横柄巫女と宰相陛下 リリィ様日記

鮎川はぎの

 最初に一つ、とても大切なことを言っておきますわね。
 この物語の主役は、このわたくし、リィリエッタですわ!
 あら、何か不満でもありますの? 文句があるなら聖獣殿へいらっしゃい。わたくしはそこで、落ちこぼれの〈聖剣の巫女〉ノトの面倒をみていますから。
 ……わかっていただけたけたようですわね。
 では改めて、ごきげんよう皆様。わたくしはリィリエッタ。聖女リリィ様と呼びたければ、どうぞよろしくてよ。
 わたくしのことが知りたくてたまらなければ、「横柄巫女と宰相陛下」シリーズを読みなさいな。今のところ第六巻まで発売中で、さらにこれから怒涛の六ヶ月連続刊行らしいですわよ。脇役がやけに出張っていますけれど、目のある人間ならば、真の主役が誰なのかはちゃんとわかるはずですわ。
 とはいえ、わたくしのことだけ知りたいという方(大半だと思いますけれど)のために、ここで少し教えてさしあげましてよ。
 わたくしは、シリウス王国の六大貴族の一つ、ランダルセ家の娘ですの。美貌や知性や気品や、その他もろもろの美徳に人よりもちょっと恵まれてはいますけれど、まあごく普通よりも少し優れているくらいの貴族令嬢ですわ。これは謙遜ですわよ、念のため。
 自慢はこの黄金の巻き毛。ノトのみすぼらしい頭と違って、豪奢に輝いているでしょう? あら、瞳も唇も美しいと言ったのはどなた? そんなにいちいち挙げていたらきりがありませんわよ。いいところ探しは、いいところがあまりない人がすることですわ。
 こんなわたくしがなぜノトなんかの面倒を見ているのか、不思議でたまらないでしょうね。副巫女――「副」という言葉は、頂上の似合うわたくしに、なんてそぐわないのでしょう。でもしかたないのですわ、美女に不遇はつきものですもの。それによく考えたら、不遇は主役の証明とも言えますものね。
 わたくしのことが少しはわかりまして? もっともっと知りたいという方(全員だとおもいますけれど)のために、今日は特別に、わたくしの日記を一部だけ公開してさしあげましてよ。
 ちなみにわたくしの日記帳には、ユーフェオメラニーという立派な名がありますの。愛称はユーフェ。わたくしは幼き日より、ユーフェにだけ秘めごとを打ち明けてきたのですわ。これぞ乙女のたしなみだと思いませんこと?
 あら、乙女のたしなみといえば、「恋と冒険は乙女のたしなみ」という有名な言葉があったような。恋と冒険に彩られたわたくしの日常、さあとくとごらんなさいな。

○月×日
 春の訪れを感じさせるうららかな陽射しに、わたくしの金髪が照り映える日。
 レヴィ様が突拍子もないことを言い出しましたわ。第五子の安産祈願のために、親しい人間で集まって競馬大会を催したいというんですの。といっても大掛かりなものではなく、単なるお遊びのようですけれど。
 女流騎手のアナにお会いになって、きっと興奮なさったんですわね。それに、カノン陛下の代になってから宮廷での催しが減ったと、前からレヴィ様はおっしゃっていましたもの。
 カノン陛下は美しく聡明な方だけれど、少しばかり陰気なのが玉に瑕ですわ。華やかな遊びや社交があまりお好きではないみたい。それにここだけの話、女性に興味を持てない哀れで不幸な方なのではないかしら。だって、こんなにも魅力に溢れたわたくしに、ちっとも優しくないんですもの。まっとうな殿方ならありえませんわ。
 とにかく、レヴィ様がやりたいとおっしゃったら、それはもう決定ですの。彼女に逆らえる人間はどこにもいませんもの。レヴィ様に声をかけられたら最後、その者は強制出場ということになるのですわ。
 男勝りのレヴィ様に、女性は慎ましやかに応援するだけなんて考えはありませんの。だからこの競馬大会は、男も女も一緒になって行なうんですって。
 これはもしかして、新しい恋の予感ではありませんこと? 運命の恋人アロルト様はもういらっしゃらないけれど、そろそろ二番目の運命が訪れてもいいころですわよね。レヴィ様と親しい若い殿方というと……ねえユーフェ、誰か目ぼしい方がいたかしら。
 それはともかく、あのアリスにだけは負けられませんわ。絶対に出しゃばってくるに違いないけれど、みんなの前で恥をかかせてやりましてよ。ユーフェも知ってのとおり、わたくしは運動にも少しばかり自信があるのですわ。念のために言うと、これも謙遜ですわよ。
 さあ、そうと決まれば、さっそく競馬大会用の衣装を用意しなければなりませんわね。戦う聖女にふさわしき衣装を。血が滾ってきましたわよ。勝利の冠は、この黄金の頭こそふさわしいのですわ。

○月×日
 柔らかな小雨が一日中、降り続いた日。
 競馬大会の日にちと場所、それに出場者が決まったそうですわ。場所は王宮の馬場。レヴィ様はどこかの闘技場でとお考えだったらしいけれど、陛下が止められたとか。
 つくづく派手になれない方ですわね。あの地味な〈聖剣の巫女〉とぴったりの取り合わせですこと。なんですの、ユーフェ。べつに自分が〈聖剣の巫女〉になれなかったから言うのではありませんわよ。
 ちなみに陛下は出場なさらないのですって。右手がご不自由だからかと思ったら、そうではなく、国王という立場上だそうですわ。さすが名に負う堅物陛下ですわね。
 立場ゆえの不出場といえば、〈聖剣の巫女〉のノトもそうですのよ。おでこことオディルが、眉を吊り上げて「絶対にだめです」と言っていましたわ。まあ、鈍いあの子が競馬大会なんて、禿頭なのに理髪師を呼ぶようなものですものね。
 二人は一緒に見学するそうですわ。そのほうが競技に出るより長く一緒にいられる、とノトはむしろ喜んでいる様子。あんなに闘争本能が欠如しているようでは、この社会の荒波を渡っていけませんわよ。
 それはともかく、レヴィ様から新たな発表がありましたの。大会では男女で組を作って戦い、その組単位で勝者を決めるのですって。当日までに自由に組んでおくようにとのこと。
 アリスは早々にカノン陛下に申し込んだそうだけれど、お生憎様、陛下は出場なさいませんのよ。目指せ王妃様作戦だったかしら、あの浅はかで無謀で図々しい目論見があっさり外れて、実にいい気味ですわ。愉快すぎてつい鼻歌が零れますわね、るん。
 さて、わたくしは誰と組んでさしあげようかしら。明日、ミルザム宮を物色しに行かなくては。

○月×日
 雨上がりの緑が鮮やかな日。
 来ましたわ、見ましたわ、勝ちましたわ! 何のことかって? もちろん、競馬大会でわたくしと組む相手のことですわ。
 今朝ミルザム宮へ向かっていたら、前方から殿方が歩いてくるではありませんの。そのお姿の美しいことといったら! 髪は月光を紡いだような淡い金色、瞳は澄んだ湖を思わせる薄い水色。ほっそりして清潔感があって顔立ちが優しくて、まさしく乙女の夢から脱け出してきた貴公子ですわ。白の貴公子だか何だか知らないけれど、キルティアなど目ではありませんわよ。
 わたくしは彼に二度目の運命を感じましたわ。彼のほうも同じだったみたいですの。彼は少し頬を赤らめてはにかみながら、こう言ったんですのよ。
「リリィさん、競馬大会で僕と組んでくださいませんか?」
 彼の後ろには、真っ赤な薔薇が咲き誇っていましたわ。そしてわたくしたちの頭上で、祝福の鐘が鳴り響いたんですの。目の錯覚でも空耳でもありませんわよ。わたくしたちはあの瞬間、たしかに愛を誓い合ったのですわ。
 飛躍? ふふん、飛べない女はただの女ですわよ。
 そういえば、あの方のお名前をうっかり聞き忘れてしまいましたわ。初めてお会いする方だったのに。今度聞いて、ユーフェにもきちんと教えてあげますわね。

○月×日
 聖女リリィ様の聖戦にふさわしい、爽やかに晴れ渡った日。
 今日はいよいよ競馬大会ですわ。ユーフェも結果が気になるでしょうから、逐一、報告してあげましてよ。なるべく詳しく教えてあげるから、楽しみにしていなさいな。
 まずは前哨戦の結果を報告しますわね。もちろん服装のことですわよ。乙女たるもの、いついかなるときでも身だしなみが大切ですわ。
 出場しないノトは、いつもどおり〈聖剣の巫女〉の装束を纏っていましたわ。春用になっていくらか軽やかにはなったけれど、やはり華やかさには欠けますわね。わたくしが〈聖剣の巫女〉になっていたら、もっとうんと豪華な衣装を自ら編み出して、巫女の服飾界に革命を起こしたのに。
 ところがノトにお会いになったとたん、陛下は眩しいものでも見るみたいに目を細められましたの。
「君がそうやって微笑んでいるのを見ると、春の暖かさもひとしおに感じられるな」
 そうおっしゃって、ノトのさらさらした、でもまっすぐで派手さに欠ける髪に、野の花をそっと一輪。
 ねえユーフェ、あなたはノトが笑ったところなんて見たことがあって? いつも仮面みたいな無表情ですわよね? 陛下はどうやって、ノトの表情の変化を読み取られるのかしら。それとも実は、単に思い込みで決めつけていらっしゃるとか?
 ノトはいつもの棒みたいな口調で答えましたわ。
「わたしをあったかくするのは、いつもカノンだ」
 あら、なんだか少し顔が赤いみたい。それにしてもノト語は、いつもながら何が言いたいのかわかりませんわね。
 なのに陛下は、こちらが照れるくらいに優しく微笑まれますのよ。ご自分の〈聖剣の巫女〉だというだけで、猫も杓子もミミズもオケラも愛らしく見えるものなんですのね。
 まあ、競技に出場しない二人はもういいですわ。問題は出場者。
 聖獣殿から出場するのは、わたくしとおでこの二人だけですの。彼女は神殿衛士の装束を借りているのだけれど、あまり似合っているとは言えませんわ。不思議なことに、女官長姿で鍵束をぶら下げているときのほうが、よほど強そうで怖そうに見えるんですのよ。
 おでこの相棒はあのヒロクで、馬場に彼女が着くなり、何か細長い布をずいっと渡してきましたの。
「それをその秀でた額に巻きたまえ、おでこくん。正々堂々、勇猛果敢に戦い、我らの手に勝利を掴もうぞ!」
 いつもながら異常に爽やかな口調で、目も異様にきらきらしていましたわ。おでこは半ば無理やり、それを藍色の頭に巻かされ、後頭部の下のほうで括りましたの。布の真ん中には「必勝!」と書いてありましたわ。哀れおでこ、妙な格好ですこと。
 ……あら、何の話だったかしら。そうそう、服装でしたわね。
 対おでこではわたくしの圧勝として、予想外だったのはローロですわ。いつも慎ましやかなドレスを着ている彼女の乗馬服姿が、あんなに様になるなんて。
 長い黒髪を陛下みたいに纏めて、ちょっと凛々しい感じがしますわね。この子ったら、こんなにきれいな体つきをしていたかしら。いつも目立たないように小さくなっているから、まじまじと見たこともありませんでしたわ。
 ローロを見たときの、スライのだらしない顔といったら。
「なんてかわいいんだ、俺の王女様。見てろ、絶対その頭に勝利の冠を載せてやるから」
 彼は唇の端に、にっと太い笑みを刻みましたわ。彼の癖らしいけれど、わたくしはそれがなんとなく粗野に見えて好きませんの。けれどローロは赤くなりながら答えましたわ。
「スライ、あなたと組んでいるのは私ではありません」
 わたくし、思わず笑ってしまいましたわよ。なんでも陛下に頼まれた仕事が忙しくてぐずぐずしている間に、ローロはシアンに申し込まれて組んでしまったのですって。なんて間抜けなのかしら。
 そのスライが誰と組んでいるかというと、ねえユーフェ、これが笑わずに聞けまして? なんとあのアリスですのよ。余り者同士しかたなく。おかしいでしょう?
 アリスは相変わらず想像を絶するおばかさんで、あの〈扉の舞姫〉の衣装をもっと派手に、もっと色とりどりにしたような格好をしていましたわ。お臍をはじめ肌色の見えているところがとても多く、ふしだらが服を着て(ろくに着ないで、かしら?)歩いているようなものですわよ。
「舞姫アリスがけなげにがんばる姿を、陛下によく見ていただくのよ。それにレヴィ様の覚えがめでたくなれば、社交界での地位も安泰だわ」
 計算高いようなことを言っているけれど、唇が青ざめて肌がぶつぶつ粟だっているのを、わたくしは見逃しませんでしたわ。寒いんですのね、おばかさん。あのつるんとした直毛を、脳が滑り落ちてしまったに違いありませんわ。
 ……すっかり長くなってしまったけれど、総合的に見て、やはり格好はわたくしが一番だと思いますの。戦いに備えて猛々しく結い上げた、豪奢な黄金の巻き毛。そして均整が抜群の体(特別な下着で寄せて上げていることは内緒ですわよ)に纏うのは、この斬新で前衛的な衣装。
 フリルがたっぷりのかぼちゃ型ズボンなんて、これまで見たことがありまして? お尻の大きなリボンが気に入っていますのよ。まっ、アリス! 誰がどてかぼちゃですって?
 ふん、勝手におっしゃい。新しいものは、凡人にはなかなか理解されないものですわ。
 あ、何か忘れていると思ったら、生意気なキルティアの存在でしたわね。まあ、彼女のことなんかは後にしますわ。べつに知りたくないでしょう?

 ユーフェ、しばらく放っておいてごめんなさいね。さっそく競馬の結果を報告してあげますわ。
 競走は二回行なわれ、一回目は馬場を一周するだけの短いもの。二回目は五周する長いものですの。レヴィ様はもっと趣向を凝らしたかったようですけれど、これまた陛下に止められたとか。
 そんな陛下は、ノトの手をそっと握っていらっしゃいましたわ。ええ、間違いありませんわよ。わたくしは目もいいんですもの。競走前でちょっと気が立っている馬たちに、ノトがみっともなくびくびくしていたせいらしいですわね。宰相〝陛下〟というあだ名を改め、過保護〝陛下〟にするべきですわよ。
 一方レヴィ様は、満月みたいなお腹を気にするふうもなく、並んだ馬たちを眺めながら歩き回っておいででしたわ。身重のレヴィ様のために、豪華な椅子が一脚、馬場の柵の傍に用意されているのですけれど、まったく座る気がないらしく目もくれませんのよ。
 競走はまず男性陣から。レヴィ様の号令に従い、彼らの馬が一斉に駆け出しましたわ。わたくしのあの方の、なんて美しいこと! 月光の君! 湖の貴公子! ……ええ、そうですのよ、ユーフェ。また名前を伺い忘れたんですの。
 ところがわたくしのあの方は、最初から最後まで最後尾を走られましたの。その前がシアンで、やや離れた前にスライ。先頭争いは、ヒロクとレノウのミドグラント兄弟ですわ。
 よく考えれば、ミドグラント家はシリウス王国きっての尚武の家柄。この競馬大会は、彼らの独擅場になるのではありませんこと?
「行け、愛馬よ! 新風迅雷のごとく駆けるのだ!」
 ははははは、という朗々とした笑い声を途切れさせることなく、結局は兄のヒロクが勝利を収めましたわ。
「兄上はうるさい」
 そう言うレノウの口調は、呆れるでも咎めるでもなく淡々としていたけれど、この喧しさは口を縫い付けておいたほうがいいくらいですわよ。ノトはろくに喋れないし、反対にヒロクは喋りすぎるし、みんな中庸というものを知りませんの? わたくしだけが宮廷の良識ですわね、まったく。
 ミドグラント夫人であるレヴィ様は、満足そうにお腹をぽんと叩く傍ら、スライやシアン、それにわたくしのあの方を叱咤しましたわ。ああ、しょんぼりなさらないで。あなたの仇は、このわたくしがとってさしあげてよ。この愛馬、麗リリィ号で!
 今度はわたくしたち女性陣が並ぶと、ノトがぽつりと言いましたわ。
「雪割も走りたいかな」
 ノトの馬のことだけれど、あんな老馬にノトみたいなへっぽこ騎手が乗って、わたくしと麗リリィ号に勝てるものですか。やるだけ無駄というものですわよ。
「私とゆっくり稽古をしよう」
 陛下がそう慰めておられましたわ。過保護な性分だと、いろいろと面倒ごとが増えて大変ですわね。アリスがそんな陛下を見て、ぎりぎりと馬の鬣を毟っていましたわ。〈聖剣の巫女〉にまで嫉妬するなんて、どれだけ心が醜く腐っているのかしら。
「がんばりましょうね、やんちゃ君」
 おでこはそう言って馬の首を撫でているけれど、彼女はまだ乗馬初心者。そう速いはずがありませんわ。ねえ、麗リリィ号。その鼻息が頼もしいですわよ。
 こうなると敵はやはりローロと、そして忌々しいあの女。小さいときからいつもわたくしの前をちょろちょろして、生意気ったらありませんでしたのよ。
「卑怯ですわ!」
 わたくしはびしっと人差し指を突きつけましたわ。もちろん、キルティアの細い鼻の先に。だってそうでしょう? キルティアはキルテと名乗り、男として生きているんですもの。白マントの男装もすっかり板についているし、馬だってそこらの男性以上に乗りこなせると聞きますわよ。
「だからぼくは、男性の側で出場すると言ったのだけれどね」
 キルティアがそう言うのを、憤然と遮るのはレヴィ様。
「うちの息子の妻になるのに、女の子に決まっているじゃないの」
 そういえばキルティアは、レヴィ様の息子のレノウと婚約しているんでしたわね。でもこの二人が組になるなんて、強さが偏ってしまうのではありませんこと?
 ではこうしよう、とキルティアはわたくしたちよりもうんと下がったところで位置につきましたの。おばかさん二号、とわたくしは思いましたわ。いくら男もどきでも、こんなに差をつけて勝てるはずがありませんもの。
 ところが――きーっ、悔しい! 半周もしないうちに、わたくしの横を白いものが通りすぎましたの。忌々しいキルティアの白金の髪と、そしてたなびく白マントですわ。彼女は汗一つかかず、少し申し訳なさそうな顔さえして、悠々と先頭で競走を終えましたの。やっぱりずるですわ!
 ちなみに二位はローロ、三位は……許せないことにおでこ。おでこは馬に乗ったというより、乗せられていたんですわ。しがみついて青い顔をしていましたもの。たしか彼女の馬はヒロクから贈られたはず。あの強引さ、馬は持ち主に似ると言いますものね。
 でもわたくしも、アリスにだけは勝ちましたわ。歯軋りするアリスの顔といったら。これからしばらくはいい夢が見られそうですわね。
 とはいえ、組として考えるとどうなるのかしら。レノウ・キルテ組が二位と一位。ヒロク・オディル組が一位と三位。シアン・ローロ組が四位と二位。スライ・アリス組が三位と五位……? わたくしのところが最下位ではありませんの!
「リリィさん、すみません。僕が不甲斐ないばかりに」
 愛する人にこんなことを言わせられませんわ。なんとかしなくては……なんとか。

 ユーフェ、待たせましたわね。どこへ行っていたのか? もちろん秘密兵器を取りにいっていたのですわ。連れにいっていたというほうが正しいかしら。
「リリィ、それをどうするんだ?」
 おばかさん三号、ノト。乗る以外に使い道がありまして?
 さあ、二回目の競走に行ってまいりますわよ。次は勝ちますわ。だってわたくしには、秘策が三つもあるんですもの。結果は後でね、ユーフェ。

「二回目の競走は女性からにしませんこと?」
 秘策その一、わたくしはレヴィ様にそう提案しましたの。理由は簡単、わたくしのあの方を発奮させるためですわ。
 あの方には、どうも自信と闘争心が足りないみたい。でもわたくしがみごと勝利を収めるところをご覧になれば、「愛するリリィさんががんばっているんだから僕だって!」と思われるに違いないでしょう?
 誰からも異論は出ず、秘策その一はあっさり成功しましたわ。おばかさんたち、これが敗北への第一歩だとも知らず。
 秘策その二、わたくしはみんなが馬を並べているところへ、聖リリィ号を引いていきましたの。キルティアの今度の負担条件は、他の騎手よりも一周多く走ること。だから出発点は全員が同じというわけですのよ。
 みんなの目が、わたくしの聖リリィ号に集まりましたわ。よかったですわね、聖リリィ号。注目されてこそ美しくなるんですもの。
 聖リリィ号、四歳、牡。もともとは、わたくしが〈聖剣の巫女〉に選ばれる宴で供されるはずだったのを、ノトがけちをつけてだめにしたのでしたわね。あのとんちんかん娘。
「……それは牛に見えるのだがね?」
 あらキルティア、牛の何が悪いんですの? 鬣がないからといって、差別はやめてもらいたいですわね。この聖リリィ号を甘く見ると、痛い目に遭いましてよ。頬がにやりと緩むのを堪えるのが大変でしたわ。
 いいこと、ユーフェ。みんなの馬は一回目の競走で疲れているけれど、聖リリィ号はこれが初の競走。疲れなどあろうはずがないのですわ。疲労というのは侮れないものですわよ。それに、聖リリィ号とわたくしほど心の通じ合っている組み合わせが、他にありまして? 頼みますわよ、聖リリィ号。
 アリスが何かぎゃあぎゃあ騒いでいるのを、聖リリィ号の黒い背中に跨ったわたくしは、涼しい顔で無視してやりましたわ。そしてレヴィ様の号令を聞くなり、これでもかとばかり強かに力いっぱい脇腹を蹴ったんですの!
 この時点でいきなりアリスが脱落しましたわ。号令がかかったのに、アリスの馬はその場を一歩も動かないんですの。慌てふためくアリスの顔。ざまあみろですわね。
 一番いい反応を見せたのは、やはり忌々しくもキルティアの馬でしたわ。白いマントに白い馬。きっと腹の黒さをごまかそうという魂胆ですわね。
 そんなことを思いながら、わたくしはさっと彼女のほうへ手を伸ばしましたわ。勝負の世界は非情なもの、勝つためには手段など選んでいられるものですか。秘策その三、キルティアのマントを掴んでやりますのよ。
 えっ、と声を上げたキルティアが体勢を崩しましたわ。しめた! ところが、すかさず前に出ようとしたわたくしの体までが、なぜか傾いでいくではありませんの。おのれ、聖リリィ号。通じ合ったと思っても、しょせんは牛でしたのね。
 聖リリィ号の裏切りによって、わたくしは地面に投げ出されてしまいましたの。日頃の行いのおかげで、どこにも怪我はなかったけれど、アリスが笑い転げる下品な声が非常に不愉快でしたわ。
 すぐ傍には、同時に馬から落ちたキルティアの体。走り出してすぐだったからか、とっさに受身を取ったのか、「君ねえ……」などと恨みがましい声を出しているから、たぶん死んではいませんわね。そう安心したとき、
「ぎゃっ!」
 わたくしは思わず悲鳴を上げましたわ。いいえ、悲鳴を上げたのはわたくしの髪。駆けつけてきたレノウが、あろうことか、わたくしの美しい黄金の髪を踏みつけたんですもの!
「キルティ、大丈夫か」
 ほとんど口を動かさずにもごもご喋って、ええい、あなたは牛ですの? おどき! でもわたくしが何か言う前に、キルティアが苦笑して言いましたわ。
「大丈夫だよ、落馬には慣れているから。ずいぶんと久しぶりだけれどね」
「そういえば、キルティは乗馬を習い始めた頃はよく落ちたな。でもその度に、泣くのを必死で我慢して……」
「痛くないよ」
「うん、そう言ってたな。おかげでわかったんだ。キルティが平気な顔で強がりを言うときは、言葉と逆のことを俺がしなくちゃいけないと」
 出ましたわね、幼なじみ攻撃。あなたがたの思い出になど興味はありませんわ。おまけに長い。おどきったら。
 怒鳴りつけようとしたら、レノウが突然キルテを抱え上げましたの。いわゆる、お姫様抱っこ。
「は、離したまえ。ぼくは痛くないと言っているのに」
 ほっ、ようやくレノウの足がわたくしの髪の上から離れましたわ。なんという災難でしょう。でもこれでキルテは失格になりましたわね。
「さあ聖リリィ号、さっそく競走を再開しますわよ」
 ところがそのとき、少し向こうで悲鳴が上がりましたの。キルテの落馬に気づいたものの、その場ですぐには止まれなかったのでしょう、ローロとおでこですわ。その二人に向かって、なんと聖リリィ号が猛烈な勢いで突進していくではありませんの。
「おやめ、聖リリィ号! おいしくありませんわよ!」
 驚いたのか、ローロとおでこの馬は、我を失ってめちゃくちゃに走り出しましたわ。おでこの馬は、馬場の真ん中を突っ切ってあさっての方向へ。ローロの馬は、走路を外れてはいないけれど、とても乗っていられないような速度で。
「止まれ、縦横無尽!」
 その声に反応して、先に止まったのはおでこの馬のほうでしたわ。いなないて棹立ちになり、ぶるんぶるんと何度も鼻を鳴らしてから、やがておとなしくなりましたの。それにしても変な名前ですこと。
 馬にしがみついたおでこは、悲鳴を上げはしなかったけれど、歯を食いしばって蒼白になっていましたわ。あらユーフェ、わたくしはべつに、いい気味だなんて思ってはいませんのよ?
「た、助かりました……ありがとうございます」
「なんの。星神の御許に生まれた人間は皆兄弟。ならば我らはすでに親友、いや、比翼連理の間柄だ。助けるのは至極当然ではないか」
「そんな間柄になった覚えはありません!」
 ヒロクとおでこがわけのわからない会話をしている間にも、ローロの馬はどんどん加速し続けていますわ。最初は何とか手綱を操ろうとしていたローロも、今や振り落とされないようにしがみつくのが精一杯。
 わたくしもさすがに青くなりましたわ。だっていくら血が悪くても、彼女は王妹なんですもの。陛下はああ見えても、二人の異母妹のことはかわいがっておられるみたいだし。
「聖リリィ号、止まりなさい!」
 そのとき、どかっと大地を蹴破りそうな蹄の音が聞こえましたわ。見ると、ローロの暴走馬のすぐ横に、ぴたりと体を寄せている大きな馬がいましたの。乗り手は、赤味がかった黒髪の偉丈夫。スライですわ。
 彼は横からローロの馬の手綱を取ろうとしたけれど、なかなかうまくいきませんの。ああもう、じれったくていらいらしますわね。
 わたくしが地団太踏んだとき、スライは思い切った行動に出ましたわ。なんと、全力疾走する自分の馬から、ローロに向かって跳んだんですの。スライはローロを抱きかかえる格好で、もつれ合って地面に落ちましたわ。幸い柔らかい草の上――というより、そこを狙って落ちたんでしょう。
 それまで硬直していたノトが、ようやく我に返って「ローロ!」と叫びましたわ。いちいち鈍い子だこと。わたくしはもう駆け寄っておりましてよ。
 もつれ合って倒れている二人のうち、先に体を起こしたのはローロのほうでしたわ。どうやら怪我はないようですわね。
「スライ? スライ、大丈夫ですか? スライ!」
 ローロは彼の体を揺すりながら、涙混じりの声で呼びかけるけれど、スライは目を閉じたまま起き上がる気配もありませんの。これはまずいですわ。スライは陛下の叔父で右腕。何かあっては、わたくしも聖リリィ号も咎めを受けるかもしれませんわよ。
 抜き足差し足で馬場から逃げ出そうとしていると、ノトとカノン陛下、ヒロクとおでこ、それにレヴィ様が、ローロの傍に駆け寄ってくるのが見えましたわ。ローロから矛先を変えて走り回る聖リリィ号を、わたくしのあの方とシアンが懸命に止めようとしているのも。
「スライ、お願いですからひとりにしないで」
 ローロがそう言って、とうとう涙を零しましたわ。すると、突然スライが口を開きましたの。目を閉じたまま、人を食ったような口調で。
「ローロが口づけてくれたら目が覚めるんだけどなあ。頬でいいから」
「スライ?」
 慌てて顔を覗きこむローロの灰色の目から、透明な雫がぱっと散りましたわ。なかなかすてきな演出ですわね。わたくしも今度やってみましょう。ぱっ、と。
「気がついていたのですか? 私は本当に心配して……」
「だから、口づけで気がつくんだって。ほら、ローロ」
 そんなことを言っているうちに、いつのまにかローロの涙は乾いたみたいですわね。そういえば、小さい頃にもよくこんな光景を見た気がしますわ。めそめそ泣くローロを、スライが抱っこして冗談を聞かせて。あの頃は、スライが幼女を泣かせたのだとばかり思って呆れていたけれど、実は違ったのかもしれませんわね。
 困惑するローロと、目を閉じて倒れたままのスライ。そのとき、横からべつの声がかかりましたの。聞いた者を凍らせてしまうような冷ややかな低い声は、ローロのものではもちろんありえませんわ。
「気絶したまま口が利けるとは器用ですね、スライ。そんな気つけの方法があるとは初耳ですが」
 お兄様、とローロが呟くのと同時に、スライは弾かれたように身を起こしましたの。そしてすぐに、頭にレヴィ様の鉄拳をくらいましたわ。その間に、聖リリィ号を諦めてこちらへやって来ていたシアンが、恭しくローロの手を取って立たせましたの。
「お怪我はありませんか、ローロ殿下」
「ありがとうございます、シアン」
 そういえば、愛妾だったローロの母を保護していたのは、シアンの父でしたわね。二人が微笑みを交わし合ったとき、離れたところでローロとスライの馬がぶるんと鼻を鳴らしましたわ。すっかり落ち着いたようですわね。
 わたくしはいくらかほっとして、視線を転じました。残る問題は、まだ興奮の冷めない聖リリィ号だけですわ。わたくしのあの方が宥めようとしているけれど、どうにもうまくいかない様子。
 こうなったら、あの禁断の言葉を口にするしかないのかしら。でもユーフェ、聖リリィ号をひどく傷つけるに違いないあの言葉を口にするのは、心優しいわたくしにはどうしてもためらわれるのですわ。
 わたくしがまごまごしているうちに、聖リリィ号はぎらりと目を光らせ、急にぎゅんと体の向きを変えましたの。彼のどこにこんな機敏さがあったのかしら。聖リリィ号がまっすぐこちらに駆けてくるので、一番に逃げたわたくしを筆頭に、他のみんなも散りましたわ。
 ところが、ここでもノトは壊滅的な運動神経を披露したんですの。固まったまま動けず、ただ目を見開いて突っ立っているなんて。どんどん大きくなる聖リリィ号。ノト様、と叫ぶおでこの悲鳴めいた声。
 聖リリィ号に跳ね飛ばされると思った瞬間、すんでのところでノトを助けたのは、やはりカノン陛下でしたわ。マントの中に包みこむようにして、ノトの体を抱き寄せたんですの。痩せっぽちのノトは、陛下にすっぽり包まれてしまいましたわ。
 でもまだ油断はできませんのよ。目標を見失った聖リリィ号は、荒い鼻息を噴き出しながら、かっかっと蹄で地面を蹴っていますわ。
 陛下は聖リリィ号を刺激しないように、ノトをマントの中に抱いたまま、そろそろとその場を離れようとなさいましたの。その黒い目に、じっと聖リリィ号を捉えて。誰も手が出せない中、陛下と牛の息詰まる攻防でしたわ。
 二人が後ろ歩きで走路の外に逃れ、レヴィ様用の椅子のところへたどり着いたときには、全員が大きなため息をついたんですのよ。わたくしは汗びっしょりでしたわ。
 ところがそのとき、聖リリィ号が再び走り出そうとするそぶりを見せましたの。ノトと陛下の後ろには、レヴィ様の椅子と馬場を囲む柵。二人が危ない!
 もうためらってはいられませんでしたわ。聖リリィ号、あなたを傷つけることになるけれど、あなたがばかな行動を取るからですのよ。わたくしは心を鬼にして、この禁断の言葉を叫びますわ。
「肉にしますわよ!」
 そのとたん、聖リリィ号はぴたりと動きを止めましたの。それどころか、降参するようにぺたんと四肢を折ってしまいましたわ。
「ふう……まったく、これだから牛は」
 ねえユーフェ、このときのみんなの沈黙は、いったい何だったのかしら? わたくしのみごとな手腕に、拍手喝采が起きてもいいと思いませんこと? ところが、ややしておでこが大声でこう叫んだのですわ。
「リィリエッタ! あなたはなんて度し難い人なのですか!」
 なぜわたくしが怒鳴られなければなりませんの?
 不愉快なわたくしの視線の先で、陛下がレヴィ様用の椅子に腰かけられるのが見えましたわ。陛下の左腕に抱えられていたノトは、そのまま彼の左の腿の上に、横向きに座りましたの。腰が抜けたみたいになって、呆然としているようですわね。
 おでこの不条理な叱責がうるさいので、わたくしはそちらへ逃げることにしましたわ。陛下の前なら、さすがにおでこもがみがみ言わないでしょう。
 近づいていくと、春風に乗って陛下のお声が聞こえてきましたわ。さっきの冷ややかな口調が嘘みたいな、とても穏やかなお声。ちらりと目を動かしたのは、ご自分の動かない右腕をご覧になったのかしら。
「君を抱き上げて柵の外へ下ろせたらよかったのだが、怖い思いをさせてすまなかった」
 ううん、というようにノトはかぶりを振りましたわ。いやいやするみたいな、子どもじみた動き。だいたいあの子には、大人の女性が当然身につけるべき品がありませんのよ。
「カノンのマントの中がいい。安心する、一番」
「そうか。では不安なときにはいつも言ってくれ。私が君を抱きしめるから」
 陛下はノトの髪に挿した花を、左手でそっと直されましたわ。春の陽よりも優しい眼差しを注ぎながら。
「なんだかあほらしいですわね」
 わたくしはなぜかそんな気分になり、二人の傍にいくのをやめましたわ。
 黄金の髪を勢いよく振って、くるりと踵を返したとき、急に「うっ」という声が聞こえましたの。何かと思ったら、傍にわたくしのあの方がいらっしゃるではありませんの。彼はなぜか鼻を押さえ、わたくしの豪奢な黄金の巻き毛を見ていましたわ。美しさのあまり鼻血が? そんなの、この月光の君には似合いませんのに。
「リリィさん、お怪我はありませんでしたか?」
「あら、どうしてわたくしが怪我を?」
「え、最初にリリィさんも牛から落ちましたよね?」
 そんなことすっかり忘れていたけれど、わたくしはすかさず「ああっ」と声を上げましたわ。腕を押さえ、あの方にもたれかかりましたの。このくらいの嘘は、乙女のたしなみの一つですわよね。
「足を痛めてしまったみたい。痛くて歩けませんわ」
「腕ではなく?」
「腕も足もですわ!」
 わたくしは慌てて、かぼちゃズボンをぱふっと叩きましたわ。
「ああ、頭も痛いような……」
「頭は悪いのでしょう」
 何ですって、おでこ。わたくしが言い返し、おでこがさらに余計なことを言い、わたくしたちは口論になりましたの。そしてなんだかうやむやのうちに、競馬大会は幕を閉じてしまったのですわ。
 ああユーフェ、笑ってくれてかまいませんわよ。わたくしはまたも、あの方の名前を聞き忘れてしまったのですわ。勝利の冠ももらえなかったし、骨折り損とはまさにこのこと。
 ちなみに肉にされることに怯えた聖リリィ号は、すっかりおとなしくなっていますわ。暴走の原因? さあ、わたくしがキルティアのマントを引っ張って落としたことに驚いたのだとか、強く脇腹を蹴りすぎたのだとか、そんな理由ではないと確信していますけれど。
 とにかく、今日はすっかり疲れてしまいましたわ。おやすみなさいユーフェ、また明日。

 ――はい、ここまで。もうこれ以上は見せてあげませんわ。もっとわたくしのことが(もしかしたら脇役のことが)知りたければ、「横柄巫女と宰相陛下」シリーズを読むしかありませんわよ。
 あら、それでも足りないですって? わたくし、情熱的な方は嫌いではありませんのよ。わたくしに応援や愛の言葉を伝えたいというなら、さあどうぞ、遠慮なくおっしゃって。陛下やノトやその他の有象無象に対する託けでも、許してさしあげてよ。多くを持つ者は、持たざる他者に寛容なのですわ。
 ああ、ちょっとだけ後日談を教えてさしあげますわね。わたくしの発案した、かぼちゃ型ズボン。あれがこの頃、宮廷で大人気ですのよ。
 ほら言ったとおりでしょう。新しいものを凡人は理解できず、遅れて天才の後を追うのですわ。
 わたくしの前に道はなく、わたくしの後ろに道はできる。
 だって、わたくしはリリィですもの!