールエルムに来るつもりか！」
　ルシードは、六歳の時から八年間、パルメニアの王宮に人質として捕らわれていた。
　だから、王宮に出入りする要人やパルメニアの要職に就いている貴族のことは、だれよりもよく知っている。
　中でも、キーマ＝パパラギは、パルメニア一の伊達者で通っている青年貴族だ。女好きで派手好きで、宝石マニア。一説では、”古代の言葉(ゲルマリック)”…すなわち、黒魔術によく通じているという。
　特に、人見知りで王宮に引きこもっていた王女メリルローズが懇意にしていたというので、彼女が嫁いでくる前、二人は恋人同士だったのではないかと、アジェンセンではもっぱらの噂だった。
　もちろん、ルシードは彼を嫌っていた。
　武をよくし、剣術を好む彼にとって、パパラギのような軟派ものは天敵だった。それに、彼はメリルローズとも仲がいい。
　気にくわないのも、当たり前である。
　マシアスは、ぼそぼそと言った。
「お悔やみなどと都合の良いことを言っていますが、実のところは敵情視察でしょう。パルメニアにとって、アジェンセンはいまや目の上のたんこぶのようなもの。なまじっか勢いがあるのが目障りのはずです。そういう相手には、内情を知りお家騒動でも起こしておいてもらうのが安心だと、そう思ったのでしょう」
　つまり、その外交官は、王族の死にかこつけて、ここアジェンセンの宮廷をひっかきまわしに来るつもりなのである。
　それはもちろん、例の”十字大街道”の件を聞きつけたからに違いない。パルメニアは、アジェンセンがついにパルメニアから独立する準備をはじめたのではないかと、内心焦っているにちがいないのだ。
「それだけ、大街道の着工を、パルメニアが脅威に思っているということです」
「くそ、次から次へとやっかいなことだ」
　いつものように、香りのついた水で手を洗ってから、ルシードは憩いの場をあとにした。
「いいか、マシアス。そのなんとかパパラギって野郎は、早々に理由をつけてパルメニアに追い返せ。そんな火種を長くとどめておくことなどない」
「ですが」
「…なんだ？　まだなにかあるのか、マシアス」
　ルシードが目線をあげて彼を見る。マシアスは、多少言いにくそうに口に手を当て、
「せっつかれると思いますよ」
「だから、何をだ」
「もちろん、お二人のお子様の件をです。なんといっても、あちらさまは掌中の珠をさし上げた気でいるのですから」
「あ――」
（跡継ぎ問題か！）
　その日、ルシードは早々にして、二度目の顔色を失った。

＊

「…子供？」
　まるで耳慣れない呪文でも聞いたような顔で、ジェラルディ＝クラウンこと、ジルはお付きの女官を振り返った。
　その女官は、明るい桃色のお仕着せに、裾に房のついた若草色の上衣を身につけていた。髪をパルメニアの宮廷女官と同じく、後ろでひとまとめにして巾着の中に隠している。
　リュリュカという名の、大公妃付きの部屋女官だった。
　ジルは、毎日彼女からいろいろな世話を受けている。
　このアジェンセンに、パルメニアの偽の王女として嫁いでから、ずっと…
「ふうん、子供…」
「あ、あの…、そのっ」
　緊張するとつっかえがちになるくせのあるこの少女は、ジルに見つめられて、いつものようにあたふたと手を動かした。
「た、単なる噂なんです。ただ、この時期にパルメニアから大使様がいらっしゃるなんてめったにないことですから、きっとお二人のご様子を視察しにきたんじゃないかって、みんなが…」
「で」
　ジルは言った。
「その子供というのは、いったいだれの子のことですか」
「そ、そりゃ、もちろん、妃殿下と殿下のお子様です。このアジェンセンのお世継ぎです！」
　リュリュカは、鼻息荒く言った。
　そんな女官の様子に、ジルは内心ため息をついた。
　あのルシードと嘘の結婚してもう一年。そろそろ、そんな噂も出るころである。
（…まったく、無駄なことを）
　ジルは、ぴくりとも顔色を変えないまま、再びロ・アンジェリー城の廊下を歩き始めた。
「ああっ、お待ちください。妃殿下ぁ！」
　慌てて、リュリュカが後をついてくる。あまりにも素早く身動きしたので、手にしていた蝋燭の明かりが息も絶え絶えになっている。あれでは、王宮女官失格だ。
　はじめは、ジルも、この絨毯の上をすべるように歩く、ということがなかなかできないで苦労した。
　しかし、今では生まれながらの貴族の娘のように、ほとんど足を上げないで進むことができる。これもすべて、パルメニア王宮での、本物のメリルローズとすり替わるために受けた特訓のたまものだった。
　話し言葉から、訛りをとること。
　毅然として、上半身をほとんど動かさないこと。
　そして、人前での食事のとりかた、歩き方…
　もしあの地獄のような特訓がなかったら、とてもではないが正真正銘、のアンティヨールの娼婦の娘だったジルが、いままで誰にも疑われることなく、王女のふりなど続けられなかっただろう。
（…もっとも、あのルシードには早々にバレたわけだけれど）
　王城の北の端にある塔の入り口にまでくると、ジルはいつものようにリュリュカを振り返った。
「いいですか、わたくしは今から中に籠もります。わたくしが出てくるまで、絶対にこの中に入らないように」
　どこか緊張した面持ちで、リュリュカは頷いた。
　そうして、重たげな鉄の錠をとき、一歩さがって頭を垂れる。
　ぎいいいい、と鉄を引きずる音が、だれもいない北の塔に響きわたった。
　ジルは、すばやく部屋の中に入ると、すぐには中が見えないように立てられているついたての向こうに身を隠した。そうして、後ろの鉄の扉が閉まったことを確認する。
　がちゃん、と錠の下りる音がした。
　ようやく、ジルは一息ついた。
「やれやれ…」
　ここは、ほかでもない、大公妃専用の実験室である。
　毎朝、ルシードがやれ会議だ謁見だと飛び回っている間、ジルは、御髪はお召し替えはとうざったい女官たちから逃れるために、彼女専用のこの憩いの場に寄るのが習慣だった。
　ここ北の塔は、いい場所だ。
　適度な湿気があり、日当たりが悪く、大昔首切り場として使われていたという理由もあって、だれもここには近寄ろうとしない。
　ジルは、満足げにぐるりと中を見渡した。すぐに目につくのは、彼女の希望のままに、大陸中から取り寄せられた文献類とそれを収めた棚。
　テーブルの上に並べられた”火の魔術”のための道具。蒸留器や釜や、柄の長いさじ、広口瓶…
　そして、壁一面に栽培された色とりどりのキノコ。血を抜かれて干物になったヤモリやイモリ、さまざまな山の生き物たち…
　そればかりではない。籠の中には、フクロウのえさになるはずのネズミががさごそ音をたてていて、特に湿気のある地下では、ジギタリスやハシリドコロなど有名な毒にくわえ、ここで手に入る限りの薬草や毒草が栽培されている。
　幼いころ、ある男とともに東大陸へ渡り、放浪同然の日々を過ごしていたジルにとって、野に咲く花や草、そして自然の生き物たちはもっとも身近に感じられるものだった。
　彼女は、自然のものが好きなのだ。
　残念なことに、他のだれもそうは見てくれていないだろうが…
「どうせ、ここで妖しげな錬金術だとか魔術だとかにふけっていると思われているのだろうな…」
　扉が閉まる直前、リュリュカが不審な目つきでこちらを見ていたのを思い出して、ジルは憮然とした。
　女官たちが、自分をどんな目で見ているか、どんな噂をたてているかぐらい、よく知っている。
”鬼の鉄面皮”
”氷の女王”
　死霊と言葉をかわし、冥界とも交信してのける”現代の魔女”。
　けれど、ここはなにも、ジルの趣味を追求するためばかりの部屋ではない。
　あの男、ルシード＝ミリ＝アジェンセンの命を守るために、ここは絶対に必要な場所なのだった。
　なぜなら、彼は、アジェンセンの王だ。
　だからこそ、あの男はさまざまな人間から命を狙われていたし、食事に毒をまぜられる危険も大いにある。
　そんなときに、いち早く毒の成分を知るためには、ジルがその毒そのものを手にしておく必要がある。
　ジルは、もう一度、パルメニアに還りたかった。もう一度、あの男に会いたかった。そのためには、ジルはルシードのパルメニア侵略を助け、このアジェンセンがより強大になるよう、尽くさなければならないのだった。
（そう、どんな手を尽くしても！）
　けれど、さすがにジルとはいえど、夫の冷たい言葉や女官たちの噂ばなしに、まったく傷ついていないわけではない。
　いやなことを言われれば、それなりに、胸は痛む。
　ただ、それがまったく顔に出ないだけで…
「鉄面皮、か…。べつに、わざと冷たくしているわけではないのにな…」
　ジルは、己の顔をもっとよく見ようと、壁に設置されている鏡の中をのぞき込んだ。
　ふいに、声がした。
　
「――なら、笑えばいい」
　
　ジルは、ほんの少し目を見開いた。なんと鏡の中に、自分の顔以外のだれかが映り込んでいるではないか。
「もっともっと激しく喜怒哀楽を示したらいいのだ。そうだろう、わたしのジェラルディ」
　言葉を発したのは、水のような青い髪をしている、背の高い女性だった。瞳の色も爪も、髪と同じ色合いだ。そして、ふわりと宙に浮いている。
　だから、人ではない。
　かつてこの大陸の半分を占めていたといわれているエシェロンの民ですら、青い髪はもっていても、宙に浮いたりはできなかっただろうから。
　けれど、ジルは、別段驚いた様子も見せずに、
「なにを言うやら。わたしが笑えなくなったのは、ほかでもない貴女のせいじゃないか。ミゼリコルド」
　と、ぼそりと言った。
　
”ミゼリコルド”
　
　どこか、不思議な響きをもつ、古い言葉…
　それはほかでもない、いま鏡に映り込んでいる青い髪をした女性の名だった。
　むろん、彼女は人ではない。
　ミゼリコルドの本体は、ほかでもないジル本人の胸に、ペンダントとしてぶらさがっている大粒のサファイアだ。
「おや、そうだったかな」
　人間であるジルよりも、よほど人間くさい表情で、彼女はふむ、と頷いた。
　彼女のような存在は、この世界にもほかに数例あるという。
　ひとつは、パルメニア王家と代々契約を交わしているという、ダイヤモンドの星霊”バルビザンデ”。
　ひとつは、大陸屈指の騎士団である、シングレオ騎士団に眠っているという、ルビーの星霊”エヴァリオット”…などなど。
　風にまじり、なにもないところに火をおこし、およそ人にはない力を備えた強大な存在である彼女らは、もう遠い昔に滅んだ文明の生き残りだという。
　もっとも、彼女について、ジルは多くを知らない。
　初めて出会ったとき、ミゼリコルドはジルに向かって。自分たちは天から降ってきた星に宿った魔法の命なのだ、と言ったものだった。
　そんな彼女に契約を申し出、その代償を差し出し、
　――それから、数年。
　アンティヨールの娼婦の次女、ジェラルディと、サファイアの精霊ミゼリコルドの、奇妙な契約関係はいまだ続いている。
「だいたい、わたしがうまく笑えなくなったのは、貴女と例の取引したからだよ、ミゼル。昔はわたしだって、いまよりはもっと普通に笑えていたんだ。笑わなくなったのは、あれからだ。わたしの笑顔は、あなたへの貢ぎ物だったんだから」
　壁に立てかけられた大きな鏡に向かって、ジルはイーッと歯を見せてみた。
　しかし、思ったよりうまくは笑えていない。
　笑うのは、どうも苦手だった。
　というか、どうやっても笑えない。
　それは、しかたがない。
　ミゼリコルドと契約をしたとき、彼女がその代償として、ジルの表情から多くのものを奪ったのだから…
「今日だって、ルシードに死人みたいに不健康だって言われたよ。べつに、好きで不健康になったわけじゃない。食べても食べても太らないのは昔っからだ。わたしだって、できるだけ感情を顔に出そうとつとめているんだ。なのに…」
　もともと、ほかの姉妹たちとくらべて感情をおおっぴらに出すことが苦手だったジルである。
　ひっこみじあんなのは、昔からの密かな悩みだった。
　うまく、相手に気持ちが伝えられない。
　言葉にすることができない。
　しかし、そんなジルがますます（鉄面皮とまで言われるくらいに）無表情になったのは、ほかでもない、このミゼリコルドとの契約によるものにほかならないのだ。
　しかし、ミゼリコルドはそんなジルを鼻で笑って、
「ほう。めずらしい。あのきかん気な夫どのに魔女と言われて、いまさらながらに傷ついているのか」
「べ…、べつに…。それには慣れたし」
　ジルは、なぜか口ごもった。
「そう言われてもしかたがないだろうな。ほかの人間の目には私は見えぬのだし、おまえが死霊を呼び寄せ、この世ならざるものと交信していると思われても不思議ではあるまい」
「まあね…」
　どこからどう見ても錬金術師の仕事部屋にしか見えない塔の内部を見て、ジルもしぶしぶ同意をした。
　べつに、ジルは、女官たちが噂をしているように、ここに魔法陣を描いて悪魔を呼び出したりはしていない。
　…のだが、毒キノコにヤモリの干物までそろっていては、なにを言われてもしかたがないだろう。それぐらい、この部屋は妖しすぎる。
　火を入れていた蒸留器の広口瓶が、しゅーっと湯気を吐いた。中の水が沸騰したのだ。
　ジルは手際よくゴブレットを引き寄せ、数種類の乾燥させた花びらと葉で色を出す”花茶”を入れ始める。
　不思議なもので、高価な銀のスプーンなどは、いまでも持つとぎょっとするのに、実験用の柄の長いさじだと、すばやくさっさとあつかえる。
　薬を触っているものの悲し性いだ。
　ミゼリコルドが、からかった。
「そら、そんなふうに錬金術をしているから、魔女だなんて言われる」
「だから錬金術じゃないって。ただの医療用の道具だよ。高価な陶器の茶器は扱い慣れていないんだ。一人ぶんなんだったら、こっちのほうがずっと使いやすい」
「しかし、医術は魔術なのだろう。この世の多くの人間にとっては」
　ジルにとって耳に痛いことを、ミゼリコルドは言った。
「お前が、あらゆる知恵をもってあのルシードを助けたときも、だれもお前が医術を行っていたとは思っていなかった。みな、あの強い蜂毒を消し去るなど、あの裂傷を癒すなど、魔法を使ったとしか思えないと噂していたではないか」
「魔法なんて、ないよ」
　ジルは、そっけなく言った。
「現代の医学が、いつまでも奇跡でしかありえないのは、あのアンゲリオン星教会のバカ坊主どもが、自分たちの”奇跡”にこだわっているからだ。死因を知るためには死体を切り開いて状態を見るしかないし、ネズミや小動物を使って実験することだってしかたがない。けれど、それをみんな悪魔の所行だと決めつけてかかる。だから、いつまでたっても医者は魔術師あつかいされ、医術は進歩しない。人々は、医の恩恵を受けられない…」
　それに、毒は薬にもなる。
　毒術は算術の極みであり、医術は魔術ではない。病気は悪魔のせいではなく、医術は決して、奇跡や魔法なんかではないのだ。ジルは、それをいつかこの手で証明したいと思っていた。
　ほかでもない、パルメニアの首都ローランドで、高級娼婦だった母と暮らしていたとき、ジルはいつか医者になろうと決めていたのだから。
「わたしは、ほんとうは医者になりたかったんだよ。ミゼル」
「知っているさ。出会ったころ、そんなことを言っていたな。自分に、姉のような華やかさはない。妹のような力強さももっていない。ただ、ほんの少しの知恵と機転でどこまで行けるのか、ためしてみたいのだと…」
　ジルは頷いた。
　まだ、自分たち三姉妹がローランドのアンティヨールにいて、いつか”きっと”と自分たちの未来を夢見ていたころ、ジルはしきりにそんなことを口にしていた。
　――医者になる”夢”…
　貧しい人々と、お産や婦人病で命を落とす女たちが後をたたない、ジルたちの生まれ育った街、娼婦街アンティヨール。
　ジルは、大きくなったら医学を身に付け、そんな人々を救うんだと、心に決めていたのだった。
　…けれど、その夢が自分の手を離れて、ずいぶんになる。
　思いもかけない運命の奔流に巻き込まれたあげく、いま、自分はアジェンセンの王城にいる。
　偽物の、パルメニアの王女として…
「そういえば、今朝も朝食室でそのことが話題に出ていたっけ。パールエルムの坊主どもが、医者を増やすことを反対しているって。自分たちのお粗末な医療と奇跡の特権をとりあげられたくないんだ。――くそ、むかつくな。絶対にそんなことはさせないから！」
　手慣れた手つきで花茶のおかわりを作り、中身をすするジルに、
「そんなことに気をとられていてもいいのか、ジル？」
　ミゼリコルドが言った。
　その思いがけない問いかけに、ジルは怪訝そうに彼女に視線をやった。
「どういう意味？」
「さっき、女官につつかれていただろう。お世継ぎがどうの、とか…」
　思い当たるふしを見つけて、ジルはああとため息をついた。
「ああ。そういえば、そうだっけ」
　一気に、気分が陰鬱になる。
「そんなこと言われても、することをしていないんだから、できるはずないんだけどなあ」
「しないのか？」
「ばっ…」
　ジルはうろたえた。
　しかし、悲しいかな。最強の鉄面皮のせいで、それも外から見てもまったく動揺しているようには見えない。
「す、するはずないじゃないか。ルシードはわたしのことが嫌いだし、わたしも、子供なんて…、どうだっていい」
「ほう」
「本当だよ。ベッドの上では、いつも会議用のカンペを渡してる。そうしないと、あの人はいつも会議で感情的になってしまうから」
　ほかの誰も予想しえないことだろうが、いわゆる二人の寝室とは、次の日の会議のための予行演習でしかないのだ。
　あとは、純粋なる睡眠と…
「しかし、お前がそう思っていても、ほかは放っておいてはくれないだろう。ルシードには子がいないのだし、近しい親族といえば従姉妹のアヴィセンナしかいない」
「でも、あともう一人いるじゃないか。双子の弟が」
「リドリスのことか？　だが、あいつはもはや一生地下から出ることはないのだろう。兄に刃向かった謀反人として…」
　宮廷人のだれもが、決して口には出さない”死人の罰”。――謀反を犯した罪で、一生日の当たらない場所での幽閉が決まっている、ルシードの弟リドリス＝ミリ＝アジェンセンのことを、ミゼリコルドはあえて口にした。
「いずれ、ルシードはリドリスを殺すだろう。だったら、死んでいるのと同じだ。お前たちが子供をつくらない理由にはならない。パルメニアの外交官とやらも、そのへんをつつきにやってくるのだろうからな」
「子供、か…」
　ジルは、神妙な面持ちで考え込んだ。
　たしかに、自分がメリルローズの偽物だと知っているのは、パルメニアの国王のごくごく側近の数名と、ルシードとマシアスだけだ。このままずっと二人が閨をともにしないままでいれば、いずれ気づく女官も出てくるだろう。
　そのうちに、世継ぎがいないことを取り出して、リドリスの復位を求める輩が出てきても不思議ではない。
　それは、まずい。
　非常ーに、まずい。
（マズイな…。パルメニアから来る外交官が、こちらでどんな動きをするのか、まだ予測がつかない。ということは、ぐずぐずしてはいられないか）
　なんとしても、ジルはいまルシードを脅かすすべての要因を、排除してしまわなければならなかった。
　そして、そのために、ジルがしなければならないことはたったひとつだ。
　――それは、ルシードに世継ぎをもってもらうこと。
「となると、ルシードには早々に父親になってもらうしかないか」
　ジルは、ぽんと手のひらを打った。
　すでにそのとき、彼女の頭の中には、そのための妙案が思い浮かんでいたのだった。
　ミゼリコルドが、驚いたような顔でジルを見る。
「ほう、では覚悟をきめて子作りでもするのか、ジル。お前がこのアジェンセンの世継ぎの母親になるか」
「なにを馬鹿なことを言っているんだよ。ミゼル」
　とんでもない、とばかりにジルは苦笑してみせる。
「だれが自分で産むなんて言った。そんなこと、天地がひっくりかえったってありえない。自分とルシードが、どうこうなるなんて」
「じゃあ、いったいどうするのだ。なにもなくしては、子は生まれないぞ」
「そんなの簡単だよ。ルシードがほかの女とどうこうすればいい」
「ほかの…？」
「そう」
　老練な政治家をやりこめる方法を思いついたときのように、ジルは、何も書かれていないの表面を指ではじいた。
「つまり、わたし自ら、彼に愛人を紹介してやればいいんだよ。安産型で、姉弟が多くて彼好みのとびっきりの美人を」
　ジルは、不敵な笑み――いまや彼女に許された唯一の笑みで、笑いかけたのだった。
「――それも、大量にね」
＊
　その日は、ルシードにとって、別段いつもの朝と変わりないように思えた。
　朝食室に入ると、すでに席についていたジルが、自分のぶんの毒味を始めていたし、出されたスープは少し冷めていて、しかもルシードの苦手な亀のスープだった。
「おはよう」
　いやいやながらも妻に挨拶をすると、彼女はチラリと自分を見て会釈しただけで、あとはもくもくと自分の役目をこなしている。
（よく食う女だ）
　ルシードは感心した。
　毎朝毎晩、毒味だと言ってはルシードの分まで食べているくせに、どうしてこの女はこう見事なまでに骨と皮だけしかないのだろう。
　ジルの部屋付きの女官が、おそるおそる彼の前に、毒味の済んだ皿を並べていく。たしか、リュリュカという名だっただろうか。
（なんだ…？）
　妙に探るような目線で見られて、ルシードは居心地の悪さを感じた。
　そういえば、最近すれ違う女官たちや王城に出入りする貴族たちの中にも、彼女と似たような目で見てくるものが大勢いる…、ような気がする。
　みな、目でルシードの様子を窺っていた。
　それも、ヒソヒソという内緒話付きで。
（くそ、いったいなんなんだ！）
　ルシードは、皿に二股フォークをつきたてたくなるのをぐっと我慢した。宮廷に住まう人人が、そういうゴシップ好きなのは百も承知とはいえ、自分が陰口をたたかれているのを見せつけられるのは、あまり気分のいいものではない。
　それに、目の前に並んでいるメニューからして、とんでもない感じだった。なぜって、どう見ても鹿のレバー煮込みだの、亀でダシをとったスープだの、およそ朝から食べるものではないものばかりが並んでいるのだ。
（いったいなんなんだ。朝からこんなこってりしたものばっか食わせやがって）
「そういえば、殿下」
　と、ジルが口元をふいて顔をあげたときも、ルシードはそんなわけのわからない苛立ちに、顔を険しくしていたところだった。
「なんだ！」
　思わず、そう怒鳴ってしまう。
　ジルは怪訝そうな顔をしたが、そこはいつもの鉄面皮な彼女のこと、眉をひそめただけで、さっさと自分の用件を口にした。
「例の件ですが」
「例の件？」
「はい。先日、王宮にあげる女性の数を増やしてもいいものかご相談さしあげた件です」
　ルシードは、乱暴にまな板の上の肉を切り分けた。
　肉汁が飛び散るのにも構わず、豪快に固まりにかぶりつく。
「近々選考会を開くことになりましたので、ふれをだしました。そのご報告をいたします」
「好きにすればいいだろ。女官のことくらい」
　ルシードは、ジルの顔をろくに見ないまま、口の中に食べ物をつっこみはじめた。
　正直、王城内の女の領域についてなどどうでもいい。
　女は、うざい。
　すぐにぴーぴー泣くし、嫉妬深いし。その上、やたら化粧は濃いし、香水はくさい。この世界で、ルシードにとって女とは、あの美しいメリルローズとたった一人の従姉妹であるアヴィセンナ公女くらいだった。
「ありがとうございます」
　ジルは、ほっとしたように胸を上下させた。
「では、早急に決めますので、いずれ殿下にもお目通りをさせていただきます。前にも申しましたが、なんといってもこれは殿下のため、ひいてはアジェンセンのためでもありますから」
「女官の紹介などいらん。それに、俺は忙しい」
「…そうですか。では、こちらで段取りは済ませてしまいましょう。リュリュカ」
　ジルが、彼女付きの女官の名を呼んだ。すると、なぜかリュリュカは驚いたように目を見開き、ちらちらとルシードとジルを見比べながら、
「は、はい。妃殿下」
「本日より、例の選考会を行います。すぐさま準備にとりかかってください」
「は、はい。かしこまりました」
　リュリュカは、最後まで信じられないという顔で、朝食室を出て行った。
（フン…）
　ルシードは、ジルの涼しげな顔を盗み見た。
　たかが王宮の女官の増員をするくらいで、”アジェンセンのため”などとたいそうなものいいをするものだ、そう思う。しかも、コネで決めてしまえばいいのに、わざわざ選考会までするとは。
（どうせ、王宮の女官なんて身元のはっきりとした女ばかりになるに決まっている）
　まだ、口になにかを含んでいるジルを放ったらかして、ルシードはさっさと席を立った。
　いつものように、マシアスから今日一日のスケジュールを聞かされつつ、執務室へと急ぐ。
　今日は、溜めに溜めまくった大量の書類を片づけなくてはならない日なのだった。
「なんとか、無事”十字大街道”の決議もおりたようで、まずはめでたいですな」
　ロ・アンジェリー城の中で一番日当たりのいい大公の執務室で、決議印の押された書類を愛おしそうに眺めながらマシアスは言った。
「うれしそうだな、マシアス」
「それはもちろん。これで会議を繰り返して、殿下のスケジュールに無駄な時間を費やさないで済みます。次は、もう四年も決議が棚上げされているパールエルムの医師衛生局組合の件をかたづけてしまいたいものですな」
　無駄な時間は一分一秒でもカットしたがる”時計男爵”閣下は、ルシードのスケジュールを事細かに記した帳面に、なにごとかを書き入れた。
「”十字大街道”案のために会議が招集されてから、実に一年と二ヶ月十二日四時間三十八分を費やしたのですよ。まったく、ばかばかしいことだ。これだけの時間があれば、殿下はトイレに二十年もれます」
「うるさい」
「ちなみに、殿下のお籠もりの時間の平均は、十二分と三十七秒で…」
「数えるな」
　忠実なる秘書官のマシアス＝ソアソンは、毎朝のルシードのトイレの時間までスケジュール帳に書き記している。
「医師衛生局組合の件か…。ま、それもあの女がなんとかすると言ったんだ。なんとかするんだろ」
「しかし、気になりますね。盗賊団のリーダーの裁判をとりやめて、いったいなにをなさる気なのか」
　ルシードは頷いた。
　あの後、ルシードは、ジルの望むとおり、あのジギー＝バロンの裁判を延期するよう命じた。
　ジギー＝バロンは、現在も大陸中を荒らしまくっている野武士たちの頭領だ。とくに、彼らはパルメニアの国境付近によく出没し、軍備を荒らし、野営地を襲い、収穫間近の村を焼いたりしていた。教会だけではなく、パルメニア政府までもがさっさと殺せと要求してくるかもしれない。
（なのになぜ、わざわざこの男の命を助けたりする？　こんなことをしても、無駄にパルメニアの恨みを買うだけではないのか）
　いまだ、ルシードはジルの真意を測りかねている。もっとも、彼女の考えていることがすぐに分かることのほうが、ずっと少ないのだったが…
（ふん、あの鉄面皮ではな）
　ふと、ルシードは下の階へと続く階段へ、目をやった。
　そういえば、最近はしばらく地下へ行っていない。
　このロ・アンジェリー城の地下の牢には、ルシードの家族が住んでいる。
　この世にたったひとり残された、血をわけた兄弟である双子の弟、リドリス＝ミリ＝アジェンセンが…
（たしか、前に会いにいったのは、一月以上前だったか）
　かつて、パルメニアでの人質生活を終えたルシードは、マシアスただ一人をつれて、ここパールエルムの王城へと戻ってきた。
　しかし、父であったフェルゼルド王からは疎まれ、すぐに追放同然で地方の司令官に赴任。その後、父から謀反の疑いをかけられた彼は、赴任先の四部族の力を借りて反旗を翻し、父と弟と戦った。…それが、四年前、二年にも渡って続いたアジェンセンの内乱である。
　その後、破れたフェルゼルドは戦死し、母であるナジェイラは、彼の目の前で投降を拒否して自害。
　そして、血にまみれたロ・アンジェリー城にただひとり残された弟のリドリスを、ルシードはなぜか殺さなかった。
　以来、四年。
　リドリスは、ひっそりとこの城の地下で生き続けている。
　うつり変わる外の季節を見ることも、日の光をあびることもなく…
　ルシードは、軽く首を振った。
（いや…、いまはまずい。リドリスに会うのはあとだ。あとでいい）
「で、今日の午後は、俺はなにをするんだったっけな」
　やや強引に、ルシードはむりやり話題を変えた。
「当分、タヌキどもとの会議はなかったはずだが」
「例の方との、謁見ですな」
　さらりと言われて、ルシードは憮然とした。
（そ、そうだった）
　前々から、アジェンセンにやってくると予告していたあの男が、ルシードの大叔父だかなんだかいう遠縁の王族の弔いを言うために、ついにここパールエルムまでやってきているのである。
　その男の名は、キーマ＝パパラギ。
　パルメニア国王に任命された、アジェンセン大使である。
（クソ。この俺が、あのイカレ道化に会わなければならないとは…。パルメニアを出るとき、二度と会いたくないと思っていたのに。キーマ＝パパラギめ！）
　悶々と考え込んでいると、ふいにマシアスが耳元でささやいた。
「どうされました、殿下」
　ぎくり、とルシードは彼を振り返った。すぐ前に、マシアスの顔がある。
「お顔の色がすぐれないようですが」
　まさか、世界で一番会いたくない相手だから…、とも言えず、彼は適当に言いごまかした。
「べつに…。朝から胸焼けしそうなものを食べさせられてムカついてたんだ。いったいなんであの女は、こんな朝っぱらから俺にすっぽん料理を食わせるんだ！」
「ははあ」
　マシアスは、綺麗に剃った顎をつるりと撫でる仕草をした。
「まあ、それはおいおいとわかる話で」
「わかる話…？」
　お支度の時間ですよとせかされて、ルシードは執務室の椅子から立ち上がった。
＊
「マシアス」
「は」
「あのクソ宿り木野郎は、いったいなにをしに来たのだと思う？」
　支度部屋から、謁見の間へと向かう道すがら、ルシードはそうマシアスに問い尋ねた。
　いま、ルシードは、正式に大使を迎えるときの礼服を身にまとっている。アジェンセン特有のすその長い男性用長衣には、大公家の紋章である立ち上がった竜が刺繍されていた。いずれも、繻子や絹をふんだんにつかった豪奢な典礼用だ。
　そして、一番外側はマント。裏を高価な毛皮で裏打ちされ、カシに寄生する貴重な虫で染め上げた真っ赤なこのマントは、王族にしか許されていない色でもある。
　マシアスは、時計から視線を外さないまま、言った。
「おそらく一つは、例のお世継ぎの件で」
「だろうな」
「もう一つは、ついでに、なにか火事の種でもまいていく気でしょう」
　両手のふさがっているルシードは、首だけを動かして怪訝そうにマシアスを見た。
「火事の種？」
「現在のパルメニアは、国土は疲弊し財政は破綻、国王は求心力をなくした状態にあります。地方の有力貴族は、もう何年も都へ赴いていないのだとか。
　そんな状況で、国王やその重臣たちがいちばんに恐れるのは…」
　ルシードは頷いた。
「なるほど、地方の反乱、か」
「それと、隣国との小競り合いです」
　マシアスの声に、微量に緊張感が混じった。
「ざっくばらんに言うならば、いまのパルメニアには、まともに隣国と戦争をするだけの金も兵力もない。そんな中で、一番に警戒すべきは隣接する隷属国が手のひらを返すことです。すなわち、我がアジェンセンやシレジアが…」
「しかしパルメニアは、俺が同盟を破って寝返ると思っているのか。…ここには自分たちの王女が…、メリルローズがいるのに？」
「ぶっちゃけていうと、パパラギはその辺を探りにくるのでしょうな。貴方と王女の仲がはたしてどうなのか。子供ができるくらいには仲がいいのかどうか」
「な…！」
　ルシードはぎょっとして、マシアスを凝視した。
　しかし、マシアスは、人の悪い笑みを浮かべたまま、
「あなたが王女にベタ惚れで、彼女のためにパルメニアに反意を向けないでいるならよし。そうでないのなら、パパラギの仕事は我がアジェンセンに内部分裂の火種をまいていくことです。恐れながら殿下、あなたさまにはいまだお世継ぎがおられない。このままあなたさまが亡くなるようなことにでもなれば、大公位をお継ぎになるのは、地下におられる弟ぎみだ。パルメニアの刺客としては、当然リドリス殿下を…」
「マシアス！」
　このロ・アンジェリー城では禁句になっていることを堂々と言ってのける男に、さすがのルシードも声を上げざるを得なかった。
「ご容赦を。しかし、当分の間リドリス殿下とのご面会はお控えねがいたく」
　ルシードは、ふうとため息をついた。マシアスのことだ。ルシードが、そろそろ弟に会いに行かなければと思っていたことなど、とっくにお見通しだったのだろう。
「…まあいい。パパラギが来るとなったら、どうせアジェンセンをひっかきまわすつもりなんだろうことぐらい予測がつく。リドリスの牢の見張りを増やせ。決して、だれも近づけぬように」
「御意」
　――扉が、開かれた。
　ここロ・アンジェリーの王城は、ルシードの祖父王が特に力をいれて（言い換えれば諸外国にナメられないように）贅を凝らして作り上げたものだ。
　中でも、この謁見の間。
　玉を握りしめ、剣をくわえた竜をかたどった玉座があるこの大広間は、大パルメニアの”とぐろの間”や”黒真珠の間”のなどと並んで、人々に噂されるほどの豪奢さを誇っている。
　まだ国家としての体裁がととのってから日の浅いアジェンセンのため、祖である祖父ロンギオンは、とくに体面的なことにこだわったのだと言われていた。
　深い彫刻の施されたクルミ材の扉が開けはなたれると、玉座に向かって一人の男がうやうやしく跪いているのが見えた。
（キーマ＝パパラギ！）
　ルシードは、ごくりと喉をならしそうになるのをぐっとこらえて、その側を無言で通り過ぎた。
　わざと、ゆっくりと玉座に腰掛け、相手の様子を窺ってみる。
（パルメニアの道化師め。お前が、アジェンセンでなにをするつもりだろうと、そうはさせない。手ぶらで国に帰ってもらうぞ！）
　たっぷりと時間をとったあと、ルシードはようやく声をあげた。
「久しいな、キーマ＝パパラギ伯爵」
　ルシードから十歩ほど離れたところに跪いていたキーマ＝パパラギが、ゆっくりと顔をあげた。
　…視線が、交錯する。
（クソ…）
　ルシードは、内心舌打ちを禁じ得なかった。
　あいかわらず、嫌な男だ。自分より数段下にいるにもかかわらず、顔をあげただけでまるでこの場の主人のような雰囲気を見せる。
　それに、側に控えていた女官たちが、いっせいに息を呑んだのも、ルシードが彼を気にくわない要因のひとつだった。
　キーマ＝パパラギは、美男子だった。
　それも、男のくせに女のような…、蝶のように軽薄な美しさを持っている。
　しかし、それは男にとっては不要のもののはずだ。
　こびを売り、美しさを売るのは女の特権。男はつねに力強く、堅くあるべきなのだ。なのにどうして、この男は己の軟弱さを恥じようともせず、かえってそれをさらけだすことによって名声を得ているのか…
　女の美しさ。それを己の武器として平然としているこの男が、ルシードには昔から理解できなかった。
　もちろん、今もだ。
「ルパート＝ボンヌフォン公爵がお亡くなりになられたこと、我が主ゾルタークに成り代わり、心よりお悔やみを申し上げます」
　見かけよりはずっと男っぽい…、つまり低い声で、キーマ＝パパラギは言った。
　すると、女官たちが、ほうっと一斉にため息をつく。
　ルシードは思った。なるほど、ご婦人方が好む”優雅さ”と”魅力的さ”が服を着てしゃべったら、きっと目の前にいるこの男のような姿になるのだろう。
「ご丁寧にいたみいる。しかし、いろいろとお忙しい大使のことだ。わざわざそれほどの件だけで、パールエルムまでいらっしゃったとも思えないが」
「いえいえ、アジェンセンの民族は同族を特に大事にすると聞いておりますゆえ」
　パパラギは、見かけだけはうやうやしく会釈した。
「しかし、われわれパルメニア人にとっては、殿下に、ご同胞以上に大切にしていただきたい方がこちらにおられるのもまた確かです。…して、大公妃殿下はどちらに」
「妃は、いま寝付いていてな」
　嘘である。
　北の塔で、今日も元気に毒をまぜまぜしているだろう…、いやいや、いまごろ新規に雇い入れる女官の選別でもしているのかもしれない。
　しかし、そんなことは言えない。
　なぜなら、キーマ＝パパラギは、パルメニア国王の側近だ。
　…ということは、当然ルシードの妻となったメリルローズが偽物であることは知っているだろう。
　知っているからこそ、どこでどうするつもりなのか、正直なところ、ルシードはいまだにパルメニア側の思惑を計りかねている。
　なぜ、偽物をよこしたのか。
　なぜ、ルシードを騙そうとしたのか。
　いずれアジェンセンと戦争を起こすつもりで、王女のかわりに偽物をよこしたのなら説明がつく。しかし、マシアスの言うとおり、いまのパルメニアにそんな余裕はない。むしろ、ここでアジェンセンとの絆だけでもよりいっそう堅くしておきたいはずなのに…
　キーマ＝パパラギは、怪訝そうな顔をした。
「はて、寝付いておられると…？」
「そうだ。妃は、そちと仲がよかったと聞いている。この場につれて来られればよかったのだが、あいにくと風邪をひいたらしい」
「ほう、それはそれは…」
　キーマ＝パパラギの目が、夜の猫のように光った。
「では、例の選考会とやらも、少し日程が延びることになるのでしょうかな」
「選考会？」
「ええ」
　ルシードは、相手が油断ならない男だということも一瞬忘れて、顔をくしゃっとさせた。
「なんだそれは。それが、我が妃となんの関係がある」
「そりゃ、おおいにありますよ。当然ではないですか！」
　大仰に手を広げて、キーマ＝パパラギは言った。
「…ということは、はて、大公殿下はご存じない。さきごろ妃殿下が、国中に向けて発布されたおふれを？」
「なんだと」
　ルシードは、側に控えているマシアスにチラリと視線を投げた。しかし、肝心のマシアスはどこか居心地悪そうに、わざとらしく時計をのぞき込んでいるだけだ。
　ルシードは、玉座の肘掛けを拳で叩いた。
「もったいぶるな。いったい、あいつが何をした。これから、なにがあるっていうんだ。言え、パパラギ！」
「困りましたな。こちらとしても予想外のことでありまして…。まさか、当事者であられる大公殿下がご存じないとは」
　なかなかはっきりと言い出さない彼に、ルシードの苛立ちはいっそう強まっていく。
「だから、なんなんだ！　知っているものは言え。――マシアス!!」
　ついにルシードは、玉座から立ち上がった。
　名指しされた秘書官は、仕方がないとばかりに一歩前に進み出た。そうして、どこか視線をさまよわせながら言う。
「恐れながら」
「恐れながら、なんだ！」
「伯爵のおっしゃるとおり、先日大公妃殿下が、アジェンセンの国中に向けてあるおふれを出されたのです。そのおふれというのが、つまり…、選考会を、開くと…」
「だから、なんの！」
「愛妾です」
　へ…、とルシードは固まった。
　マシアスは、開き直ったようにお辞儀をして言った。
「ほかでもない、あなた様の愛妾を国中から探し出すために、大々的な選考会を開くと、妃殿下はそうおふれを出されたのですよ、大公殿下」
（あ………）
　頭の中が真っ白になる瞬間というのはたしかにあるものなのだと、ルシードはまさにそのとき思い知っていた。
「な…、なんだって…」
　彼は、思わず玉座の肘当てに手をついて、その場にへたりこみそうになった。あまりのことに、よろり、と膝が笑ってしまいそうになる。
「あいつが、俺の愛人を探す…？　――いったいなんだって、急にそんなこと…」
　言いかけて、ルシードは今朝、ジルが妙なことを口走っていたことを思い出した。
『これは殿下のため、ひいてはアジェンセンのためでもあります』
（まさか…）
　ルシードは、青ざめた。
　あのときは、たかが女官を入れるくらいで仰々しいことを言うものだ、くらいにしか思っていなかった。
　しかし、それがルシードの愛妾を選ぶという意味だったとしたら!?
　ルシードと交渉をもつ気が（さっぱり）ないジルが、世継ぎのために画策したことだったとしたら!?
「そんな馬鹿な。国中あげての愛人選考会だと!?　そのために、ふれを出しただと。
　前代未聞だ。横暴だ。どこの世界に、自分から進んで夫の愛人選考会を開く妻がいる！」
　だが、いる。
　それに、そう考えればすべて思い当たるのだ。あの女官たちのヒソヒソ話も、意味ありげな視線も…
「嘘だ……」
「殿下、少し落ち着きなさい」
　マシアスのたしなめも、もはや惑乱するルシードの耳になど入らない。
　もはや目の前に天敵がいることも忘れて、彼はその場で思いっきりわめきちらしたのだった。
「だいたいなんで俺が、正妃に愛人を選んでもらわにゃならんのだ――っっ!!」]]>
        
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