巫女姫様と千年の恋 
著/葵木あんね イラスト/すがはら竜 

序章
 三日月が陰る。
 春燕はゆっくり顔を上げ、大きく目を見開いた。
 一頭の馬が宙に浮いていた。
 艶やかな毛並みは燃えるように赤く、瞳は月光のような色をしている。
 たくましい体つきには風格さえ漂っていて、この世のものとは思われない美しさだ。
 しかし、春燕から言葉を奪ったのは、紅蓮の馬ではない。
 馬上でこちらを見下ろす、黒髪の青年だ。
 青年は五色の雲と竜を描いた革鎧をまとい、右手に一振りの大刀を持っていた。
 紫水晶のような瞳が闇を含んで深さを増す。
「迎えに来たぞ、我が花嫁」
 暗がりに降った声は、氷のように冷ややかだ。何も答えられず、春燕は青年を見上げた。
 十六年前に定められた許婚が、今――目の前にいた。


第一章  花嫁天上(はなよめてんじょう)
 中天にかかる、おぼろな三日月。
 ぼんやり霞んだ儚げなその姿は、今にも闇に溶けてしまいそうだ。
 静かに降る淡い月光が、満開の梨の花を白く浮かび上がらせている。
 ときおり、冷たい風に吹かれ、花びらは雪のようにはらはらと散り落ちた。
 清らかな夜だ。神仙がおりてきても不思議ではないくらいに。
「いよいよ今夜ですわね」
 天を見上げ、春燕は胸に手を当てた。心臓がどきどきと鳴っている。
 身にまとっているのは、真紅の花嫁衣装だ。袖の広い上襦にも、ひだをたっぷり寄せた長裙にも、きらびやかな刺繍がほどこされている。
 春燕は今夜、天に嫁ぐ。
 武神、黒竜大聖の花嫁となるのだ。
「この日をどんなに待ち遠しく思っていたことでしょう」
 春燕はうっとりとつぶやいた。ふくらんでいく期待で胸がいっぱいだ。
 五十年に一度、下界に黒竜大聖の花嫁が生まれる。
 高貴な家柄から占いで選ばれたその娘は、赤子のときから神域たる香玉山に預けられ、男子禁制の道観で『巫女姫』と呼ばれて育てられることになっている。
 そして、十六歳になった夜、香玉山の頂で黒竜大聖の迎えを待つのだ。
 黒竜大聖は、子どもでも知っている有名な神である。
 伝説によれば、勇猛な青年武将で、空飛ぶ赤馬に跨り、大刀を携えて勇ましく戦うという。
「大刀を振るう凛々しいお姿……こんな素敵な殿方、下界にはいませんわ」
 春燕は袖の中から巻子を取り出し、紙面を月明かりにさらした。
 そこには、革鎧を着た若々しい武将が鮮やかな色彩で描かれている。黒竜大聖の姿絵だ。
 幾度となく眺めたものだが、見るたびに惚れ惚れする。
「そんなに黒竜大聖が恋しくていらっしゃるのですか?」
 傍らに立つ老婆が苦笑まじりに問うた。幼い頃から身の回りの世話をしてくれた老婆だ。
 ことあるごとに春燕が黒竜大聖の話をするので、いつも呆れている。
「生まれたときからの許婚ですもの、恋しいに決まっているでしょう」
 春燕は姿絵を指でなぞった。
「早く黒竜大聖さまが鬼獣をお斬りになるところを見てみたいわ。妖怪のような禍々しい獣が、あっという間に綺麗な霊獣に変わるのでしょう? きっと美しい光景でしょうね」
 鬼獣とは、遥か昔、邪悪な神が創り出した化け物のことである。
 妖怪と霊獣をかけ合わせたもので、妖怪の凶暴さと霊獣の強大な力を併せ持つ恐ろしい怪物だ。黒竜大聖は、天の皇帝たる天帝からその討伐を任せられている。
 黒竜大聖にまつわる神話は暗唱できるほど学んだが、中でも、彼が鬼獣を斬る場面が春燕のお気に入りだ。
 おぞましい姿形をしている鬼獣は、黒竜大聖の愛刀で斬られると、たちまち光を帯びた麗しい霊獣に変化する。
 彼は鬼獣を斬るが、殺しはしない。本来の姿である霊獣に戻すのだ。
「鬼獣なんていませんよ」
 老婆が春燕の手から巻子を取り上げた。
「神話というものは、大昔の人が考えた作り話です。鬼獣も黒竜大聖も、どこにもいません」
「もう、婆やったらまた罰当たりなことを」
 力いっぱい眉をつり上げ、春燕は老婆から巻子を取り返した。
「神話をばかにしないで。私たちの前にはお姿をお見せにならなくても、黒竜大聖さまはちゃんと存在なさっています。今日も鬼獣をやっつけていらっしゃるはずですわ」
「巫女姫さまは、たいそう夢見がちであらせられますなあ」
 老婆は困ったように笑った。
過去の巫女姫は、人ならざる相手に嫁ぐことを嘆いたらしいが、春燕は喜んでいた。
 毎日、黒竜大聖に祈りを捧げるのが好きだったし、雄々しい武将を模して造られた神像や、鬼獣との戦いを描いた絵を眺めるのも大好きだった。
 天の英雄に嫁ぐことができる。
そう思うと、十六歳になるのが待ちきれなかった。
 今夜、とうとう許婚が迎えに来る。浮かれるあまり昨晩は一睡もできなかったが、まったく眠気はない。それどころか、今にも踊りだしたい気分だ。
「……本来は明日、道士さまがお伝えになるのですがね」
 熱心に姿絵を眺めていると、老婆がぼそりとつぶやいた。言いにくそうに視線を伏せる。
「夜が明けたら、巫女姫さまは香玉山をおくだりになるのですよ」
 春燕はきょとんとした。
「明日には私、ここにいませんわ」
 もうすぐ天にのぼるのだ。くだるも何も、今日には香玉山を去らなくてはならない。
「それは神話時代の話です。現代は違います」
 重く溜息をついて、老婆は気遣わしげにこちらを見た。
「明朝には還俗の儀式をお受けになり、ご実家にお帰りになることが決まっています」
「……どういうこと? 黒竜大聖さまがお迎えにいらっしゃるのに」
「迎えはこないのですよ。私は先の巫女姫さまを存じていますが、そのときもそうでした」
「え? お迎えがなかったのなら、先の巫女姫さまはどうなさったのですか?」
「還俗して生家にお戻りになりましたよ」
 何を言われているのか分からずに、春燕は目を瞬かせた。老婆は静かに続ける。
「黒竜大聖の花嫁は、古い伝説にすぎません。昔は神話にならって巫女姫さまは生涯、道観でお暮しになった そうですが、ある時代の皇帝陛下が定めを改められました」
 かつて、巫女姫は死ぬまで未婚で通すのが習わしだった。
 しかし、一生、人の妻になることができない身の上を憐れんで、皇帝が布告を出した。
 曰く、巫女姫は十六歳まで黒竜大聖に仕え、その後は還俗して実家に戻ること――。
 花嫁衣装を着た人形を道観に納め、次の巫女姫が現れるまで、彼女の代わりとせよと皇帝は命じた。
「……じゃあ、私、黒竜大聖さまと結婚できないのですか?」
 震える声で尋ねる。老婆はためらいがちにうなずいた。
 とたん、立ちくらみがした。
 ふらりと倒れそうになった春燕を、老婆が慌てて支えてくれる。
「ねえ、婆や。嘘でしょう……?」
「嘘ではありません。何百年も前から、そのように定められているのです」
「……ああ、そんな……」
 目の前が真っ暗だ。
 今までこの日を楽しみに生きてきたのに、まさか、黒竜大聖に嫁ぐことができないとは。
 胸にぽっかり穴が開き、体に力が入らない。春燕はへなへなと地面にへたりこんだ。
「どうか、気落ちなさいませんよう。ご両親が首を長くして、御身のお帰りを待っていらっしゃるのですから」
「両親? 私の?」
「ええ、そうですとも。大変高貴な御方ですよ」
 春燕を励まそうとしてか、老婆は明るく微笑んだ。
「これからは、天帝の宮殿のようなお住まいで素晴らしい暮らしをなさることでしょう。いずれは裕福な貴族に嫁がれることになりましょうが、ご両親は必ずや、人の羨む良縁をご用意なさいます。花婿は黒竜大聖の何倍も、たくましく美しい殿方に違いありません」
「嫁ぐ? 私が、貴族に?」
 かすれた声を絞りだした瞬間、春燕はわっと泣きだした。
「いやですわ! 黒竜大聖さま以外の殿方と結婚するなんて、考えられません!」
 ぽろぽろと涙があふれ、両手で顔を覆った。
 黒竜大聖の妻になれないばかりか、他の男と結婚しなければならないなど、悪夢以外の何ものでもない。
「仕方ありません。黒竜大聖などいないのですから」
「黒竜大聖さまはいらっしゃいます! 今夜、絶対に迎えに来てくださいますわ!」
「聞き分けのないことをおっしゃいますな」
 老婆は泣きじゃくる春燕の背中をさすった。
「百歩譲って大聖がいらっしゃるとしても、文字通り、雲の上の御方。人の娘が嫁ぐ相手ではございませんよ」
 いやですわ、と春燕は首を振って繰り返した。涙があふれて止まらない。
 叶うと信じて疑わなかった夢がたちまち崩れ去り、混乱していた。
「どうして今まで教えてくださらなかったのです?」
「慣例なのです。本当は私ではなく、道士さまがお話しになるはずでした」
 春燕があまりに浮かれはしゃぐので、黙っていられなくなったのだと老婆は言った。
 申し訳なさそうな老婆を見ると、瞳からますますしずくがこぼれた。
「ひどいわ。私、ずっと、黒竜大聖さまのこと……」
「――何の騒ぎですか」
 梨花に囲まれた小道を歩いてきたのは、年嵩の女道士だ。
 後ろから提灯を持った若い女道士が数名ついてくる。
 今夜は、香玉山の麓に位置する道観を離れ、頂にある小さな廟堂に女道士たちが集まっている。黒竜大聖に嫁ぐ巫女姫を見送るためだ。少なくとも、春燕はそう聞かされていた。
「道士さま! 実家に戻らなくてはならないなんて嘘でしょう? だって私、天に嫁ぐことが決まっているのですもの。黒竜大聖さまが迎えに来てくださるのですよね?」
 春燕が涙ながらに問いかけると、先頭の女道士はちらりと老婆を見やった。
「勝手に話してはいけないと言ったでしょう」
「……巫女姫さまがおかわいそうで、つい」
 老婆は首をすくめる。女道士は溜息をもらして、春燕のそばに膝をついた。
「あなたが黒竜大聖をお慕いしていることは知っています。天におわします我らが大聖も、よくご存じでしょう。……ですが、世の中には、どうにもならないことがあるのです」
 濡れた目元を手巾で拭い、そっと春燕を見つめた。
「この数百年、黒竜大聖が降臨なさったという記録はございません」
 頭を殴られたような衝撃に襲われた。瞬きすると、新しいしずくがあふれてしまう。
 先代の巫女姫も、その前の巫女姫も、黒竜大聖に嫁いだと教えられた。
 次は自分の番だと期待に胸をふくらませていたのに。
「あなたは明日、香玉山を去り、皇宮に向かわれます」
「……皇宮?」
「皇帝陛下並びに皇后さまが、あなたの帰りを待ちわびていらっしゃるのです」
 女道士は憐れむように春燕の頬を撫でた。
「突然のことに動揺するのも分かりますが、涙など流してはいけませんよ。お二人がどんなお気持ちであなたを香玉山に送り出されたか、想像してみなさい。十六年もの間、愛娘の成長を見ることができずに、どれほど御心を痛められたことでしょう」
「……皇帝陛下? 皇后さま? では、私は……」
「公主さまであらせられます」
 女道士はやんわりと微笑した。
「嘆くことなど何もありません。あなたは天子の娘御。母君は陛下のご寵愛を一身に受けておられる皇后さまです。都には、たくさんのご兄弟もいらっしゃいます。皆さま温かく迎えてくださいますよ。ですから、明日は元気よく旅立たれますよう」
 両親のことを話さなかったのは、習わしに従ったためだと、女道士は丁寧に詫びた。
「黒竜大聖さまが、お見えにならないなんて……」
 自分が公主だということよりも、黒竜大聖と会えないという事実が春燕をうろたえさせた。
 拭ってもらったばかりなのに、再びしずくがこぼれて頬を伝う。
「とにかく、お部屋に戻りましょう。いつまでも外にいては、お風邪を召されます」
 女道士が春燕を立ち上がらせようとした。なかなか足に力が入らずに、老婆が加勢する。
 二人に支えられて、やっと立つことができた。それでも足元がおぼつかず、ふらふらしてしまう。失意のあまり、泣き叫ぶ余力もなくなっていた。
 春燕は未練がましく天を仰いだ。
 月の向こうから、黒竜大聖が赤馬に乗ってやってくるものと思っていた。
 けれども、星のない夜空では、頼りなげな三日月がひっそりと輝いているだけだ。
 他には何も――。
「あれは……」
 いぶかしんで、春燕は目をすがめた。
 美人の眉を思わせる細い月の下半分が、なぜか影に覆われていたのだ。
「月が半分になっていますわ。どうしてかしら」
「雲のせいでしょう」
 老婆は気のない返事をした。早く部屋に入ろうと促されるが、春燕は立ち止まる。
「不思議ですわ。道士さまもご覧になって。婆やも、ほら」
 三日月は陰影にどんどん浸食されていった。
  薄い月光が途絶え、辺りに沈んだ闇がよりいっそう濃くなる。春燕は動けなくなった。
 雲ではない。漆黒の影が夜空を蝕んでいるのだ。
「さあ、まいりますよ。ここは冷えますから……」
 何気なく視線を上げ、老婆が息をのんだ。女道士たちも天を振り仰いで絶句する。
 無数の影が、こちらに向かって飛んできていた。
 鳥の群れのように見えたのは、ほんの少しの間だけ。
 春燕は食い入るように夜空を見つめた。
 不気味な群れは、疾風のごとく近づいてくる。
 鴉のように黒い両翼をはためかせているが、頭は鳥のそれとは似ても似つかない。
 猛々しく瞳をぎらつかせているのは、虎に似た獣の顔。
 だが、胴体は虎のものではない。
 前足も後ろ足もない長い体は、びっしりと鱗に覆われていた。
 虎の頭に蛇の体、加えて鴉の翼。この世のものとは思えない、奇怪な生き物だ。
 しかも、三、四頭ではない。空を食らい尽くさんばかりの数である。
「ば、化け物!」
 叫ぶように言い、老婆が後ずさった。
「神域たる香玉山にあのようなものが現れるなど、前代未聞じゃ。巫女姫さま、今すぐお部屋に入るのです。廟堂には護符が貼られています。やつらも入ってこられますまい」
 ぐいぐいと腕を引っ張られたが、春燕は呆けたように天を仰いでいた。
「虎と蛇と鴉が混じっているなんて、珍しいわ。何を食べたら、あんなふうになるのかしら」
「人に決まっているでしょう! 妖怪なのですぞ!」
「まあ、妖怪を見るのは初めてですわ」
「ぼんやりなさっていないで、早く逃げますよ!」
 老婆は大声で言い放った。ちらりと頭上を見、思い切り顔をしかめる。
「ご覧なさい! 新手がまいりましたぞ! このままでは、全員食われてしまいます!」
「新手? 今度は馬かしら」
 妖怪の周りに馬のようなものが飛んでいた。それぞれに二頭ずつだ。
 翼もないのに、空中を縦横無尽に駆けている。
 馬は妖怪を追い回し、妖怪は馬から逃げているようだった。
「あら? 人が乗っているわ」
 春燕は目をぱちくりさせた。
 馬上に人がいる。いずれも刀剣を持った武人だ。
 白刃を振り上げ、妖怪に斬りかかっている。
 彼らの攻撃を受けるたび、妖怪たちは悲鳴のような声を上げた。
「どういうことかしら。あの人たちも妖怪なのでしょうか?」
「……まさか、そんなことが――」
 青ざめた女道士が何事か言いかけた。
 そのときだ。
 下降してきた妖怪が苦しげに翼をはばたかせた。
 にわかに、すべてを吹き飛ばすような大風が起こる。地面に落ちていた花びらが砂埃のように舞い上がり、 梨の木の枝が耳障りな音を立てて次々に折れた。
 春燕も老婆も女道士たちも、立っていられなくなって倒れこんでしまう。
 上空の暗がりでは、翼のある大蛇がうごめいていた。
 騎兵たちがそれらを執拗に追いかけ、抜身の刀剣が淡い月光にきらめく。
 あちこちで断末魔の声が響き、鮮血が飛び散った。
「……あれは、妖怪では……」
 年嵩の女道士が身震いした。蒼白の面をこちらに向けて叫ぶ。
「廟堂へ隠れなさい!」
 風を切る音が聞こえた。高い場所で馬から逃げ回っていた妖怪が、急降下してきたのだ。
 他のものより、一回りは大きい妖怪だった。
 黒光りのする胴体は、大木の幹を連想させるほど太い。何度も斬りつけられたのだろう、鱗に包まれた体には幾筋もの傷跡があり、頭部の毛は血で汚れている。
 満身創痍にもかかわらず、虎の双眸はぎらぎらと強い光を宿していた。
 地響きがするような咆哮を上げ、稲妻のごとく下降してくる。
「巫女姫さま!」 
 叫んだのが老婆なのか女道士なのか、区別はつかなかった。
 自分を目がけて妖怪が突進してきている。逃げたほうがいいと思うのに、体が動かない。
 強風が吹き荒れた。妖怪の牙がすぐそこまで迫る。
 刹那、何かが眼前に躍り出た。
 馬だ。
 燃えるように赤い馬が、見事な鬣をなびかせ、屈強そうな脚で宙を蹴っていた。
 鞍上にいるのは、革鎧を着た若い男。
 刀身の広い大刀を片手に、臆することなく妖怪に向かって駆ける。
 一瞬の出来事だった。
 男は軽やかに大刀を振るい、妖怪の喉笛をかき切った。
 けたたましい叫び声が響き渡る。
 血飛沫を上げながら、妖怪が全身を震わせた。頭を左右に揺らし、荒々しくうなる。
 ぎらつく双眸はなお敵意を失わず、妖怪は牙をむき出しにして赤馬の武人に襲いかかった。
 虎に似た頭部は、男の背丈ほどはある。近くで見ると、両翼の羽は、一枚一枚が棘のように尖っていた。妖怪が翼を激しくばたつかせる。馬ごと弾き飛ばすつもりだ。
 その攻撃を踊るようにかわし、赤馬は鮮血の滴る顎の下に入りこんだ。
 電光石火の早業で、黒々とした蛇腹に男が大刀を突き立てる。
 絶叫が天を貫くや否や、刀身をさらに深く突き入れた。
 間髪を容れず左に薙ぎ払うと、骨の砕ける音が雷鳴のようにとどろく。
 勢いよく血潮がほとばしるときには、赤馬は妖怪の頭上に駆けのぼっていた。
 男は大刀を振り上げ、ためらいなく虎の額に振りおろした。
 それが止めになったのだろうか。妖怪は空中でのた打ち回った。
 口から血を吐き、白目をむいて真っ逆さまに落下する。
 ちょうど春燕の上に落ちようとしていた。
 あんなものの下敷きになったら死んでしまうと分かっているのに、体はびくともしない。
 老婆も動けなくなっているらしく、ただひたすら目を見開いている。
 もはや死を待つのみかと思われたとき、妖怪の体が閃光に包まれた。
 視界が真っ白になり、まぶしさのあまり目を閉じる。
 光は徐々に和らいでいった。そろそろとまぶたを上げ、春燕は声を失う。
 周囲は穏やかな暗さを取り戻していた。しかし、血まみれの妖怪はどこにもいない。
 やわらかな月明かりの中を、一頭の虎がふわりふわりと舞うようにおりてきていた。
 白い毛並みに包まれた肢体には、得も言われぬ気品が漂い、優雅ですらある。
「……白虎」
 傍らにいる老婆が唖然として独りごちた。書物で読んだ記憶がある。
 西方を守護する霊獣のことだ。
 その姿は純白の美しい虎で、おとなしく、優しい気性をしているという。
「なぜじゃ。霊獣が……どうして」
 老婆がつぶやいているうちに、白き虎はかすかな音さえも立てず着地した。
 霊獣は天に仕える神聖な獣だ。
 神話や伝説にはたびたび登場するものの、人間の前に姿を現すことはない。
 気高く麗しい姿に見惚れていると、視界に影が差した。
 春燕は顔を上向ける。直後、鼓動がはねた。
 空中に赤い毛並みの馬が浮かんでいた。
 その背に跨るのは、一振りの大刀を手にした年若い武人。
 馬上から見下ろす双眸は、さながら紫水晶のようだ。
 血濡れた短髪は、闇と同じ色で、頬を伝う鮮血が精悍な面差しに凄みを添えている。
『鬼獣は、黒竜大聖に斬られると霊獣になる』
 暗記するほど読んだ神話の一説が頭の中でこだました。
 ――もしかして。
 目を見開いたとき、上空から銀色の獣が緩やかに下降してきた。
 形は狼に似ているが、体躯はとても大きく、馬の二、三倍はある。
 まばゆい銀の毛皮に覆われた背中には、金髪の青年が跨っていた。
 そのあとを追うように、宙を駆ける騎兵たちが舞い降りてくる。
 いずれも返り血を浴びて全身真っ赤だ。彼らは手綱を操って空中で立ち止まった。
 赤馬の武人は深い紫の瞳を薄く細めた。
「迎えに来たぞ、我が花嫁」
 答えられない。驚愕と感動が一気に押し寄せてきて、瞬きすらできなかった。
 居並ぶ軍勢。その先頭に立つ、紅蓮の馬に乗る青年。
 もはや、彼が何ものであるか尋ねる必要はない。
 赤馬の青年は軽やかに地面に降り立った。
 戦袍の裾をひるがえして下馬し、颯爽とした足取りで春燕の前までやってくる。
 右手に握られていた大刀は、いつの間にかなくなっていた。
 距離が縮まり、彼のまとう張りつめた空気が鮮明に印象づけられる。
 眼差しは刀剣の切っ先のように鋭利で、ささいな所作にも無駄がない。
「急げ。ただちに帰還する」
 大きな手が差し出される。
 低い声は氷のように冷え冷えとしていたが、春燕は我を忘れて聞き惚れた。
「立つこともできないか?」
 男が苛立たしげに口元を歪めた。
「泣きわめくなら、術をかけて気絶させるぞ。お前がどんなにいやがろうと――」
「黒竜大聖さま!」
 春燕は弾かれたように立ち上がった。そのままの勢いで彼の胸に飛びこむ。