NOTTE(ノッテ)―異端の十字架―
弓束しげる

「――闇へ還れ!」
 少年の投げたロザリオが、涼やかな音を立てて空(くう)を舞う。
 放たれた鳥のように自らの鎖を広げたロザリオは、大聖堂の奥にある、見上げるのもひと苦労するほどの大きなステンドグラスの斜光を受けて彩りを散らし、輝いた。
 まだ心なしか繊(せん)細(さい)さの残る少年の指が、体の前に大きな光の文字を描き出す。それに呼応するかのように、ロザリオは少年に相対していた『かき集められた暗闇』の首元にかけられて、静かに、厳かに輝きを増していく。
「神の御(み)名(な)の下に命ずる! 悪魔よ、闇へ還れ!!」
 少年は再び一喝し、己が手で描いた文字に力強く両手をかざした。
 ばっと光が浮く。足元から風を受けたように、黒の聖職服が、白銀の髪が舞い上がる。
 目の前で牙をむいた『暗闇』が、耳をつんざくような断(だん)末(まつ)魔(ま)を上げ――、
「おノれェえッ、えク、ソ、シす……ッ」
 そうして吐き出されようとした呪いの言葉が、最後まで紡がれる事は許されなかった。
ぱんっと闇が弾けた。
 闇を散らしたロザリオがくるりと回り、少年の受けた手の平に舞い戻る。しゃらんと鎖のこすれ合う細やかな音は、心許ないほどに広い大聖堂の中でも、静まり返った空気の中によく響いた。
 直後に訪れる、一瞬の静(せい)寂(じやく)――。
 一拍を置き、次いでその場に立ち合わせた人々の耳に届いたのは、少年の前の木椅(い)子(す)に座している『被害者』の乱れた息遣いだった。そして、乱れた中でも深く漏(も)らされた、解放にともなう安(あん)堵(ど)の吐息。
「あ……ああっ、よくぞご無事で!」
「具合はいかがですか!」
 人々は少年の脇をすり抜けて、一目散に『被害者』の元へと駆け寄っていった。
 それらを見るでもなく見流した少年は、静かにロザリオを胸元にかけ、すらりと伸びたその足を折り曲げて膝(ひざ)をつく。
 右手を左の胸元に押し当てると、心なしか、心臓がいつもよりも早い脈を打っていたように感じられた。
「……畏れながら、お話しさせていただきたい事が、あるのですが」
 教皇様、と――。
 ひざまずき、目上の椅子に座る初老の男性を呼んだ少年の声は、高くも低くもなく澄んでいて、蠟(ろう)燭(そく)に灯された光のように落ち着いていた。

   + 序 +

 ビギッ――と、まだ新しいはずの重厚な木造り椅(い)子(す)が、石造りの小部屋の中でおかしな音を響かせた。
「出せっ、ここかラ出セッ!」
 大の成人男性でも動かすのが大変なはずの重い椅子は、けれどそこに縛(しば)られているただ一人の女性の力によって揺すぶられ、ガン、ガンッ、と荒々しく石床に打ちつけられている。
「出せェッ、出してクレ!!」
 女性は、さながら獣にでも変(へん)貌(ぼう)してしまったかのように歯をむき出しにして、喉(のど)が潰(つぶ)れたようなしゃがれた悲鳴を張り上げた。普段の優しい笑顔も、穏やかな声(こわ)音(ね)もすべて失って、長く艶やかな白金色の髪を振り乱しては繰り返し苦しげに椅子を揺らし、暴れる。
「ここカら出セ、苦しイッ、出しテクレ!」
「母さん、母さんッ!」
 そんな女性――村の教会堂の一室に閉じ込められている『自分の母』に向かって、イリスは必死に言葉を投げかけた。
 けれど母は、いくら呼びかけてもイリスの言葉に答えてはくれなかった。鍵がかけられた扉、その上部にある格子窓を覗(のぞ)いても、母はイリスを呼び返すどころか、睨(にら)みを寄越しては部屋から出せとわめき、あるいは「殺す」などの恐ろしい罵倒を浴びせかけてくるばかりだ。
「母さんッ! ねえ、母さん……!!」
「イリス、やめなさい、今はいけない!」
 強く腕を引かれて、イリスは力に抗えず後ろを振り返った。母と同じ白金色の髪が、廊(ろう)下(か)の燭台の灯りに反射して目の端を揺れる。
 見上げると、背後に立っていた濃紺の修道服を着た男性が、苦悶した様子で首を振って、「今はいけない」と同じ言葉を繰り返した。
「イリス、君の母さんは悪魔に憑(つ)かれているんだ! 不用意に話しかけるのはいけない!」
「でも……ッ! 母さんが苦しそうなの、お願い修道士様(せんせい)、母さんを助けて下さい、お願いします!」
「無茶を言わないでくれ、イリス! 君ももう十四になったんだ、解っているだろう。修道士は神様の御力は持たない、エクソシストではないんだ! エクソシスト様は大きな都にしかおられない。私には悪魔を祓(はら)うなんて、できないんだよ!」
 修道士様の言葉に、イリスはぐっと唇を嚙(か)み締めてもう一度扉を振り返った。
 いつもなら修道士様の執務室として使われているその部屋の奥では、今でも母が……いや、母に取り憑き、村の人々によって取り押さえられた悪魔が、力の限りに暴れてはガタガタと重い椅子を揺らしている。
 その音に、イリスはとにかく不安と恐怖を煽られるばかりだった。
 あんな椅(い)子(す)を動かすほどの力なんて、母は持っていないはずなのだ。あのままでは椅子が壊れるばかりか、母まで壊れてしまうのではないかと……嫌な想像が何度となく脳裏に浮かび、キリキリと心の臓を締め付けていく。
「イリス、落ち着こう。落ち着くんだ。先刻、村長が中央都に早馬を出して下さったから。今は待つしかない、エクソシスト様が到着されるまで、私達は待つしかないんだよ」
「でも……っ」
「大丈夫、教会堂には神様のご加護が授けられている。悪魔が苦しんでいるのだってそのおかげなんだ。大丈夫、大丈夫だよ」
 修道士様は、イリスにと言うよりは、まるで己自身に言い聞かせるかのように何度も「大丈夫」と繰り返した。
 修道士様も不安なんだ……。自分の震える呼吸を聞きながら、イリスは今更になってそんな事に気付いてしまう。この村で、初めての悪魔憑(つ)きが現れた――その事実が、大人でさえうろたえさせてしまうのも、仕方がないのかもしれなかった。
 ――神聖国ベネデット。
 大陸の南西にあるこの小国は、樹立されて以来ずっと国をあげて創世神を信仰している文字通りの神聖国だった。王家が敬虔な信仰者である事は勿論、信仰は民にとっても当然の事であり、神様に感謝の祈りを捧げる事は、そのほとんどが義務とさえ思わないほどの『日常』の一つとなっている。
 けれど反面、そうして人々が神様を敬い、祈りに救われれば救われるほど、神話時代に神様に反して堕天したという悪魔達は、人を妬み、隙を見ては人を闇に堕とそうとして……。
 そこでイリスは、はたとした。
「修道士様(せんせい)……母さんが、悪魔に憑かれたのって……どうしてですか?」
「え……?」
「だって、悪魔って神様を裏切った人や、体や心が弱っている人に憑くんでしょう? 母さんが悪魔に好かれるはず、ないもの……っ」
 イリスは断固として訴えた。当然だ。
 だってイリスの母は、村でも評判なくらいの清廉な人物だった。いつも元気で明るくて、曲がった事が大嫌いな、誰にでも平等に優しい人。父親のいないイリスを、何の不平不満も漏(も)らさず女手一つで育ててくれた人でもあるし、普段だってみんなに頼られるくらいの働き者で、当然、神様への日々の感謝も礼拝も一日だって怠った事はなかった。それは娘のイリスが誇らしく思うばかりか、村の誰に訊いたって『立派な女性だ』と答えが返ってくる――それほどの、素敵な女性。本来ならば、悪魔が最も嫌う性質の人のはずで……。
「イリス……君の母さんは、神様にお認めいただいた存在なのかもしれない」
「えっ? 母さんが、神様に……?」
「悪魔はそういう人も好むらしいのだ。私も、村の人々も、きっとそれに違いないと思っている。ただ恐ろしいのは……悪魔達が、むしろそういう人をこそ全霊を懸けて殺そうと……その人を辱め、殺す事で、神様を悲しませようとすると、そう言われている事で……」
 青ざめた修道士様の言葉にイリスは息を飲んで、ぎゅっと両の手を握り合わせた。
 母が神様に愛された――本来なら光栄であるはずのその事を、こんなにも恐ろしく思ってしまうなんて自分は罰当たりなのだろうか。でも、母が苦しんでいるのを見ながら、ただただ過ぎていくだけの時間に、イリスの胸は押し潰(つぶ)されそうになる。
 ……知らなかった。待つばかりで何もできないという事が、これほどまでに悔しくて、つらくて、怖い事だったなんて!
 考えた時、不意に聖堂へと続く通用扉がガチャリと音を立てたので、イリスはびくりと肩を跳ね上げた。
「イリス!」
 見れば、村長の奥さんが慌(あわ)てた様子でこちらに駆け寄ってくる。
「お、おばさん……? 何を、慌てて……」
「イリス、大変だよ! 先日の大雨で大街道が崩れっちまったらしくて! これじゃどんなに早くても、エクソシスト様が村に来られるまで二週間はかかっちまうよ!」
 その言葉にイリスは、さっと血の気が引く音を聞いた気がした。
「う、そ……っ、おばさん、だって、早ければ一週間でって……!」
 ヒャヒャヒャ、と――混乱する三人の間に割って入るように、耳に障る、しゃがれた下品な笑い声が聞こえた。
 イリス達はそろって執務室に目を向けた。扉にすがりつくと、部屋の奥に縛(しば)られたイリスの母は……悪魔は、ニタリと歯をむき出して笑い、肩を揺らしている。
「もらった、こノ女ハもらっタ! 神ヨ、貴様の子ヲまた一人食ろうてヤったわ!」
 イリスはとうとう我慢ができなくなって、その場から走り出した。
「イリス!」
 呼ぶ声も聞かずに廊(ろう)下(か)を抜け、聖堂に続く扉を勢いのままに押し開ける。
 誰もいない小さな聖堂は、祭壇の奥にあるステンドクラスからの光を受けて、きらきらと淡いきらめきを散らせていた。かかげられた十字架やくすんだ木造りの礼拝椅(い)子(す)、古びた石壁に乱反射したその光は、壁にかけられた燭台の灯りと相まって、まるで母に悪魔が憑(つ)いている事など夢であるかのような、いつもと変わらない優しさで聖堂全体を包み込んでいる。
「神様……ッ!」
 イリスはそんな聖堂の祭壇の前に膝(ひざ)をついて、強く両手を胸の前で組み合わせた。
「神様、母さんを助けて下さい、お願いします! 死んじゃう、母さんが死んじゃう……ッ!」
「イリス、まだ諦めちゃいけない! 祈るにも、しっかり気を持たないと! それでは悪魔の思うつぼだぞ!」
 後を追いかけてきた修道士様に、励ますように肩を揺らされた。
 それでもイリスは首を振り、「だって!」と修道士様にしがみつく。
「だって、一週間でも危ないかもしれないって修道士様(せんせい)、おっしゃったじゃないですか! 嫌……母さんが死んじゃうなんて、絶対に嫌ぁッ!!」
 それまでずっと我慢していた涙が、せきを切ったようにあふれ出してしまった。
 わっと、声も我慢できずにイリスは泣いた。泣いたって母が救われるわけじゃないのに、それでもイリスには何もできなくて、泣く事しかできなくて、涙を流した。
 追ってきた村長の奥さんも、慰めるかのように背を撫(な)でてくれたけれど、それさえ何の気休めにもならなかった。ただ通路の奥から聞こえてくる、大好きな母の口から発せられているとはとても思えないような下卑た笑い声だけが、耳を通してイリスの頭を、胸を、引っかき回すように反響する。
 ――ところが、そんな時だった。
 ギィ、と……ふと場違いなほど静かに、丁(てい)寧(ねい)に、教会堂の正面扉の開かれる音がした。
 途端に何故かふつりと、悪魔の笑う声が聞こえなくなってしまった。イリスはしゃくり上げながら何が起きたのかと顔を持ち上げた。見れば、にじんだ視界の中、修道士様と村長の奥さんの二人ともが、聖堂の正面扉に目を向けている。
 何、どうしたの……?
 イリスも二人の視線を追うように首を回した。
 ――扉の前に立つ、ぼんやりとした人影が目に入る。
「……エクソシスト、様……?」
 そこで修道士様が、呆(ぼう)然(ぜん)とした声を上げた。
 イリスは「えっ」と弾かれたように身を乗り出して、目をこすった。ぼやけた視界を明瞭にして、もう一度、正面扉に目を凝らす。
 入り口に立っていたのは、一人の小柄な少年だった。イリスと同い年くらいだろうか。けれどイリスと大して背丈も変わらなさそうで、女の子かと見間違うほどの華(きや)奢(しや)な立ち姿だ。
 月の光をかき集めたかのような白銀色の髪が、開けられたままの扉から入った風にふわりと揺らされた。髪色と相反する漆黒の服は、容姿の幼さとは裏腹に落ち着いた印象を抱かせるけれど、それでもつり上がり気味の大きな瞳はやはり子供のそれで、きょときょとと聖堂を見回している少年の向く角度によって、赤紫色に見えたり青紫色に見えたりと、少し不思議な輝きを覗(のぞ)かせている。
 ――エクソシスト様? あの子が?
 思った時、少年が無言のままに歩み寄ってきたので、イリス達は慌(あわ)てて立ち上がった。
 目の前で立ち止まった少年を見ると、やはりその背丈はイリスと変わらない。
「……悪魔の気配が、したんだけど」
 少年の形のいい唇から差し出された声は、声変わりさえまだなのか、高く透き通っていた。
 イリスが困惑の目を向けると、少年は訝しむように眉(まゆ)を寄せて首をかしげた。
「……泣いてるの?」
「あの、エクソシスト様、ですかっ?」
 修道士様が、藁にもすがるといった面(おも)持(も)ちで身を乗り出した。けれど村長の奥さんが水を差すように、イリスが思った事と全く同じ事を、何の臆面もなく口にする。
「修道士様、子供ですよ?」
「……まあ、子供には違いないですけど」
 それを受けた少年は、少しばかり気を損ねたようにムッと口元を歪めてしまった。
 ただ、そんな表情を見せたのも一瞬の事で、少年はすぐに改まった様子で背筋を伸ばすと、右手を左胸に添え、とても大人びた佇まいで恭しく頭を下げる。
「エクソシスト協会、北都支部の司教……ルカ・モラヴィアと申します。こう見えても十五です。この度、中央都本部への異動が決まり、旅をしている道中にありました」
「司教様!」
 わっと、浮いた声を上げた修道士様が、何かにはやるようにイリスの肩に手を置いた。
 わけが解らず、イリスは困惑したまま修道士様を見上げた。すると修道士様は「イリス、神様への祈りが届いたんだよ!」と強くイリスの肩を揺り動かす。
「司教様は、エクソシスト様の中でも最上の位階だ! 初等教育で教えたろう、司教様なら人に憑(つ)いた悪魔も祓(はら)って下されるんだよ!」
 イリスは一度ゆっくりと目を瞬かせ、それから改めてルカと名乗った少年に目を向けた。ルカは「その通り」と修道士様の言葉に頷(うなず)いて、イリスを見上げながら、もう一度こてんと首をかしげて見せる。
「教わった事あるでしょう? 太陽と聖十字の紋章。協会エクソシストの証だよ」
 とんとん、と指差された少年の左胸には、言われた通りの紋章(クレスタ)が描かれていた。
 イリスは息を飲むような小さな悲鳴を上げて、とっさに口元を押さえた。神様、と吐息だけで呟(つぶや)くと、体が小刻みに震え出し、一度は止まった涙が再びあふれ出す。
「あ……お、おねが……ッ、お願いします……! 母さんを、助けて……ッ」
 どうにか言葉にした声は涙に揺れて、とても明確なものにはならなかった。けれど、そんなイリスの言葉に頷いたルカは、ほんの一瞬だけふわりと薄い微笑(ほほえ)みを見せてくれる。
 それからその瞳は、キッと通用口に向けられた。
「あっち、だね?」
 イリスはこくこくと首を振り、もう一度かすれた声で「お願いしますッ」と懇願した。

 執務室に戻ると、悪魔は先刻までの罵倒と暴挙が嘘だったかのように動きを止め、口を閉ざして静まり返っていた。身内の助けが必要だと言ったルカの言葉に従って執務室に入ったイリスは、あまりの静けさに息詰まりを覚え、ごくんと生唾を飲み込んでしまう。
「母さん、気を失ってるの? 大丈夫なの……?」
「大丈夫、まだ充分に間に合うよ」
 他人がいては逆に危ないから、と修道士様達を聖堂に残るよう言い置いたルカは、イリスに「それ以上近付いちゃダメだよ」と釘を刺して、一歩、前に歩み出た。そうして首元に下げていたロザリオを、しゃらりと外して手に握る。
「……イリス……」
 その瞬間、母の口からとてもか細い声が聞こえてきた。
 はっとして目を向けると、苦しげに眉(まゆ)を寄せている母が、悪魔に憑(つ)かれて以来、初めて真っ直ぐにイリスを見てくれているではないか。
 母はまた「助けて」と、苦しげにか弱い声を漏(も)らした。
「母さん!」
「まだ近付いちゃダメ!」
 けれど駆け寄ろうとしたイリスの腕は、ルカに強く引き止められてしまった。
「あれはまだ悪魔だ」
「でも今、母さんの声が!」
「あいつらはずる賢い。僕が……エクソシストが来たと見て、消えたふりをしてるんだ」
 言って、ルカは胸の前で手を動かし、その指先で何かの文字のようなものを描いた気がした。何を描いたのかイリスには見えなかったけれど、ルカがその場に手をかざすと、イリスの体が突然、見た事もないような淡い光に包まれる。
 イリスは思わず「わっ」と声を上げてしまった。
「大丈夫、神の加護だ。君を護ってくれる。それより、いい? 僕が合図したら、君は母さんを呼んであげて。その時は側に寄ってもいいから。解った?」
 ばくばくと、緊張に大きな音を立て始めた心臓を押さえながら、イリスは頷(うなず)いた。
 それを境にルカは表情を引き締めると、外見の幼さはどこへやら、逆にイリスと一つしか歳が変わらないとはとても思えないような、凜(りん)とした雰(ふん)囲(い)気(き)をその身にまとわせた。
「――汝に問う。名は」
 ルカは、高く透き通った声で悪魔に問いかけると、左手のロザリオを胸に当て、右手でまた何かを描いて、空(くう)にかざした。今度は母の足元に、淡い光の円が表れる。
「や……ッメロ、やめロ!!」
 母の口から再び、先刻まで散々聞かされたガラガラの枯れ声が吐き出された。
「神に従ウダけの下僕ガ! この女ハ返さナイ、返サなイ!」
「汝に問う、名は!」
 ルカがまた何かを描いた。悪魔が一層苦しみ出して、「ギャァア」と明確な悲鳴を上げる。
「ヤめッ、ヤメろぉ!!」
 椅(い)子(す)が再びガタガタと揺らされた。それでもルカは厳しい表情で母を、悪魔を睨(にら)み据えたまま、何度も指を空(くう)にすべらせて手をかざしては、悪魔に名乗れと命令する。
 するとしばらくして耐え切れなくなったのか、悪魔は「オディオ! オディオ!」と何かの呪文のようにその名前をわめき散らし始めた。
「オディオ!」
「オディオ! その体はオディオの物ではない! オディオ、その名に縛(しば)られ姿を現せ、神の御(み)名(な)の下に命ず、闇に還れ!」
 ルカが腕一杯に何かを描くと、母の足元に輝いていた光の円から、ばっといくつもの光の茨のようなものが伸びてきて母の体に絡みついてしまった。けれどそれは、まるで母から何かを引き剥がそうとするかのようなうねりを見せて、上へ、上へと持ち上げられていく。
「ひゃ……ッ!」
 イリスは思わず小さな悲鳴を上げた。母の頭上にかかげられていく茨の中心に、闇の粒がいくつも集まって出来たような、歪な人影が見えたのだ。
 あれが悪魔……!?
 あまりのおぞましさに、イリスは一瞬、瞬きも、呼吸さえも忘れてしまった。闇の粒はそれぞれが生きた小虫のようにうねり動き、跳ねている。悪魔とは意思ある闇の集合体だったのかと、恐怖と混乱の狭間で、妙に冷静な思考が頭の隅をかすめていった。
「イリス!」
 その時、大きな声でルカに呼ばれた。
 驚いて、はっと呼吸を取り戻す。目を向けると、ルカは悪魔を睨(にら)み据えたまま「行って!」とイリスに言葉を投げかけた。
 イリスは急いで母の元に駆け寄った。母の膝(ひざ)元にすがりつき、「母さん! 母さん、わたしだよ、解る? 母さん!」と、何度も何度も母を呼んだ。
「……イ、リ……」
 今度こそ間違いなく、か細くもあたたかみの感じられる母自身の声が返された。
「母さん!!」
 必死に呼んで、何度も、何度でも繰り返し呼んで、イリスはぎゅっと母の手を握った。
 すると母は弱々しく、それでもしっかりとイリスの手を握り返してくれる。
 母がイリスの手を取ってくれたのと、頭上から「ギャァアア!!」と頭の芯を叩くような断(だん)末(まつ)魔(ま)が聞こえたのは、ほとんど同時の事だった。
 イリスはびくりと肩を揺らして、あごを持ち上げた。
「オディオ、悪魔よ! 闇へ還れ!」
 後方からしゃりんと鎖の揺れる音が響き、悪魔に向かってロザリオが投げられた。ロザリオはまるで自らが生きているかのようにくるりと回り、悪魔の首元にかけられる。
 そうして、パンッ――と。
 ――決して音が鳴ったわけではなかった。けれど、さながらシャボン玉が割れた時みたいに光が弾け、闇が霧散して、悪魔が光の中に溶け消えていくのがはっきりと見て取れた。
 イリスは言葉を失った。頭上に絡まっていた光の茨が、そのまま光のかけらとなってイリス達の頭上にちらちらと舞い降りてきた。しゃらりと、宙に浮いていたロザリオは、また生き物みたいに自らくるりと回って見せて、そのままひとりでに後方に戻っていく。目で追うと、それはルカの手におさまってから、ようやく重力に従って鎖を垂れさせた。
 ほっと、安(あん)堵(ど)の息を漏(も)らしたルカの姿が眩しいくらいに輝いて見えて、イリスは自然と肩から力が抜けていくのを感じた。
 目に映るルカは、まるで天使(アンジェロ)のような雰(ふん)囲(い)気(き)をその身にまとわせていて――。
「……イリ、ス……」
 呼ばれて、イリスは髪を引っ張られたみたいに勢いよく振り返った。
 見上げると、椅(い)子(す)の上でぐったりとしている母が苦しげに眉(まゆ)を寄せ、その目に涙を浮かべながらもイリスをじっと見つめている。
「母さん……? 母さん、なの……?」
「もう大丈夫だよ、悪魔は消えた」
 背中からかけられたルカの言葉に、イリスはわっと母に抱きついた。抱きついてから、母の体が縄でがんじがらめに縛(しば)られていた事を思い出す。急いでそれをほどきにかかる。
「母さん……ッ、母さん!」
 ルカにも手伝ってもらいながら、震える手でどうにかそれらをほどき、ようやく終わった時にはイリスの視界はすっかり涙でぐちゃぐちゃになっていた。
 悪魔が暴れたせいだろう、母の手足に残されたたくさんの傷には、イリスの涙がぽたぽたと落ちて濡れてしまっていたけれど、それでも母は痛みに顔を歪める事なんてなく、自由になった手を弱々しく持ち上げて真っ先にイリスを抱き寄せてくれた。
 イリスも母の背に手を回し、ぎゅっと強く、あたたかな胸にしがみつく。
「母さん……ッ!」
「イリス、ごめんね……心配かけちゃって、ごめんね。ありがとう……」
 ひどく懐かしいような、優しい声。イリスは首を振り、存在を確かめるように母の顔に触れた。母はそんなイリスの涙を、まだ少し震えの残る手で拭ってくれる。
 その母の顔には、いつも見る快活な笑みではなく、心から安(あん)堵(ど)したような、心から癒されたような、そんなやわらかくて穏やかな微笑(ほほえ)みが浮かべられていて……。
「あ……」
 イリスは驚いた。
 何て綺(き)麗(れい)な……これまでに見た母の笑顔の中でも、一番の――。
「……エクソシスト様、本当に、本当にありがとうございます」
 母は、自身の目元に浮かんだ涙も拭い取ると、弱々しいながらもしっかりとした口調で、イリスの後ろに立つルカに感謝を述べた。
 イリスもはっとして、改めてルカを振り返る。勢いよく頭を下げて母と共に感謝した。
「いいえ。あなたに神のご加護があったればこそですから……」
 静かに答えてくれたルカは、ところがふと何かを思い出したように「あ、そうだ」と右手で軽く左の首元を引っかく仕草を見せた。そうして聖職服の上衣の胸元から、一つの石を取り出す。それをおもむろに「どうぞ」とイリスの母に差し出してくる。
「これを、今後は肌身離さず持つようにして下さい」
「あ、それは護(まも)り石(いし)……ですか? あの、申し訳ありませんが、高価なものなのでは……」
「高価? 僕は聖職者です、その事に自分で誇りを持っています。ですからこれは、僕からあなたに差し上げる『ただのお守り』ですよ」
 ルカの言葉に、イリスと母はお互いにぱちくりと目を合わせてしまった。
 けれどそうしている間に、ルカは改めて「はいどうぞ」と、母の手にその親指大ほどの石――水晶玉を握り込ませてくれる。一見すると何て事のない水晶のようだったけれど、覗(のぞ)き込めば、それは玉の中心がほんのりと光り輝いているようにも見える綺麗な石だった。
「その護り石には、教会堂にある結界と同じ働きを持たせています。あなたは神に愛された人だ、放っておけば、また悪魔達があなたを手に入れようとするでしょう。ですから……」
「えっ、母さんまた憑(つ)かれちゃうの!?」
 イリスは仰天した。
 そんなの嫌! と叫んだ大声に、けれどルカは一瞬ばかり目を丸くして、すぐにハハッと笑い声を上げた。初めて見たルカの本当の笑顔は、やっぱり少し、幼く見えて。
「大丈夫だよ、その石がイリスの母さんを護るから。自分で言うのも何だけど、僕、力は強いんだよ。この歳で司教の叙(じよ)階(かい)を受けたのは、僕が初めてなくらい。他の司教達って、言っちゃえばおじいちゃんばっかりだしね。若い分、力の効き目も新鮮だと思うよ?」
 ルカはにやりと悪戯っぽく口の端を上げて、そんな事を言った。
 一拍を置いて、今度はイリスの方が思わずアハハと声に出して笑ってしまった。聖職者様なのに、何てあけすけな言い草だろう!
 笑っていると、母には「こら、イリス」とたしなめられてしまった。けれどルカは「いいですよ」と首を振って、イリスに「ようやく笑ってくれたね」と笑顔をくれる。
 変わらず少し悪戯っぽい笑みではあったけれど、それに何故かどきりとした。
 イリスは「あ」と吐息のような短い声を上げてしまう。とっさに何と返せばいいのか解らなくて、視線を左右に泳がせた。
「じゃ、僕はこれで」
 そこでルカが急にあっさり別れを言ったものだから、イリスはまた「えっ」と声を上げた。
「ま、待って、そんな、せめて一晩くらいこの村に……お礼だって、まだ何も」
「少し急ぐんだ。……あ、数日はあまり動かず、必ず療養して下さいね。悪魔に相当な体力と精神力を奪われているはずですから」
 隣で立ち上がろうとした母を、ルカが先んじて制してくれた。
「今はまだ立てないでしょうし」という言葉を受けて、イリスも母に目を向けると、母はルカの言葉通りの様子で、少し困ったような顔をして座ったままに深く頭を垂れる。
「何のお礼もできず……申し訳ありません。本当に、ありがとうございました」
「いいえ、それが僕達の仕事ですから。それじゃあね、イリス」
「あ、あのっ! 待って、ルカ司教! ……様っ」
 踵(きびす)を返したルカをとっさに呼び止めて、呼び止めてからどう呼べばいいのか解らなくなって、イリスは少し不自然に敬称を言い足してしまった。苦笑されてしまい、「ルカでいいよ」と言われたけれど、イリスはふるふると首を振り、口を開く。
「あの。その……わ、わたしでも、エクソシストになれますか?」
「イリス!」
 ところが、これにはルカよりも、むしろ隣に座っていた母に驚かれてしまった。
 ルカはと言えば、何度か目を瞬かせ、考えるように「んー」と視線を斜めに上げる。
「全員が全員、なれるわけじゃないかな。エクソシストになる為には、条件があるから」
「条件?」
「神気(アウラ)を持つ事。聞いた事はあるでしょう? 神の力を借りる事の出来る力。これは先天的に授かっている場合と、洗礼を受けて初めて授けられる場合があるんだけど……見たところ、君は今のところないみたいだから、協会で洗礼を受けてみないと解らないかな」
「あ……」
「……なりたい? エクソシスト」
 その問いに、イリスは何度か首を縦に振った。
「結構しんどいよ? 女性のエクソシストはほとんどいない。あと、相当怖い悪魔もいる」
 最後の一言には、さすがに少しばかり怖気付いてしまった。けれど、それでもイリスはぎゅっと自分の手を握り締めて「それでもなりたい」と口にする。
「もし、また母さんが憑(つ)かれてしまっても……わたしがエクソシストだったら、今度は自分でも母さんを助けてあげられるよね? それにわたし、何もできないっていう事が、あんなにも怖い事だったなんて全然知らなかったの。……泣くだけなんてもう嫌だよ。誰にも、あんな思いして欲しくない……」
 しゅんと肩を落とすと、ルカは「へえ」と感心したような、あるいはまったく気がないような、そんな曖(あい)昧(まい)な相(あい)槌(づち)を打った。
 イリスはその事を意識する前に「あっ、でも」とさらに言葉を足した。
「それだけじゃなくてね、さっきの母さんの笑顔を見た時に『あ、もっと見たいな』って、そうも思ったの! 誰かがあんなに綺(き)麗(れい)に笑ったのを見るのなんて、本当に初めてで!」
 言うだけを言ってルカを見ると、ルカはとても真(しん)摯(し)な瞳でイリスを見つめていた。
 射抜かれるような真っ直ぐな視線に戸惑って、イリスは思わず、何か変な事を言っただろうかと口をつぐんだ。笑顔が見たいなんて理由では、あまりにもお気楽すぎたのだろうか?
 けれどルカはしばらくして、ふわりとその目をやわらかく細めてくれた。
「そっか……君は誰かが笑うの、好き?」
「う、うん、大好き! あっ、すごく好き、です」
「そう。うーん、そうか。そんなに強く思ってくれるなら、大丈夫かもしれないね」
「ほんとですか!?」
「あ。いや、ごめん。なれるかどうかは洗礼受けてもらわなきゃ解らないけど」
 思わず「ええっ」と肩を落とすと、「ははっ、ごめん」と笑われた。
「でも……そうだね。イリスが十五歳になって、初等教育を終えてもまだエクソシストになりたいって思えていたなら、その時は中央都の協会本部においでよ。僕が洗礼してあげる」
 イリスはぱっと表情を晴れさせた。窺(うかが)うように、母を振り返る。
 母は話に追いつけないといった様子で、しばらくその目を白黒させていた。
 それでも少しすると「……もう、仕方がないわね」と笑って、いつもの母らしい、快活な表情をイリスに返してくれる。
「いいわ、やってご覧なさい。……その代わり約束よ? あなたが言った事の大切さと大変さを嚙(か)み締める為にも、今日の苦しみと感謝の気持ちは、この先も絶対に忘れない事……」
「母さん! ありがとう!」
 イリスはぎゅっと母に抱きついた。そうしてから改めて背筋を伸ばし、ルカを振り返る。
 同じ目線にあるルカの瞳は、横手の明かり窓からの光を受けて、綺麗な赤紫の色に輝いていた。まるで朝焼けを写したような、とても綺麗な色だ。
 月明かりの髪と朝焼けの瞳を持つその人に、イリスはもう一度、深々と頭を下げる。
「絶対に行きます! 必ず!」
「解った。待ってる」
「はいっ!」

 これはイリスが十四歳になってまだ間もなかった頃の……イリスがまだ、何も知らなかった頃の、純粋な約束――。

   + 一話 +

「お願いします、ご慈悲をいただけませんか」
 かすかに聞こえたその声に、イリスはふと足を止めた。
 ずっしりと抱えていた紙の束を「よいせ」と持ちなおして、声の聞こえた方向に目を向ける。真っ白な石で囲われた広い廊(ろう)下(か)を進んで、少し隙間の開いていた通用扉から外を覗(のぞ)いてみると、もう一度「お願いします」と懇願する、年配の女性の声が聞こえてきた。
「どうにも、気分が悪いのです。医者に行っても、病気ではないと言われたのです」
 そこに立っていたのは、年老いて背中の曲がった、一人の小さなおばあさんだった。
 どうしたのだろうと、イリスは肩で扉を押して、さらに深く外を覗き込んだ。
 するとおばあさんの前に立つ、一人の男性の背中が目に入る。漆黒の聖職服を身に着けた男性だ。おばあさんは、手の平に乗せた小さな水晶玉をその人に差し出しては、何度も「お願いします」と頭を下げている。
「お願い致します、司祭様」
 イリスはそこでようやく、おばあさんが「護(まも)り石(いし)に祝福を込めなおして欲しい」と言っていた事に気が付いた。言葉の通り気分が悪そうにしているおばあさんは、気分ばかりでなく腰も悪いのか、時折とんとんと腰を叩きながら、それでも必死に目の前のエクソシスト司祭に頭を下げている。
 ――ここはベネデット国の中央都、エクソシスト協会本部を有する中央都大教会堂。
 大教会堂は都の最南、小高い丘の上に建てられている。腰の悪いあのおばあさんにはここまで来るにも随分と骨が折れただろう――そう思って、イリスはそっと眉(まゆ)を下げた。
「いえ、そうおっしゃられましても困ります」
 ところが、おばあさんの前に立っていたエクソシスト司祭は、おばあさんに同情したイリスとは全く逆に、おばあさんを気遣うでもなく平坦な声で言葉を返したのだった。
「申し訳ありませんが、午後の定期礼拝の時刻に改めてお越しになっていただけませんか」
 これを聞いたイリスは思わず、吐息だけで「何で!」と非難の声を上げた。おばあさんの具合は見るからに悪そうなのだ。そんなおばあさんが、午後に再び丘を上ってくるのは難しい事くらい、すぐに解るだろうに。
 イリスは急いでその場から踵(きびす)を返した。手に持っていた重い紙束を通用扉の脇に置いて、全速力で廊下の奥へと走り出す。
 駆け出すと、背中まで伸びた白金色の髪が顔にかかって邪魔をしたので、それを軽く手ではらいのけた。先ほどの司祭が身に着けていたものとは形の違った、けれど同じ漆黒の聖職服の裾(すそ)をばたばたとひるがえしながら、通用廊下を抜けていく。
 しばらく駆けると、先に重厚な木造りの両開き扉が見えてきた。イリスはそのまま突っ込んで、扉の取っ手を握り勢い任せに押し開く。
 途端に視界が光に包まれて、あたたかな彩りが春風のようにイリスを迎えてくれた。
 大教会堂の中枢にある、礼拝大聖堂。
 イリスは聖堂の最前にある、大きな祭壇へと駆け寄った。
 祭壇の奥には、見上げれば首が痛くなるほどの大きなステンドグラスがはめ込まれていた。描かれた大きな神様は今日も穏やかで、静かに微笑(ほほえ)んではあたたかくイリスを見下ろしている。大きな十字架は、そんな神様が差し伸べる右手のちょうど指先ほどに備えられていて、それはまるで神様が十字架を我が子のように撫(な)でているふうにも見て取れるのだった。
 イリスは十字架とステンドスラスの神様に向かって、聖職服の左胸――そこに描かれた太陽と聖十字の紋章(クレスタ)に右手を押し当てた。頭を下げ、静かにエクソシストの敬礼を送る。
 ――エクソシストの敬礼。
 そう。成長し、十六歳になったイリスは今、中央都のエクソシスト協会本部に所属する、れっきとしたエクソシスト候補生になっていたのだった。
 一年前、十五歳になってすぐ、イリスは二年前の約束の通りにこの中央都へ洗礼を受けに来た。そうして念願かない、エクソシストのみが持つ力――神気(アウラ)を授かったのだ。
 ……ただし、その時にはもう、約束を交わしたルカ師(し)兄(けい)はいなくなっていたのだけど。
 イリスは頭を下げながら、静かにまぶたを閉じた。
 噂(うわさ)で亡くなった事を聞いた。イリスがここへ来る半年ほど前に、ルカ師兄はとんでもなく凶悪な悪魔と対(たい)峙(じ)して、祓(はら)いこそ成功したものの大きな呪いを受けてしまい、後に療養も虚しく亡くなってしまったと。考えれば考えるほど、あまりにも惜しくて、悔しい――。
 イリスは敬礼を終えて後ろを振り返った。そこには生まれ育った村の教会聖堂とは比べ物にならないほどの空間が広がっていた。
 背筋がふっと浮いたような感覚を覚えるほどに高い弓形の天井。一面には白と薄青緑のステンドグラスが、ぼかしを入れるように順繰りにはめ込まれていて、聖堂内にいつも木漏(も)れ日のような光を降らせてくれる。天井と祭壇からの光は、四方の白壁にも反射して、それぞれの彩りを淡く繊(せん)細(さい)に散らせては、いくつも並ぶ礼拝椅(い)子(す)をあたたかく包み込んでいる。
 輝かしく、けれど眩しすぎず――蠟(ろう)燭(そく)いらずの明るさは、まさに神聖という言葉がぴったりの美しさを誇っていた。つらい心も洗われるような、優しい聖堂。
「……って、違う、見惚れてる場合じゃなかった!」
 神聖な空気に呑まれかけていたイリスは、そこではっとして声を上げた。誰もいない大聖堂に反響する自分の声を聞きながら、慌(あわ)てて大きな十字架の元に駆け寄る。
「あるかなぁ……」
 呟(つぶや)きながら、十字架の土台についていた戸を開ける。そこは一種の収納庫になっていて、中にはいくつもの水晶玉が並び、保管されているのだった。
 石にはそれぞれ神気(アウラ)から生み出される、印(ルーン)という神聖文字が描き込められていた。通常の人には見えない神気(アウラ)で描かれた印(ルーン)は、けれどエクソシストから見るとしっかり光の文字として視認できるのだ。イリスはいくつも並んだ印(ルーン)の中から、お目当てのものを探し出した。
「あった、治癒(シゲル)!」
 イリスは目的の石を取り出し、しっかりと戸を閉めると、改めて元来た道を走り出した。
 通用口に戻ると、さっきまでいた司祭はすでにどこかに姿を消していた。
 見れば、おばあさんも弱々しい足取りで、とぼとぼと丘を下り始めているではないか。
「わっ、おばあさん、待って!」
 イリスは急いでその背を追った。
「ああ、イリス様」
「おはようございます、大丈夫ですか?」
 おばあさんはこちらを振り返って、すぐにイリスの名前を呼んでくれた。エクソシストはその数があまり多くなく、各都に数十人ほどしか在籍していない。だからまだ協会に所属して一年のイリスでも、人々の多くにはすっかり顔と名前を覚えられているのだった。
 おばあさんは、無意識にだろう、痛むらしい腰をさすりながらイリスを見て、ふと寂しそうな表情を浮かべた。
「お忙しいところ、申し訳ありませんでした。ですが、もう、帰りますので……」
「あっ、違います、違います。おばあさんの護(まも)り石(いし)を見せていただけませんか?」
 イリスは頭を下げるおばあさんに首を振って、背の低いおばあさんの顔を覗(のぞ)き込むようにその場に膝(ひざ)をついた。そうして、驚きつつも懐から取り出されたおばあさんの水晶玉を受け取って、「やっぱり」と小さな呟(つぶや)きを漏(も)らす。
 おばあさんの持つ護り石は随分と古くなっていて、込められた印(ルーン)が消えかかっていたのだった。水晶玉は、印(ルーン)が込められて初めて護り石としての役目を持つ。印(ルーン)が消えてしまっては、ただの綺(き)麗(れい)な石でしかなくなってしまうのだ。
 イリスは大聖堂から持ち出した新しい護り石を、そっとおばあさんの手に握らせた。
「古い石は、こちらで引き取って浄(じよう)化(か)しておきますね。腰がお悪いようですから、定期礼拝の参列もご無理はなさらないで下さい。家でのお祈りを守って下されば大丈夫ですから」
 言うと、おばあさんはしわに包まれた小さな目を、ぱちぱちと瞬かせていた。
 けれど、すぐにくしゃりとしわを深くして、イリスの大好きな、穏やかで綺麗な微笑(ほほえ)みを浮かべてくれる。
「ありがとうございます。イリス様、本当にありがとうございます」
「いいえ。お気を付けてお帰り下さいね!」
 おばあさんの笑顔に嬉(うれ)しくなって、イリスも満面の笑みを返した。
 丘を下りて行くおばあさんを見送ると、おばあさんは街の中に入るまで、何度もイリスを振り返って頭を下げてくれた。
「ふう。間に合って良かった……」
 ところがそうしておばあさんの姿が見えなくなり、イリスが安(あん)堵(ど)の息をついた時、
「――何が良かったのでしょうね」
「ふわっ!?」
 突然背中に厳しい声をかけられて、イリスは思わず跳び上がってしまった。
 勢いに水晶玉を落としそうになり、慌(あわ)てて握り締めながら振り返る。と、そこにはいつの間に現れたのだろう、一人の初老の男性が腕を組んで仁王立ちになっていた。
「し、司教長……」
「イリス・ラウラ候補生。私はあなたに、協会に寄せられた祓(はら)いの依頼書を、私の執務室まで運ぶようお願いしていたはずなのですがね」
「は、はい……っ」
 イリスは慌てて背筋を伸ばした。そこに立っていたのは、エクソシスト協会、中央都本部の司教長――つまり、中央都に在するエクソシストの上に立つ、一番偉い人だった。
 司教長は、肩の辺りまである白髪交じりの髪を耳に引っ掛けながら、砂をかき混ぜたようなザラザラとした声でもう一度「イリス候補生」と呼んだ。
 イリスは反射的に首をすっこめた。司教長の声は苦手なのだ。人々には「威厳がある」とありがたがられているその声も、イリスには単なる威圧的な声でしかなく、しかも嫌に耳に残ってむずがゆくなるものだから、できればあまり長くは聞いていたくないと思っている。
 ……こんな事、口が裂けても言えないけれど。
「イリス候補生、あなたは何をなさっていたのでしょうね。通用口の足元に、依頼書の束が放置されていたように見受けられましたが?」
「あ、あの……気分が悪いと、祝福を求めにいらっしゃっていたおばあさんがおられましたので、新しい護(まも)り石(いし)を」
 しどろもどろに状況を伝えると、司教長は眉(み)間(けん)のしわをぐぐいと深くして、じろりとイリスを睨(にら)み下ろしてきた。その目から逃れようと視線を逸らしかけると、先んじてまた「イリス候補生」と呼ばれてしまう。
「水晶のお代は……『寄付』は、いただいたのでしょうね?」
 そうして言われた言葉に、イリスは内心「うわぁ」と苦いうめきを漏(も)らすしかなかった。
「……いただいて、おりません……」
「定期礼拝以外での無償の祝福はなりませんと、いつもあれほど言っているのに!」
「で、でも司教長、今のおばあさんは少し具合が悪そうで」
「それでも悪魔憑(つ)きではなかったのでしょう。でしたら『寄付』をいただきなさい、純度の高い水晶は、タダでほいほい生まれ出てくるわけではないのですよ」
「で、ですから、今回は古い石を受け取りました。これなら浄(じよう)化(か)しなおせば、また……」
「エクソシストの数が減っている事くらい、あなたも解っていらっしゃるでしょう! そこに余計な仕事を増やしてどうするのですか!」
 ぴしゃりと、上から押さえつけられるように言われてイリスはまた首を引っ込めた。
 けれど胸中では、懲りず「追い返す人がいて追い返す暇があれば、対応できるんじゃないだろうか」なんて事を考えてしまう。司教長だって、こうやってイリスを怒っている間に、古い護(まも)り石(いし)を祝福しなおすくらいすわけもなく……と思っていると、今度はそれを見透かされたかのように「ご自分で浄化(ベオーク)の印(ルーン)を扱えるわけでもないのに」と苦言を返されてしまった。
 これにはぐうの音も出せなくて、イリスは完全に口をつぐむしかなかった。確かに所属して一年、とても成長の遅い候補生のイリスには、まだ30の形と複数個の意味を持つ印(ルーン)の中でも、一番簡単な、光を生み出すだけの聖光(シゲル)しか扱えないのだ。
「いいですか、協会も資金繰りが色々と大変なのですよ。人命に関わる急用でない限りは必ず『寄付』をいただきなさいと、何度言えば解るのです」
「でも、司教長。経費がかかると言ったって、国からも支給されているのですし……」
「……何をおっしゃるかと思えば。仕方がないでしょう、かかるものはかかるのですから」
「で、でも、司教長。だからって、祝福を求めにいらっしゃる方々がすべて『寄付』をおさめられるほど裕福なわけではありません」
「ですから、そういう場合は定期礼拝にいらっしゃるようお願いなさい」
「でもっ、お年寄りにはその行程がおつらい場合だってあります。体や精神が弱れば、悪魔にも憑(つ)かれやすくなってしまいます。今すぐ人命に関わらずとも」
「でもでもばかりおっしゃらない! イリス候補生、ご自身の位階をおわきまえなさい!」
 雷を叩き落されるような厳しいひと言に、イリスは今度こそ完全に下を向いた。
 ……ああ、またやってしまった。
 自分で自分に肩を落とす。これは怒られて当然だ、どうして懲りないのだろう。候補生が司教長に口答えしていいはずはないと、いつも少し落ち着いて考えれば解るのに――。
 そうしてしゅんと小さくなった、その時だった。
「司教長。そのくらいにしてやっていただけませんか」
 風が吹くような穏やかな声が割って入ってくれて、それだけの事に、イリスはふっと気持ちを軽く持ち上げられたような気がした。あ、と思って視線を流すと、司教長の後ろから、同じ聖職服を着た一人の青年がこちらに向かって歩いてくる姿が目に入る。
「シモン師(し)兄(けい)……」
 そこに現れたのは、この中央都本部で一番の年若き司教である、シモン・ケルビーニ師兄だった。シモン師兄は、通常、最低でも四十ほどにならなければ授かる事ができないと言われる司教の叙(じよ)階(かい)を、二年前、若干十七の時に受けた天才のエクソシストだ。協会随一の鬼才と謳われたイリス憧れのルカ師兄とも、唯一肩を並べられる人だと言われていたらしい。
 何より今は、司教、司祭、候補生とあるエクソシストの位階の内、まだ半人前の候補生であるイリスの、直接のお師匠様でもあって――。
「シモン司教ではないですか、どうされたのです」
「手が空きましたので、イリスの修行をと思いまして。司教長、どうか今回はお見逃しいただけませんか。イリスは悪気があってやっているのではないのです。優しい子ですから」
 イリスの隣に立ち並んだ師兄は、やんわりと微笑(ほほえ)んでイリスの頭を撫(な)でてくれた。
 イリスを見下ろす青灰の……雨上がりの光射す曇天のような、落ち着いた色の髪と瞳が、清々しい朝の太陽を受けてやわらかくきらめいている。
「……『毎度』見逃しているようにも思いますがね。そろそろ私も堪忍袋の尾が切れますよ」
「申し訳ありません、改めてよく言い聞かせておきますから。それよりも司教長、通用口の脇にあったのは依頼書では? ご確認を優先していただいた方がよろしいのでは」
 師(し)兄(けい)の言葉に、イリスは改めて首をすっこめた。司教長にも、思い出したようにもう一度じろりと睨(にら)まれてしまう。事情を知らない師兄だけが、一人きょとりと目を丸くして「何かおかしな事を言いましたか?」と首をかしげていた。
「……いいえ、解りました。いいでしょう。シモン司教、しっかりとご指導を頼みますよ」
「ありがとうございます。ほら、イリス」
 師兄に促されて、イリスはようやく「申し訳ありませんでした」と司教長に頭を下げた。
 ただ、そうして反省しながらも、ふと拭いきれない違和感が胸に湧き出てきて……。
 下げた頭で、イリスはぐっと、口の中を嚙(か)み締めていた。

 執務室の扉を開けたシモン師兄は、「さ、入って」と微笑(ほほえ)んでイリスを中に導いてくれた。
 師兄の執務室は、小さな部屋ながらも本がぎっしりと詰められた本棚が並んでいて、そればかりか奥にある文机や床にまで棚に入り損ねた本達が積み重ねられているという、いつ見てもまさに『書斎』の言葉が相応しい部屋になっていた。
「さてと……あ、ごめん、ちょっと待って」
 ……いや、部屋の面積に対して床が覗(のぞ)く面積を考えれば、そろそろ書斎と言うよりは書庫と言った方が似合うようになっているだろうか。
 扉を閉め、部屋の奥に進んだ師兄は、少しだけ慌(あわ)てた様子で足元に詰まれた本達をいくつか本棚の方に寄せなおしていた。
 天才、と言っても決して努力を怠らない師兄は、非常に勤勉で真(ま)面(じ)目(め)な人でもあった。ここに置かれている本達もすべて、神話書物やベネデットの歴史書、他国の歴史書、印(ルーン)の研究書など、聖職者にとって大事な資料文献ばかりだ。
 ――ただ、イリスがそんな師兄に抱く尊敬の念には、いつかこの人は本に埋まってしまうのではないだろうかというちょっぴりの心配も含まれていたりするのだけど。
「はい、ごめん、お待たせ。それでイリス、先に話なんだけど……」
 考えていると、師兄が改めて手招いて、イリスを側に呼び寄せた。
「はい」
 寄ると、師兄はそれまでの優しい笑顔から一転して、少し困ったような表情を覗かせた。
「さっき、また司教長と言い合っていたみたいだけど……やっちゃったんだね?」
 言われて、イリスは思わず顔を伏せてしまった。師兄の手をわずらわせるのももう何度目だろう。バツ悪く眉(まゆ)を下げると、しかし師兄にまた「イリス」と呼ばれて言葉を促される。
「あの……気分が悪いとおっしゃっていたおばあさんに、新しい治癒(シゲル)の護(まも)り石(いし)を渡しました」
「……古い石はある?」
 差し出すと、それを受け取った師(し)兄(けい)は、流れるような所作で素早く指先を動かした。
 師兄の長い指が空(くう)をなぞると、規則性ある形の神聖文字がその場に描き出された。浄化(ベオーク)と治癒(シゲル)の印(ルーン)だ。師兄がそれぞれに手をかざすと、青灰の髪と聖職服がやわらかな風にあおられたようにふわりと浮く。印(ルーン)が輝いて、古くなった石は浄化(ベオーク)で文字通り浄(じよう)化(か)され、すぐに新しく治癒(シゲル)が込められて……あっと言う間に、古くなっていたそれは元の護り石へと戻された。
「これは後で俺が保管庫に戻しておくよ」
「申し訳ありません……。ありがとうございます」
「うん……それで、ごめん、イリス。あまり言いたくはないんだけど、もうこれ以上、司教長の言った事には逆らわない方がいい。イリスの優しさが尊いものである事は解っているけど、あれが今の協会の方針である以上は、従わなければ仕方ない」
 その言葉に、イリスはウンともスンとも言えず、深く眉(まゆ)を寄せてしまった。
「……イリスは『寄付』が本当に必要なのか、疑問に思っているんだよね?」
「はい……『寄付』なんて……。あの、師兄。協会って国から充分な支援をいただいているんですよね? ベネデット国そのものが貧窮しているだなんて話も聞いた事がありません、なのに……それなのに」
「……なのに、最近司教長の執務室の床が大理石に変えられたらしいとかいう珍妙な話なら、耳にした事がある?」
 言われて、イリスはぱっと顔を持ち上げて師兄を見返した。
 師兄は少し憂いたような苦笑を、静かに、頰(ほお)に浮かべた。
「……うん、本当の話だよ」
「師兄、それって私欲じゃないですか……! 聖職者なのに!」
「イリス。聖職者も人間だ」
 嫌にきっぱりと返された言葉に、イリスは目を見開いた。
「協会は、仕事はきちんとこなしている。怠慢(たいまん)なわけでもない。『寄付』もすべて協会寮内の個人部屋の『補修改善』か、主に国を支える貴族や富豪達への『接待』なんかに『合理的』に使われている。……イリス、これは協会上層部が決めている事だ。それに、歴史を追うごとにエクソシストの数が減ってきているのも、嘘じゃない。だからそこに『仕分け』の大義名分が生まれているんだよ」
「仕分けって、そんな……エクソシストが足りないからって、お金のあるなしで祝福が与えられるかどうか決められてしまうって言うんですか? 人はすべて神様の御子です。平等なはずです。お金による仕分けなんて、悪魔を呼び寄せてしまうような罪じゃないですか!」
「イリス。これはもう一般の人々にだって根付いている感覚だ。急を要する場合以外、最近では定期礼拝を除いて『寄付』を持たずに協会を訪れる人の方が稀になってきている」
 イリスは唇を引き結んだ。認めたくなくて、ふるりと首を振って、自分の手をきつく握り合わせる。
 するとその手を、まるで労わるかのように師(し)兄(けい)の手に包み込まれた。
「……イリスは綺(き)麗(れい)だね。真っ直ぐで」
「師兄?」
「……最近、気付いた事があるんだけど」
「えっ?」
 シモン師兄は、包み込んでくれていたイリスの手をぱっと離すと、唐(とう)突(とつ)にイリスに「結界(エオ)の印(ルーン)を描いて」と言った。ひたと真っ直ぐに見据えられ、けれど何やら脈絡のない流れに頭が追いつかず戸惑っていると、静かにもう一度「いつもの修行だよ。描いて」と促された。
 イリスは言われるままに、慌(あわ)てて右手の人差し指を空(くう)にすべらせた。
 ――神気(アウラ)を持つエクソシストは、国中の悪魔祓(ばら)いを担う反面、自身が非常に悪魔に狙われやすい体質にもなっている。神の御遣いとも言われ、神話時代、神様や天使(アンジェロ)達が使っていたとされる神聖文字を操る事のできるエクソシストは、悪魔にとって唯一の天敵であり、人の中で最も憎むべき相手となるからだ。だからエクソシスト達はみんな、国中の教会堂に施されているものと同じ結界(エオ)の印(ルーン)をその身に宿して、悪魔に憑(つ)かれないよう自身を護っている。
 けれど残念な事に候補生のイリスには、結界(エオ)なんてまだとても扱えるものではなかった。
 ……いや、とっくに結界(エオ)を扱える候補生だっているのだけど……イリスだって一年前、洗礼によって神気(アウラ)を授かった時には、その力の大きさに期待された事だってあったのだけど。それでもイリスは現実として、何故かほとんどと言っていいほど成長できないままでいる。
 ――案の定、今回も駄目だった。
 指先に神気(アウラ)を集中させて結界(エオ)の形を描ききるも、それに手をかざして発動させる前に、イリスの描いた印(ルーン)は息を吹きかけられた蠟(ろう)燭(そく)の火のようにふっと光を消してしまった。
「……師兄、すみませ」
「イリスは悪くない」
 ところが肩を落とし、謝罪をしかけたところで言葉を遮られた。
 見上げると、師兄は何故かとてもつらそうに眉(まゆ)を寄せてイリスを見つめていた。
「イリスは、悪くないんだよ」
「え。で、でもわたし……もう一年も経ったのに、まだ全然」
「最近ようやく解ったんだ。イリスがどうして成長できないのか」
 その言葉に目を瞬かせると、師兄は憂いたように目を細め、けれどとてもきっぱりとした口調で「迷いがあるからだ」と断言した。
「イリス、お前は迷ってる。……一年前、洗礼を受けに来た時に言ったね。聖職を目指した理由は、誰にでも平等に、心からの笑顔をあげられる人になりたいからだって」
「あ、はい、それは」
「でも、今の協会でそれはままならない。ままならないのが当たり前になっているのが、今の協会だ。その戸惑いが、お前の成長を止めているんだ」
 イリスは何も言葉を返せなくて、ただ、シモン師(し)兄(けい)の青灰色の瞳を凝視した。
 師兄は、そんなイリスの髪をそっと撫(な)でてくれると、イリスができなかった代わりにその手でイリスに結界(エオ)を施してくれた。それからまた「ごめんね」と、うめくように言う。
「ごめん。俺はイリスの師匠として、この協会に身を置く司教の一人として……イリスに、一つの言葉しか言ってやる事が出来ない」
 師兄は一呼吸を置いて、ゆっくりと口を開いた。
 この時、いつもはあたたかい青灰の瞳が、少し揺れたようにも見えて――、
「お願いだイリス、協会に従ってくれ。協会だってすべてが間違っているわけじゃないんだ」
「え……っ」
「せめて形だけでもいい、お願いだから従ってくれ。でなければお前が苦しむだけだ」
 師兄の言葉に、イリスは大きく目を瞠(みは)った。
「……師兄、それは……ずるくなれ、って事、ですか……?」
 この問いかけに、答えは返されなかった。師兄はただ、変わらず悲痛そうな面(おも)持(も)ちで……、
「お願いだ……今の協会じゃ、ただ真っ直ぐなだけの『綺(き)麗(れい)事』は、口にしたってもう――」
 ――異端と、変わらないから。
 頭の中に、怒りなのか悲しみなのか何なのかよく解らないものが一気にどっと押し寄せてきた。イリスはそのまま動き方を忘れた仕掛け人形みたいに固まってしまう。
 ――真っ直ぐでいる事が、異端……? 聖職者なのに?
 少しして、見開いた目から何の前触れもなくぼろりと涙がこぼれ落ちた。
 師兄は悲痛な面持ちのまま、指先でそれを拭ってくれる。
「……ごめん」
 いつもなら落ち着けるはずの、風が吹きぬけるような穏やかな低音は、今のイリスの耳には少し痛かった。

   †

 馬のいななきが聞こえて、イリス一人を乗せた馬車がゆっくりと停止した。
「――エクソシスト様、到着致しましたよ」
 御(ぎよ)者(しや)のおじさんに声をかけられて、イリスは俯けていた顔を持ち上げた。
 横手に視線を回せば、窓の外に一つの街が見えている。
 御者のおじさんが扉を開けてくれたので、イリスは伝書鷹が入った大きな鳥(とり)籠(かご)を手に、一人静かに外へと足を踏み出した。
「では、わたくしはこれで。明日の朝、またここへ馬車を着けさせていただきますので」
「……ありがとうございます」
 おじさんが頭を下げてくれたので、イリスもおじぎをして馬車を見送る。
 そうして振り返る。中央都から約二日足らず馬車で進んだところにある、ラスティールという小さな街――。
 ……鮮やか、という言葉が似合うだろうか。
 街に入ったイリスは、きょろりと軽く辺りを見回しながら足を進めた。
 初春の穏やかな昼下がり、淡い緑に囲まれているこの街は、しかし家々が全て赤茶の煉瓦で建てられていて、のどかながらも目に鮮やかな町という印象を抱かせた。落ち着いた色ではあるが、中央都が『大教会堂は白、他の家々は灰白色』という厳かな雰(ふん)囲(い)気(き)に包まれているものだから、余計に鮮やかと感じてしまうのかもしれない。
 ただ、色彩は鮮やかでも、ラスティールの街中は、まだ日も高い時刻であるというのに人気がなく、どちらかと言わず閑散としていた。
 それもそうだろう。この街では今、寝込んでいる人が住民の半数近くもいるらしく……。
 イリスは視線をめぐらせて、家々の屋根の合間から飛び出している十字架を見つけ出した。
 ラスティールの教会堂だ。迷わずそちらへ足を向ける。
 しばらく歩いてたどり着いた小さな教会堂の扉を押し開くと、扉の蝶番が古くなっているのか、キィ、と金属の軋む音がした。
「ああ、エクソシスト様!」
「えっ、わ……っ」
 教会堂に入った途端、イリスが挨(あい)拶(さつ)をするよりも先に一人の男性が跳び付くように駆けてきた。驚いてイリスがとっさに何も言えずにいると、この街の修道士様と思われるその男性は、イリスの手を取り、それをぶんぶかと上下に振り回す。
「ああ、お待ちしておりました、本当にありがとうございます!」
 熱烈歓迎と言ったその様子に、イリスは何だかとてつもない申し訳なさがを感じてしまった。だって、そんなに歓迎されても、イリスは祓(はら)いをしに来たのではないわけで……。
 ――思い返す。
 そもそも何故、イリスが今一人で都を離れたこの街にいるのか。
 その発端は二日前、シモン師(し)兄(けい)との話に区切りがついた時の事だった。師兄の執務室に訪れた司教長が、イリスに一つの仕事を命じたのだ。
 ラスティールには今、奇妙な病が流行っていると言う。医者の見立てによると感染病などではないようなのだが、ひと月ほど前から、多くの人達が風邪のような症状を引きずり続けているらしいのだ。要はこれが悪魔の仕業ではないかと懸念されるので、エクソシストの派遣を願いたいと――そんな依頼が、協会に寄せられたと聞いている。
 ただ、現時点で確実に悪魔がいるとは解っておらず、また、人が悪魔に憑(つ)かれているような緊急性がない為に、司教長は「司教位階の派遣はできない」と首を振っていた。かと言ってその下にいる物憑(つ)きの悪魔を祓(はら)える司祭達には、すでにそれぞれ祓いや祝福、出張や毎日の定期礼拝の仕切りなど、予定が詰まっていたらしくて……それで候補生のイリスに白羽の矢が立てられたというわけなのだ。
 要は先行視察。イリスが鷹を連れているのも、その為だった。
 司教長には、あのザラザラした声で「伝達(オス)の印(ルーン)が扱えたなら鷹など不要なのですがね」と嫌味を付け足された事は言うまでもない。……だったらそれを扱える候補生を派遣してくれればいいのにと思わないでもなかったが、言わずともイリスが選ばれた理由は知れていた気がして、あの時点ではとても理由を問う気力が湧かなかった。
 要はラスティールが協会に『寄付』を入れなかったからだろうと。ならばイリスのようなひよっこを使ってしまえと……そういう魂胆なのだろう。
 調査結果が緊急性を要さなければいいけれど……。
 内心に抱える不安を拭えずに、イリスははぁと嘆息(たんそく)した。
「エクソシスト様?」
「え? あっ、すみません」
 修道士様に問いかけられ、イリスは慌(あわ)てて思考を引き戻した。そこでようやく修道士様の手からも解放されたので、鳥(とり)籠(かご)を置いて敬礼する。
「失礼致しました。わたしは視察として伺いました、候補生のイリス・ラウラと申します」
「えっ、候補生様? ご視察、ですか?」
 イリスの言葉に、修道士様は案の定、少し驚いたような声を上げた。
「はい。あの……本当に申し訳ありませんが、現在は司祭以上のエクソシストが、別の仕事で手いっぱいになっておりまして……本日悪魔が見つかりましても、すぐの祓いは行なえないのです」
「えっ、悪魔がいても、祓っていただけないのですか!?」
「ああっ、その! 悪魔の気配が見つかった場合は、改めて協会にエクソシストの派遣を要請致します。ご安心下さい、依頼書を拝見する限りでは、いたとしても物憑きの悪魔だと思われます。人に憑くほどの凶悪な悪魔でない限り、現状人命への支障はございませんから」
 慌てて説明すると、修道士様はそこでようやく安(あん)堵(ど)の息をほっと吐いてくれた。
 その事に、イリスも胸を撫(な)で下ろす。完全に落胆させてしまったらどうしようかと思っていた。いくら力のない候補生と言っても、できる限りそんな事はしたくはない。
「それでは、修道士様。お手数ですが、より詳しいお話を聞かせていただけますか?」
「ああ、はい、それは勿論。街の者が聖堂に集まっております。話はそちらで……よろしくお願い致します」
 イリスは頷(うなず)いて、鷹を修道士様に託し、先に聖堂へと向かった。教会堂を入ってすぐの正面に聖堂へと続く扉を押すと、ここも古くなっているのか、またギッと蝶番が音を立てる。
 それを聞いて、ふと今更ながらに緊張感を覚えた。
 考えてみれば、一人で都を離れるのは初めてだったっけ……。二日前の出来事から何かと気が動転していて、すっかり失念していた。いつも側にいてくれるシモン師(し)兄(けい)がいないのだから、一層気を引き締めなきゃならないな、と……イリスはもう一度素早く深呼吸をする。
 そうして扉を開ききると、途端に礼拝椅(い)子(す)に座していた十数人ほどの人達が、いっせいにこちらを振り返った。
「ああ、エクソシスト様!」
「良かった、これでようやくウチの人も元気になる!」
 イリスの聖職服を見て、人々の口から安(あん)堵(ど)の言葉が漏(も)らされた。それにまた、イリスはちくりと胸を刺されてしまったけれど、ぐっとこらえて敬礼し、修道士様に伝えたものと同じ説明を繰り返す。
「いいえ、いいえ。それでもありがたい事です」
「何が原因か、もうさっぱり解らなくて……何もできず、恐ろしくて仕方がなかったのです」
「どうか、ご加護がありますように。よろしくお願い致します」
 説明を終えた時、街の人達もやはり修道士様と同じように安堵の表情を覗(のぞ)かせてくれた。
 反面その言葉から、このひと月、よほど大きな不安にさいなまれ続けていたのだろうと知れて、イリスは眉(まゆ)を下げる。
 何をすればいいのか解らなくて、何もできなくて怖い――その気持ちは、イリスもよく知っていた。自分にもっと力があれば、もっと正しい形でこの人達を安心させてあげられただろうにと思うと、言いようもない悔しさが喉(のど)元にせり上がってくる。
「……全力を、尽くします。まだまだ若輩ですが、よろしくお願いします」
 言って、イリスは祭壇の前に立ち、人々に頭を下げた。
 その時にふと、後ろに髪を引かれたような感覚を覚えてイリスは首を回した。
 けれど当然、そこには何があるわけでもなく……どこの教会堂とも同じで、神様の描かれたステンドグラスと、かかげられた十字架があるだけだ。足元を見下ろしても、目に付くのは少し古くなってくすんでいる赤い絨(じゆう)毯(たん)だけ。イリスの髪を引くようなものは何もない。
 ……いや、髪を引くと言っても実際に引かれたわけではなく、そんな感覚を覚えたというだけなのだけど……。
「イリス様、どうかされましたか?」
「あ、いいえ。すみません、何でもありません」
 呼ばれて、改めて街の人達に目を向ける。
 やっぱりソワソワしてるみたい、落ち着かなきゃ――。
 用意してくれていた椅子に腰を下ろし、ふぅと吐息してから、イリスはようやく街の人達から詳しい話を聞き始めた。

   †

 途方にくれて、呟(つぶや)きが漏(も)れる。
「……どうなってるんだろう」
 空を見上げると、すでに日は傾いて西の空が茜の色に染まりつつあった。ふわりと涼しい風に頰(ほお)を撫(な)でられて、日を受けた、いつもより少しだけ赤みの増した髪が後ろに流される。
 イリスは今、人気のないラスティール中央広場で一人、立ち尽くしていた。
「これだけあちこち回って何もないって事は……悪魔、いない、のかな」
 自問して、イリスは手の中にある水晶玉にじっと目を落とした。けれど、それは何の反応も示していなくて、ただ静かに手の中で転がっているだけだ。
 イリスが持っているのは、シモン師(し)兄(けい)が渡してくれた護(まも)り石(いし)だった。石には悪魔を探す為の探索(アツシユ)の印(ルーン)が込められている。悪魔の側に近付けば、反応して光るのだ。
 でも、数時間をかけてひたすらに街中を歩き回り、家々の玄関先にまでお邪魔してきたその護り石は、一度もどこにも反応を示さなかった。教会堂を出てからずっと注視し続けていたけれど、わずかな光さえ見せる事なく。
「んー……」
 イリスはうめいて、広場の中央にある小さな噴水の囲いに腰掛けた。
 昼間の人々の話からも、特に悪魔が現れたような兆候は見受けられなかった。物に悪魔が憑(つ)いていたなら、普通その付近で人々の具合が悪くなったりするものだけど、それもない。
 という事は、やっぱり悪魔はいないのだろうか。
 いないなら、それはとても喜ぶべき事なのだけど……でも、街の人々が感じている通り、それでは何か腑に落ちないような気もして。
 イリスはそっと手を持ち上げて、ゆっくりと自ら探索(アツシユ)の印(ルーン)を描いてみた。石では近くで光るだけだけど、自分で扱えたなら悪魔に反応して方角を示してくれるはず。
 けれどやっぱり、イリスの印(ルーン)は発動を待たずしてすぐに消え去ってしまった。
 思わず眉(まゆ)を寄せた。
 疑問が湧く。この先イリスは、果たして成長できるのだろうか、と。
 ――はあ、と深い嘆息(たんそく)を漏らすのは、二日前から数えてこれで何度目かも解らなかった。
「……異端……」
 呟く。二日前、シモン師兄に言われたその一言が、未だに頭にこびりついて離れなかった。
 イリスは噴水の池に手を入れて、それをぱしゃりと跳ねさせた。
 波紋が少し静まると、水鏡に情けない顔をしたイリスの顔が映り込む。
 母と同じ白金色の髪、それとは真逆の深い藍(あい)色をした瞳が、ぼんやりと自分に向けられていた。鏡を見ると思い出す。母はこの瞳を、日暮れの色だとよく言ってくれたものだ。人々を眠らせてくれる、あたたかな夜を迎える色なのだと……そう、褒(ほ)めてくれて。
 けれど今のイリスが自分を見て思い返すのは、母の事よりもむしろ、この日暮れの空の色とは真逆の大きな朝焼け色の瞳だった。
 陽光のような髪と日暮れの瞳を持つイリスとは真逆に、月光のような白銀色の髪と朝焼けの瞳を持っていた、イリスの誰よりも憧れる人――。
 ――『僕は聖職者である事に、誇りを持っています』
 イリスとたった一つしか違わないのに、シモン師(し)兄(けい)と肩を並べ、あるいは師兄よりも実力が上だったと称賛されるほどの鬼才のエクソシスト、ルカ・モラヴィア司教。二年前にルカ師兄の言ったその言葉が、どれほど大きく素晴らしい事だったのか、まさか今頃になって実感してしまうなんて、イリスはあの時、予想だにしていなかった。
 単純に聖職に憧れていた。ルカ師兄に憧れていた。同じ言葉を口にして、同じように人々に笑顔をあげられる聖職者になりたいと……ただ、そう思っていた。けれど。
「……会いたい、な……」
 ぽつりと呟(つぶや)いてみる。でも当然、亡くなってしまった人になんて会えるわけもなくて。
 イリスはもう一度、今度は水の上に指をすべらせて印(ルーン)を描いた。水の上に揺れた光の文字は、やっぱりすぐに消えてしまう。
 ――ああ、こんな今だからこそ……イリスは改めてルカ師兄に会いたかった。会って問うてみたかった。「何故あの時、聖職を誇ると言い切れたのですか」と。今と変わらない協会に身を置きながら、どうして――。
「……今のわたしには、言えない……」
 ザァ、と風が吹き抜けて、イリスはその風に誘われるように顔を持ち上げた。
「あ……?」
 その時、ちょうど広場に入ってきた人と目が合って、イリスは意図せず声を上げた。
 そこにいたのは見知らぬ一人の少年だった。すでに街中を回ったイリスの記憶にはない、黒い髪をした少年だ。
 同い年か、それとも少しだけ年上だろうか。質素な服に身を包み、肩からは少し大きめの鞄がぶら下げられていた。軽装ながらも、昼間に街で見かけなかった事から考えて、少年は旅をしているのではないだろうか。
 けれどイリスは、何も旅人と出くわしたからと言って声を上げたわけではなかった。
 その瞳が――漆黒の髪の隙間から覗(のぞ)く、少しつり上がり気味の双眸が、何だかとても懐かしい色に見えた気がして……。
 イリスは立ち上がり、静かに少年に歩み寄っていった。
「こんにちは」
 言って目の前に立つと、ところが少年は何故か石像みたいに固まってしまっていて、挨(あい)拶(さつ)を返してはくれなかった。
 イリスはこてんを首をかしげた。
 背の高い少年の、その瞳をじっと見上げる。
 ――あ、やっぱり似てる。
 そこですぐに、イリスはふと口元をほころばせた。
 少年の瞳は、赤みの強い西日を受けて、深い赤紫の色を輝かせていた。けれどはたりと、少年が目を瞬かせて睫毛が影を作ると、時折それは色を濃くして、青紫のようにも見える。まさに今の時刻の空よりも清々しい、イリスの瞳とは真逆の朝焼けのような色だった。
 真っ黒な髪と、成長過程ながらもキリリと凜(り)々(り)しく整った男の子らしい容姿は、イリスの記憶にある華(きや)奢(しや)な姿とはまったく重ならなかったけれど、それでもその瞳の色だけは……間違いない、ルカ師(し)兄(けい)と同じ色をしている。
 懐かしい色――。
 まさか師兄を思い返していた時に、またこの色を見る事ができるなんて。
 イリスは何だか、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
「……あ。わたし、中央都エクソシスト候補生のイリス・ラウラといいます。あなたは?」
 改めて挨(あい)拶(さつ)をすると、少年はようやくはっとした様子で「え、ああ」と声を上げた。
 抑(よく)揚(よう)の少ない、落ち着いた声。高くも低くもなく、すっと耳に、胸に浸透するようなその声は、例えるなら灯した蠟(ろう)燭(そく)の火のようだった。聞く、と言うよりは馴染む声。
 何だか心地いいなあと、またじっと瞳を見上げていたところで、少年が眉(まゆ)を寄せて少し困ったような表情を覗(のぞ)かせた。イリスははっとした。不躾に見つめていた事が急に恥ずかしくなり、慌(あわ)てて誤(ご)魔(ま)化(か)すように「あ、あのっ」と声を上げる。
「お、同い年くらい、かな。わたし、十六歳なんですけど……おいくつですか? 一人で旅をしているんですか? どこかに向かう道中なんでしょうか」
「え、いや、僕は……」
「あっ、ごめんなさい。わたし、いきなり」
 あははと笑うと、少年は何かを考えるように右手で左の首元を引っかきながら、ふいと視線を逸らす。
「あの。お名前は……?」
「あー……ノッテ。……年は十七、だけど……」
「夜(ノツテ)?」
 少し変わった名前だった。でも、その漆黒の髪は光を受ける角度によって少し青みがかっているようにも見えて、確かに夜空を思わせるような気もする。
「あのさ、それより、君……」
 そうして、ノッテが何かを言いかけた時だった。


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