はぴまり ~happy Marriage~ こんなバカンスアリですか?
「やだっ、もうこんな時間!?」
キッチンの時計を見上げた私は、慌ててお気に入りのエプロンを外した。
そろそろ北斗が帰ってくる頃だ。日曜日だっていうのに、朝から晩まで仕事なんて大変だけど、今日は家で晩ゴハンが食べられるだけマシなほう。彼はすっごく忙しいんだから。
——あ、申し遅れました。私、間宮千和。二十四歳のごく普通のOLで、結婚してもうすぐ二年になる新米奥さんです。
北斗っていうのは、私の愛する旦那様。私より五歳年上で、なんと日本有数の大企業である間宮グループの一つ、間宮商事の社長さん!
私も今の会社に転職する前は、間宮商事で働いてたから、北斗の有能さはよく知ってる。だって彼が社長になってから、業績がグングン上がったもんね。経済誌に取り上げられたりもしてるし。
なんでそんな人と結婚できたかって?
会社で見初められてシンデレラストーリー……ってわけじゃなくて、実はそれにはちょっと特別な事情がある。
当時の私は、お父さんが作った借金を返すために、二つの顔を持って働いてた。昼は間宮商事のOL、小鳥遊千和。夜はキャバクラのホステス、チワワ。お母さんみたいに逃げる道もあったけど、死んだおばあちゃんが愛した庭を手放すのは忍びなくて。
そんなある日、いきなり降って湧いたのが北斗との縁談。なんでも死んだおばあちゃんが、彼のおじいちゃん——つまり間宮グループの会長さんの恩人なんだとか。
会長さんは言った、ウチの借金を肩代わりしてくれるって。
ただしその条件は、間宮北斗と結婚すること。
北斗は北斗で、その条件を飲まないと、間宮商事の社長の座が危うかったみたい。ゆくゆくはグループ全体を継ぐっていう目標も遠くなる。
利害が一致した私たちは、結婚を決めた。言わば、契約結婚ってわけ。
だけど今は——。
私はパタパタと自分の部屋に駆け込むと、セーターとスカートを脱いで、パーティードレスを身につけた。
「やっぱかわいい〜」
胸の下で結ぶリボンに、胸元と裾のレース。こないだの財界パーティーのために、北斗が選んでくれたものだ。私のイメージに合わせたんだって。北斗ってば、私がこんなにかわいく見えるんだ。そう思うと、鏡に映る顔がニマニマ緩む。
あの夜、北斗は言ってくれたっけ。俺のために綺麗になるおまえが見たかった、って。
そうだよ、北斗のために綺麗になるんだよ。北斗のためだけに。
私は丁寧に髪を巻いて、いつもより少し濃い目のメイクをした。口紅はこの冬の新色で、コンセプトはキスしたくなる唇だって。北斗もなるかな?
ファーのショールを巻いてピアスを付けたところで、玄関でガチャッと音がした。
「あっ、帰ってきた!」
私は部屋を飛び出して玄関に駆けつける。そして、パァーン! 入ってきたばかりの北斗に向かって、持ってきたクラッカーを鳴らした。
「……何の真似だ?」
たっぷり十秒の沈黙。それからやけに低い声。
「えっと、もうすぐクリスマスだから」
「だから?」
「今年のクリスマスは平日だし、一緒に過ごすなんて無理でしょ? だから早めにパーティーしようと思って……」
そう言うと、ようやく北斗の目が私のドレスに向けられた。
「ああ、それでそんな格好なのか」
って、それだけ? こないだ褒めてくれたドレスだよ? 北斗のために着たんだよ? そりゃデレデレするタイプじゃないって知ってるけどさ。
着飾った私とは対照的に、北斗はあたりまえだけど完全な仕事モードだ。見るからに仕立てのいいスーツに高級なネクタイを締めて、賢そうな黒髪を右側でかっちり分けて。キリッとした眉に通った鼻筋、冷酷にも見えるほどクールな印象の目。文句なしにイケメンなんだけど、イケメンって言葉じゃ軽すぎる気がする。もっと隙がなくて大人なイメージ。
北斗は頭に積もった紙ふぶきを払って、スタスタと自分の部屋へ向かった。
「着替えてくる」
「……私も着替えようかな」
あまりにも素っ気ない態度に、思わずため息。
すると北斗は、ふと足を止めて振り返った。
「なんで?」
「なんでって……」
「俺のために着飾ってるんだろ? なら俺の許可なく脱ぐなよ」
何よ、わかってるんじゃない、私の気持ち。だったら素直にかわいいって言ってくれればいいのに——と思いつつ、
「うんっ!」
やだ、私ったら思いっきり笑顔になっちゃってる。こんな一言でとたんに嬉しくなっちゃうなんて、北斗仕様に教育されすぎじゃない? 幸せレベル低すぎかも。
でもいいや! 私はパタパタと足音を響かせてダイニングに戻ると、だいたい完成してた料理の仕上げにかかった。アボカドと生ハムのサラダに、トマトとオリーブのカナッペ。チーズフォンデュに、ローストチキン。フランスパンとシャンパンは、奮発していいやつを買ってある。
手作りしたケーキはちょっと不格好になっちゃったけど、なかなかのディナーなんじゃないかな。北斗の嫌いなものも入ってないし。
「よし、完璧!」
改めて並んだお皿を確認したとき、ちょうど北斗がダイニングに現れた。コートと上着を脱いでネクタイを解いてはいるけど、シャツやズボンはそのままだ。
「あれ? 着替えてくるんじゃ……」
「クリスマスパーティーなんだろ?」
「もしかして、私に合わせてくれたの?」
「嫁さんだけが綺麗なんじゃ、釣り合いが取れねえからな」
何でもないことみたいに言いながら自分の席に座る。
キレイだって! 不意打ちに驚きながら、私も慌ててお向かいに腰かけた。
二人用のテーブルに、二人分の料理。二人きりのクリスマス。なんて幸せ!
「ちょっと早いけど、メリークリスマス!」
私は自分でもわかるくらい弾んだ声で言って、シャンパングラスを掲げた。
北斗はカチンとグラスを当てたけど、
「……メリークリスマス」
あれ? 応える声がなんだか重いみたい。そういえば、さっきから微妙に目を逸らされてるような。
「北斗? もしかしてシャンパン嫌いだった?」
尋ねると、北斗は観念したみたいにゆっくり首を横に振った。
「いや、そうじゃねえよ。……実は今週末から一週間、海外出張することになった」
「えっ、出張!?」
……っと、危うくシャンパンを零しそうになる。
ただでさえ忙しくて一緒にいられる時間が少ないのに、そのうえ出張なんて。しかも海外に、一週間も!
「ついこないだ、三週間の海外出張に行ったばっかりじゃない」
「海外事業部門を任されたからな。取引先の会長の接待なんだ。いろんな方面に影響力を持つジジイだから、できるだけ機嫌を取っとかねえと」
つまり、その会長のお気に召すままに従った結果、こんな急に一週間も海外へ行く羽目になったってわけ。
「……そっか。北斗、がんばりどころなんだね!」
私は波立つシャンパンをテーブルに置いて、笑顔でガッツポーズを作る。
北斗は間宮商事の社長なんだもの、利益が一番大きくなるように動かなきゃいけない。そうやってきたから、今の業績アップがあるんだろうし。
妻なんだもん、納得しなくちゃ。ううん、応援しなくちゃ。
「でもこんな急で、スケジュールの調整つくの? 他の仕事とか」
「相馬に任せてあるから大丈夫だろ。ただ出張前に片付けなきゃならないことが山ほどあるから、明日からはもっと遅くなるか、帰れねえかもしんねえ」
「うー、やっぱり」
思わずチキンをフォークでグサッとやると、北斗は口元に苦笑を浮かべた。
「おっかねえな。でも、おまえ見てると和む」
「えっ、ほんと?」
「単純で、わかりやすくて」
「それって褒めてるつもり?」
北斗は私の抗議を聞き流し、上手に切り分けたチキンを口に運ぶ。
「お、うまい」
「でしょでしょ? これだけ作るの、けっこう手間だったんだから。材料費もいつもよりかかってるし」
「材料費? ふうん、意外とちゃんと考えてんだな、家計とか」
「意外って何よ。こう見えても主婦ですから」
って言っても、この家の主婦には節約なんて必要ないんだけど。夫がうんと稼いでくれて、しかもわりとお金に無頓着。この状況じゃ、自分で気をつけとかないと、歯止めなくいくらでも浪費しちゃいそう。
もう一口チキンを頬張った北斗が、ふと思いついたように言った。
「今度一緒に行ってみるか、スーパー」
「えっ、北斗がスーパー!?」
思いがけない言葉に、頭の中をたくさんの想像図が駆け巡る。買い物籠を持って陳列棚を覗く北斗。薄いビニール袋が開けられなくてイラつく北斗。エコバッグを提げた北斗。
「ぶっ」
「てめえ、笑いやがったな?」
「わ、笑ってないよ。ふっ……あんまり似合わなくて……ぷぷっ、びっくりしただけ」
「笑ってんじゃねえか。優しくしてりゃ付け上がりやがって」
北斗は急に低い声になって、音を立ててグラスを置いた。何よ、その怖い目つき。ってゆーか、それってベタな悪役の台詞じゃない?
「ほ、北斗?」
ギクリと身を硬くする私。無言で立ち上がる北斗。
北斗はつかつかと私の真横にやって来て、ジロリと見下ろしたと思ったら、いきなり覆いかぶさるようにしてキスをした。
「んんっ!?」
驚いてとっさに逃れようとしても、大きな手に捕まえられてて動けない。見開いた目の視界いっぱいに、近すぎてぼやけた北斗の顔が映ってる。
いきなり何!? ゴハン中なんですけど!? 言いたいことはたくさんあるのに、強引なキスにすべて飲み込まれてしまう。
すぐに二つの唇の温度が同じになって、両手から力が抜けた。ナイフとフォークがフローリングの床に落ちる音。やだ、拾わなくちゃ。頭の片隅で思うけど、考えはすぐにとろけて消える。
頭の芯が甘く痺れて、気がつくと自分から舌を差し出してた。
ところがそのとたん、北斗は唇を離して席に戻ってしまう。
「へ……? ほ、北斗?」
「おねだりならベッドでしてくれ」
「な……っ」
おねだりって! 自分からキスしてきたくせに! 真っ赤になって絶句する私をよそに、北斗は涼しい顔でカナッペに手を伸ばしてる。
「いったい何だったわけ、今のキスは!?」
「躾」
「はあ!?」
しれっと答えちゃって、わけわかんないっ! ルックスよし、頭よし、収入よし——でも性格は問題アリ、ううん、大アリだ。
だけど、
「北斗なんか……」
「北斗なんか?」
「……っ」
大キライ! って叫べない。愛情なんてない契約結婚だったはずなのに、性格悪いって思うのに、いつの間にこんなふうになっちゃったんだろ。
北斗はそんな私の気持ちを見透かしてるみたい。その余裕たっぷりの表情が悔しくて、私はテーブルに小さな箱を叩きつけた。
「何だよ?」
北斗がさすがにちょっとビックリした顔で訊く。
「クリスマスプレゼント! 全然大したものじゃないんだけど……」
「開けるぞ」
北斗は私の言葉を待たずに、長い指でリボンを解いた。クリスマスカラーの包装紙の中から出てきたのは、革製のシンプルなストラップ。
北斗の持ち物なんか高いのばっかりだから、私があげられるのはこのくらいが限界なんだよね。でも悪くないと思う。悪くないよね? ……どうかな?
「へえ、いいな」
北斗の言葉に、私はホッと胸を撫で下ろした。実はけっこう悩んで探したんだよね。北斗はあんまり電話やメールをしてくれないけど、携帯に付いてるこれを見れば、自然に私のことを思い出さないかな。それで連絡が増えればいいな、なんて下心もあったりして。
「俺はまだプレゼント……」
「ううん、そんなのいい。好きだって言ってくれたらそれで」
冗談半分ってゆーか、ダメ元で言ってみる。
だけど、
「——好きだ」
北斗がいきなり真剣な声で言うから、私はせっかく拾ったフォークをまた落とした。心臓がドキンッと鳴って、顔がじわじわ赤くなってくのがわかる。北斗はそんな私をじっと見つめて繰り返した。
「好きだよ、千和」
「ちょっ、北斗……」
「愛してる」
「……っ!」
北斗ってば、私の反応見ておもしろがってる。絶対そう。声は真剣だけど、目が密かに笑ってるもん。
バカッ、最低! それなのにドキドキしちゃってる私も相当バカだけど!
その夜、寝室に移動してからの北斗のキスは、ビックリするほど優しかった。舌の動きなんて、私の舌をあやしてるみたいで。
早めのクリスマスを喜んでくれたから? それとも、海外出張のことで本当は私ががっかりしてるってわかったから?
そうやって気遣ってくれるのは嬉しいけど、今はなんだかもどかしいよ。
私は両腕を北斗の首に巻きつけ、自分から激しく舌を絡めた。おねだりはベッドで——晩ゴハンのときに彼が言ったとおりに。
あ、北斗の首筋がピクッと動いたみたい。肌も舌も少し熱くなった?
私の心臓が一際高く鳴るのと同時に、北斗の腕に力が入って、私の体をベッドに押し倒す。優しさをかなぐり捨てた、噛みつくようなキス。思わず逃れた私の舌を、彼の舌がどこまでも深く追ってくる。
「は……っ」
ほんの僅かに唇が解放されて、やっと息を継ぐことができた。紙一枚分くらい隔てただけの北斗の唇から、彼の吐息が流れ込んでくる。
「明日からしばらくはおまえを抱けない」
言いながら、北斗の唇が首筋に下りてきた。それって、北斗も寂しいってこと?
気持ちを確かめてみたいけど、背中を走り抜ける快感に体が震えて何も言えない。
北斗はかまわずに肌をなぞりながら続けた。
「だから今夜は、やり溜め」
「や……!?」
そんなあからさまな言い方って! ほんっとデリカシーがないんだから!
心はそう叫んでるのに、瞬間的に体温が上がったのはどうして?
顔を背ける私を、北斗は至近距離から見つめてくる。どこか楽しそうに。暗闇の中でも、彼の黒い瞳が濡れたように光ってるのがわかる。
「み、見ないでよ」
「見せろよ」
北斗は反対のことを言って、その長い指で私のパジャマのボタンを外した。私の両肩はあっという間に胸のほうまで剥き出しにされて、汗ばんだ肌に暖房の風を感じる。
首筋から鎖骨へと下りた北斗の唇が、胸の膨らみ始める辺りを強く吸った。微かな痛みを感じて身じろぎすると、彼は少し笑ったみたい。
吐息に肌をくすぐられて、上半身がビクンと跳ねる。吸われた部分を中心に、肌が急激に熱くなった。
北斗の手の動きがだんだん激しくなって、逆に言葉は少なくなってく。
私の声と、北斗の吐息と、お互いの体が立てる音と。
いつしかそれしか聞こえなくなった。
「……大丈夫か?」
どのくらいそうしてたのか、気がつくと私はうつ伏せになってて、北斗の声が耳のすぐ後ろで聞こえた。少し掠れた声。そういえば、ひどく喉が乾いてる。
「……うん」
怠くて、それ以上に気恥ずかしくて、北斗のほうを見ずに短く答えた。ベッドの端にかろうじてひっかかってる下着とパジャマを、手探りで元どおり身につけようとする。
その動きを北斗が止めた。上からのしかかり、自分の体重を押し付けるようにして。
「出張から帰ってきたら、またな」
唇が耳の裏に軽く触れる。ゾクッと痺れるような感覚が、うなじから背筋を伝う。
「ほ、北斗のバカッ!」
そんなふうにされたら、「帰ってきたら」なんて待てなくなっちゃうのに。
「バカ? なんで俺がバカなんだよ?」
北斗は心外そうに聞き咎めたけど、私は枕に顔を押し付けて答えなかった。
悔しいから、理由は絶対に教えてやんない。
翌日からの私の暮らしは、まったく寂しいものだった。朝起きても一人、ゴハンを食べるのも一人、眠るのも一人。
北斗は「帰れないかもしれない」って言ってたとおり、ほとんど家に寄りつかなかった。たまに着替えに帰ってきても、私が勤務中でいなかったり、会えても話す暇もなかったり。日本にいたって、こんなにすれ違い生活じゃいないとの同じじゃん。
そしてそんな状態のまま、今日の午前中、彼は日本を発ってしまった。私は会社にいたから、ソワソワ空を見上げるばっかりで、見送るどころか電話の一本もできてない。
北斗は忙しくなるって言ってたし、私も覚悟はしてたつもり。だけど。
「せめて行ってきますって留守電くらい入れてよ。家に一人だから気をつけろとか、お土産は何がいいとか」
金曜日の夜、一週間の務めを終えた私は、ブツブツ文句を言いながらマンションに帰ってきた。
手にはコンビニのビニール袋。このところ毎食こんな感じだ。自分しか食べないって思うと、わざわざ料理をするのもめんどくさい。疲れてても料理をがんばれるのは、好きな人に食べてもらえるからこそだったんだ。
北斗が書き置きでも残してくれてないかな。最後の期待をかけて家中を歩き回ってみたけど、やっぱりそんなものはなかった。あの北斗だもん、そんなことするはずない。
「これから一週間かぁ……」
コンビニの袋をリビングのテーブルに放り出し、行儀悪くソファに倒れ込む。
金曜日だっていうのに、飲みや遊びの誘いは全部断ってきた。明日からの休みにも、何の予定も入れてない。
「変なの」
北斗と結婚してからの時間より、それまでの人生のほうがずっと長いのに。なのになんで、北斗がいない、それだけでこんなに無気力になるんだろ。彼のいないダブルベッドは広すぎて、うまく眠ることもできない。
私はセーターの胸元を引っ張って、自分の胸に視線を落とした。北斗が残したキスマークは、探さないと見えないくらい薄くなってる。
「北斗が足りないよぉ……」
思わず弱音が口をついたとき、放り出してたショルダーバッグの中で携帯が鳴った。
もしかして北斗!? 慌てて跳ね起きて携帯を取り出してみれば、ディスプレイに表示された名前は「相馬妙子」。北斗の秘書の相馬さんだ。
相馬さんから電話なんて、もしかして北斗に何かあった?
「もっ、もしもし!?」
「こんばんは、奥様。ご無沙汰しております、相馬でございます」
私の上擦った声とは対照的に、相馬さんの声はいつもどおり落ち着いてる。実年齢マイナス三十歳の、おっとりした笑顔が見えるよう。
べつに北斗に何かあったわけじゃないのかな? ううん、この人は明日世界が滅びるとしても、「困りましたわ」って頬に手を当てるくらいだろうから、安心はできない。
「あのっ、北斗に何か!?」
勢い込んで尋ねると、相馬さんは少し面食らったようだったけど、すぐにクスクス笑い出した。
「そうではございませんわ。驚かせてしまいましたわね。社長は無事に向こうに着かれたと、ご連絡をいただきましたよ」
「そうですか、よかった……って、連絡? 連絡があったんですか?」
「え? ええ、ございましたけれど……」
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はムカムカがこみ上げてくる。
北斗ったら! 仕事人間なのはよく知ってるけど、会社に連絡するなら妻にも連絡したらどうなの?
私の気持ちが伝わったのか、相馬さんがとりなすように言う。
「奥様はお仕事中の時間でしたから。社長は社長なりに、奥様の生活にご配慮なさったんでしょう」
「でも、こっちは心配してるのに」
寂しいのに。
「社長のご配慮も奥様のご心配も、つまりはお互いを思いやっているということですわ」
相馬さんは強引に美談に纏めると、「ところで」と用件を切り出した。
「突然ですが、今から私の申し上げる場所へいらしてください」
「へ? 今からって、今ですか?」
「ええ、今です」
「どうしてですか?」
「理由はお聞きにならないでください。極めて重要な用件とのみ申し上げておきますわ」
「極めて重要な……?」
いったい何だっていうの? でも相馬さんがここまで言うからには、ほんとに重要なことなんだ。携帯を握る手に自然に力がこもる。
「わ、わかりました」
「ありがとうございます」
相馬さんが指定した場所は、このマンションから一番近い駅の傍にあるカフェだった。彼女はすでにそこにいて待ってるとのこと。
「着替えてすぐに行きます!」
そう言って電話を切るなり、私は会社に着て行ったセーターを脱ぎ捨てた。代わりにニットのワンピースを身につける。
コートを着込み、通勤用のショルダーバッグを掴んでカフェに走ると、相馬さんは優雅な手つきでティーカップを傾けてた。私に気がつくと、おっとり微笑んで会釈する。
極めて重要な用件? とてもそんなふうには見えないんだけど……。
そう思いながらも席に駆け寄ろうとしたとき、相馬さんが立ち上がって歩いてきた。目の前に立つなり、にっこり笑って言う。
「こんばんは、奥様。さあ参りましょう」
「え? 参りましょうって……どこへ?」
「内緒です」
私の質問を満面の笑みでかわして、相馬さんはさっさとカフェを出た。とりあえずついてく私を、あくまで穏やかに、でも有無を言わさぬ強引さで案内してく。電車に乗り、途中で乗り換え——まあ変なとこには連れてかれないだろうけど。
でも私の信頼は、ある意味で裏切られることになった。到着した場所、そこは。
「あの……空港に見えるんですけど?」
「はい、空港ですわ」
出た、相馬さんのにっこり。なんか嫌な予感がするけど、この最強スマイルには北斗だって逆らえない。
身構える私に、相馬さんはパスポートと航空券を手渡した。
「え?」
「奥様のパスポートですわ」
促されて見れば、たしかに「間宮千和」って書いてある。北斗との結婚後、海外に行く機会もあるだろうからって取ったものだ。
「なんで相馬さんがこれ……」
「お忘れですか? 先日会社の書類に必要だからと、預からせていただいたでしょう? 社員の家族のパスポートが必要だなんて妙な話ですのに、社長も奥様もお疑いにならないんですもの。私を信頼してくださって嬉しい反面、心が痛みましたわ」
「って、つまり嘘だったんですか!?」
私のパスポートを手に入れるための。
「何のために!?」
「パスポートは主に海外旅行に行くために使うものですわ」
「はぁ!?」
それは知ってるけど。そうじゃなくて。海外旅行? 私が? いったい何の話?
私の混乱にかまわず、相馬さんは私の手を引いて歩いてく。国際線のほうへ。
その案内板を見上げながら、私は空港中に響くような声で絶叫した。
「何だっていうのーっ!?」