水恋戯(すいれんぎ)
弓束しげる

 夜風が少女の頬を撫でた。心地良さに口元をほころばせると、かたわらの泉に水紋がなびき、少女の心を汲むようにちゃぷんと小さく笑う。
「——その顔、好きだな」
 泉のほとりの岩の上、少女の隣に腰かけていた青年が、ぽつりと呟いた。
視線を向けると、青年は穏やかに微笑んで少女を見つめていた。繊細な、でも節張っている大きな手を伸ばして、少女の艶やかな黒髪を梳く。それがまた心地良くて目を細めると、青年は再び「好きだ」と囁いた。静かな声は、湧き出す水のせせらぎに似ている。
「笑顔がとても優しい。水面に映る月に似ている」
「……水面の月?」
「ああ。繊細で、美しくて……揺れる事はあっても、決して消えない輝きだ」
 くすぐったくなるような言葉を、青年はためらいなく口にする。でも、くすぐったいけれど芯があって、偽りのない響きは、少女の胸の内をほんのりと熱くさせた。
 もぞもぞと身じろぐと、ふと青年が何かを思いついたように「ああ」と笑みを深めた。
「そうだ。名前、『玲月』はどうだろう?」
「名前?」
 少女が目を瞬かせると、青年は頷いて「月は嫌いか?」と問うた。
 少女は視線を移し、かたわらの泉を見つめた。小さな泉の中央には、ゆらゆらと輝く月が映っている。手で水をすくって跳ねさせると、それは頼りなげにふっと揺らいだ。けれど青年の言った通り、頼りなげに見えても輝きは消える事なく、波紋の上に光を乗せている。
「あの、月ですか?」
「そう、玲月。珠のような月。水に浮かぶ宝玉だ。……ずっと、似合う名前を考えていた」
 青年は嬉しそうに言った。
「存在の証だ、『玲月』」
「……玲月」
 少女はその名前を反芻した。噛み締めるように口にすれば、心の中まで風に撫でられたようにくすぐったくなる。好きな響きだ。綺麗な名前。うん、と頷く。
「じゃあ、わたしは今日から、玲月ですね」
 玲月が青年に微笑みかけると、青年も満足そうに目を細めた。その笑顔が嬉しくて、玲月も一層笑みを深くする。青年は玲月の笑顔が好きと言ったが、玲月も青年の笑顔が好きだった。包み込むような笑顔。優しくて強い笑顔。
 玲月、と青年が呼ぶ。玲月もそれに答え、青年の名前を呼ぶ。
「……——」
 今は思い出せない、大切な人の名前を——。

 ——カタンッ、と椅子の揺れる音に、玲月は目を開けた。
 いけない、うたた寝をしていた。
 軽く頭を振ると、まだぼんやりと意識の向こうに見えていた夢の景色が、溶け落ちるように消えていった。
入れ替わるように、ざわざわした現実の喧騒が耳を突く。
俯けていた顔を上げると、驚いた事に『自分』と目が合い、玲月は思わず肩を揺らした。
……控え室の壁際に並べられた、化粧台の鏡。
何だ、と思って肩の力を抜いた時、ふと部屋の隅、玲月の斜め後ろの辺りから、ひそひそとした少女達の会話が聞こえた。
「……ねえねえ、見た? 今の玲月。自分の顔見て驚いてなかった?」
「世話ないわねー。自分で驚くくらいだったら、あの怖い顔、やめてくれたらいいのに」
「ほんとに。何か部屋の空気が澱むっていうかねー」
 失笑され、玲月はわずかに目を細めて、改めて目の前を見つめた。
黒目がちな瞳が、ぼんやりと無感情に、あるいは睨むように、鏡の中からこちらを見返している。
これは確かに『怖い顔』かもしれないと思った。自分でも、見ただけでは何を考えているのか解らない顔だ。ろくな表情もない人形面。
 ——『空気が澱む』
 その言葉に、肩身が狭くなる。
誰に微笑みかける事もできない、笑い方の解らない、硬い自分の表情——。
……すべてを思い出せば、皆と同じように笑う事も、できるだろうか。
「玲月ってさ、もうここへ来て一年にもなるのに、相変わらず無愛想よね」
「何考えてるか解らないしね。話しかけてもすぐ睨むし」
「ワタシ達と打ち解ける気、ないんじゃない?」
 背中で続けられる不本意な会話に、玲月は膝の上で手を握って、目を伏せる。
——違う。そうではなくて……。
 意を決して口を開きかけた時、それを遮るように部屋の扉のほうから「さあ皆!」と、明快な声が響いた。
「もうすぐ舞台の幕が上がるよ、準備しようか!」
 控え室にいた十数名の少女達が、声を揃えて元気に「はいっ」と答えた。
間を逃し、言葉を出し損ねた玲月も、慌てて振り返って「はい」と返事をする。
けれど、玲月の口から出たのは、皆と違って平坦な声だった。皆の弾んだそれとは違う、抑揚のない声。
 玲月はきゅっと唇を引き締めて、静かに椅子から立ち上がった。

   §

 体を包む水の音は、両手で耳を塞いだ時に聞こえる体の音によく似ている気がした。
玲月は閉じていた目を開けて、水中で強く水を蹴った。腕にからむ薄紗をさばき、水に躍らせながら体をひねると、蹴られた水達がひゃあっとはしゃいだ音を立てる。
その音に混じって、二胡や琵琶、古筝や竹笛の奏でる音楽が聞こえた。優しくこもった音色に合わせ、舞い泳ぐと、漏れた呼気にこぽりと音を立てる泡が、玲月のいる大きな水槽の上部に灯された照明の光を浴びて宝石みたいにキラキラと輝いた。
玲月は舞いながら水槽の前方に視線を向けた。そこでは、玲月よりもずっと鮮やかできらびやかな衣装をまとった女性と、男装をした女性が、お互いの手を取り合って軽やかに泳ぎ舞っている。次第に盛り上がる楽曲に合わせ、主役の二人は徐々に身を寄せ合い、水槽の底から半ばへ浮いていった。玲月をはじめ、控えめな衣装を身に着けている後列の少女達は、反対に水底に潜り、ひざまずき、腕にかかる薄紗を揺らめかせる。
そうして前方の二人が抱き合った瞬間、最高潮に盛り上がった音楽は一気に収束し、水槽の中には水音だけが耳に触れる穏やかな静寂が訪れた。
——水中の女達は、そこで一斉にぴたりと動きを止めた。
三拍の間を置いて、打って変わったゆるやかな音楽が流れ出す。
その楽曲に促されて水上に顔を出した玲月は、ようやく胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
少女達と共に急いで水槽から上がり、水を吸っている衣装をさも軽いかのようにさばきながら、水槽裏に続く階段を駆け下りる。順に水槽の手前に回り、皆で列を作り終えると、見計らったように終幕の曲が終わって、ボワァン! と大きな銅鑼が鳴らされた。
わあッ——と、大きな歓声が上がる。
列の中央に立っていた主役の二人が、それぞれ満面の笑みで手を掲げ、お辞儀をした。
それに合わせて、玲月達は一糸乱れぬ動きで舞台壇上の袖に手の平を差し向けた。すると一層大きくなった拍手喝采に招かれるように、逞しい体格の三十代半ばほどの男性が、舞台袖から姿を現す。堂々とした足取りで列の中央に混じった男性は、いかめしい顔に少しの笑みを乗せて、盛り上がる観客席に向かって言葉を張り上げる。
「本日は蓮芳水戯団の晩夏興行、千秋楽にお越し下さり、誠にありがとうございました!」
 地響きでも鳴っているのではないかと思うほどの、歓声、拍手、拍手、拍手——。
 巨大な水槽の中で音楽に合わせて演劇を舞い泳ぐ水戯。悟州を拠点に活動する蓮芳水戯団の半月間の興行は、こうして無事にひと幕を下ろした。

「良かったァ! 今回も大成功だったネ!」
「さっき楽士隊に教えてもらったんだけど、今日は立ち見客もいたんですって!」
耳に触れた楽しげな会話に、玲月はそっと目を細めた。控え室の木造扉を押し開けると、先に戻っていた団員達が、髪を拭い、化粧を落としながら盛り上がっている。その明るい空気に、胸が躍った。
蓮芳水戯団は、映え抜きの十数名が所属するだけの小さな集団ながらも、興行を始めればいつも満員御礼という人気の水戯団だ。そこに入団して一年。玲月は、後列の端役の一人だったが、立ち見でも観たいというお客さんがいてくれた事は、心から嬉しく思える。
「やあやあ皆、お疲れッ!」
「皆、お客様から差し入れをいただいたわよ」
 そんな折、控え室の扉が、玲月が入ってきた時より何倍も派手な音を立てて開かれた。
 玲月は、わっと驚いて軽く肩を跳ね上げた。同時に、室内がさらなる活気に包まれる。
「あっ、玉法姐さん、麗麗姐さん、お帰りなさい!」
「わあ、今日もすごい贈り物っ」
 部屋に入ってきたのは、この蓮芳水戯団の花形を務める二人の女性達だった。女役花形を務める華奢でやわらかな雰囲気の麗麗と、団で唯一の男役をこなす長身の凛々しい玉法だ。二人は着替える間もなく客の見送りと挨拶をしていたのだろう。その両腕には、こぼれ落ちそうなほどの贈り物の数々が抱えられていた。
 抱えた花束や贈り物をどさどさと中央の卓に乗せ、玉法がこざっぱりした短髪をかき上げた。乾ききらない髪からきらりと滴が飛び、中性的に整った顔立ちに華を添える。
「さて諸君、聞いて喜びたまえ。差し入れをいただけるだけでもありがたいものだが、今日の差し入れの中には、何と凛凛屋の饅頭がある!」
 玉法の言葉に、団員達がわあっと大きな歓声を上げた。中には跳んで喜ぶ者もいる。
が、髪を拭き始めていた玲月は、その「まんとう」というものに耳覚えがなく、思わず手を止めて首をかしげた。
「ああ、玲月、饅頭は甘いお菓子だよ。そして凛凛屋は大陸一有名な饅頭の老舗の事さ!」
 そんな玲月の様子に気付いた玉法が、満面の笑みで言葉をくれた。
「ほら、受け取りなっ」
「あっ……」
 玉法は、箱から取り上げた一つの小さな包みを、玲月に向けてぽんと放り投げた。高く弧を描いて飛んでくるそれを、小柄な玲月は慌てて背伸びして受け取る。はっしと両手で包むと、もよんとやわらかな感触が弾んで驚いた。込めかけた手の力を、慌てて抜く。
初めての感触に目を丸くした玲月に、玉法は「おいしいぞ」と片目を瞑るオマケをくれた。
 途端に、キャアッと方々から黄色い声が上がった。
玉法は、何というか男前な仕草が様になる女性で、団の内外、男女問わず人気の高い花形だ。誰にでも気さくに接してくれるいい人で、玲月自身も勿論の事、玲月はこれまでに玉法を嫌う人なんて、一度も見た事がなかった。
「姐さんズルイ、あたしにも欲しいっ!」
 拗ねた声を上げる団員達に、玉法はいつも通りの明るい笑顔を返した。
「ははっ、安心しな。饅頭は一人一つ以上あるから、焦らなくてもなくならないよ」
そうじゃないのに、と皆が頬を膨らませる。
そんな中、お礼を言い損ねた玲月は、饅頭を胸に抱きながらどうしようかと玉法を見つめていた。すると玉法はさり気なく手を挙げて「言葉なんていらない」と言うように微笑む。他の皆の恨めしそうな視線も爽やかになだめ終えて、玉法は椅子に腰かけた。
「いやあ、しかしちょっと疲れたね。千秋楽、気合を入れすぎたかな?」
話に区切りをつけた玉法に、それまで黙っていた麗麗が「お疲れ様」と手拭いを渡した。
「ああ、ありがとう麗麗」
「お水も飲むかしら?」
 華奢で大人っぽい麗麗は、微笑むと表情が艶めいてとても綺麗だ。そんな麗麗が差し出した器を受け取った玉法は、「気が利くね」と、麗麗とは別方向に艶めいた笑みを浮かべて、かたわらに立つ麗麗を見上げた。
「ちょうど欲しかったんだ」
「やっぱりね。そうだと思った」
「よく解ってるね。さすが、ぼくの麗麗」
 微笑み合う二人に、部屋の方々から今度は「やん」という甘い吐息がこぼされた。
「姐さん達って、本当に理想の二人よね」
「まったくよね……あたし、見てるだけで幸せだもの」
解るっ、花園よね、禁断よね、と囁き合いながら、団員達は頬を紅潮させていた。
玲月には、その『花園』の意味は理解できなかったのだが、何より「疲れた」と口にした玉法が心安らいだ様子だったので、とにかくその事に安堵した。
玲月は一先ず饅頭を化粧台の上に置いて、着替えを再開させた。
けれど、上衣の帯をきゅっと締め終えたところで、手を止める。
おやと首をかしげて、軽く辺りを見回した。……下衣が、見当たらない。
——開演前の着替えで衣装箱の中に入れてしまったのだろうか。玲月は、玉法にもらった饅頭をそっと懐に仕舞い、下衣を探しに行こうと上衣だけの姿で控え室を出ようとした。
「ちょ、ちょっと待った玲月……っ!」
 ところが部屋の扉を開ける直前、玉法にがしりと腕を掴まれてしまった。玉法の座っていた椅子がガタンッと音を立て、その場にいた団員達の視線が、一気に玲月に集中する。
「れ、玲月、そんな格好でどこに行くのかな?」
「あ……下衣がなかったので、小道具室に探しに行こうと思います」
 淡々と言葉を返すと、何故か室内の空気がざわりとした。
「ああ、えーっと……それじゃあぼくが探してくるから、玲月はここにいてくれるかな」
「いいえ、玉法姐さんが探す必要はないです」
「や、そうはいくまいよ。他の皆は着替え中だし、ぼくならまだ衣装を脱いでいないから」
「わたしは、もうすぐ着替え終わります」
「あ、うん。でもまだ着替え終えていないというか、その格好はちょっと……」
 玉法が「ハハ」と困惑したような笑みを漏らした。
何だか噛み合わない会話に、玲月はことんと首をかしげた。
そこへ、見かねたらしい麗麗が歩み出て、「あのね、玲月」と優しく諭す。
「女の子が人前で足を出すのは、はしたない事なのよ。特に、男性の目にさらすなんてとんでもない事だわ。控え室の外にはまだ、楽士隊や大道具の方がいらっしゃるでしょうから」
「あ……」
「ん。そういうわけだから少しだけ待っていてくれないか、玲月。すぐに探してくるから」
「あたしも行くわ、玉法。二人で探したほうが早いもの」
 必ず待っていて、と二人に強く言われる。玲月は戸惑いながら「はい」と頷いた。
 玉法と麗麗は二人揃ってぽんと玲月の肩を軽く叩き、足早に控え室を出て行った。
 ——そうか、足を出すっていけない事なのか。
 玲月は自分の姿を見下ろしながら、膝上丈の上衣の裾を、くいっと少し引き下ろした。
「……ちょっと、玲月」
 そこで、部屋の奥にいた一人の少女が、怒ったような声で玲月を呼んだ。
振り返ると、薄い茶髪に、同色のつり上がり気味の瞳を持つ十六歳の胡燕が、声音に違わない怒りを湛えた目付きで玲月を睨み付けていた。
「常識的にモノを考えなさいよ、そんなはしたない格好で外に出られるわけないでしょ!」
 胡燕は腰に手を当てて、ぴしゃりと言った。その言葉を皮切りに、玲月に奇異なものを見るような視線を向けていた他の団員達も、次々と声を上げる。
「そうよね……姐さん達の手をわずらわせるのは、やりすぎよ」
「着替える前に自分で探しに行けば良かったんじゃないの?」
「本当、考えて行動しなよ。そういうのと記憶がないのとは関係ないでしょう?」
「あ……」
黙って皆の言葉を受け止めていた玲月は、最後のひと言にだけ、思わずぴくんと肩を揺らしてまった。さらりと投げられた言葉に眉を下げ、目を伏せる。
——記憶。
そう、確かに玲月にはそれがない。玲月は、いわゆる『記憶喪失者』なのだった。
一年前、町外れの川のほとりで倒れていたところを玉法と麗麗に救われた。そして蓮芳水戯団の宿舎で目を覚ました時には、何も覚えていなかったのだ。自分がどこの生まれで何歳で、何故、倒れていたのか。かろうじて覚えていたのは、玲月という名前と、水面に映る月という名前の由来、そして、水が好きだという感覚、それだけ。
……本当に『それだけ』だった。
玲月は皆の言う『常識』さえ、歯抜けに忘れてしまっていた。皆が喜ぶ「饅頭」も、「足を人前で出してはいけない」という事も、玲月の記憶にはなかったのだ。
玲月は「またやってしまった」と、きゅっと唇を噛み締めた。
「ちょっと、聞いてるの? 何とか言いなさいよ!」
 胡燕が、再び厳しい声を投げかけた。
 玲月は静かに視線を上げて、胡燕を上目に見返した。すると途端に、
「な……っ、何でアタシがアンタに睨まれなくちゃならないのよ!」
胡燕はびくっと肩を揺らして、苦い顔をした。
玲月は、ああ、とわずかに眉を寄せた。そのまま扉の向かいにある化粧台の鏡に目を向けると、そこに映る玲月の顔には、相変わらず仮面をかぶったような——いや、仮面のほうが感情豊かと思えるくらいの無表情が貼り付いている。視線を回すと、そんな玲月の表情に、他の団員達も次々と怯えたように身をすくめ、睨まないで、と玲月に訴えた。
——記憶と常識だけに飽き足らず、玲月は表情までが欠落している。本当はそうしたくないのに、意図せず皆を怖がらせてしまうのも、これで何度目だろうか。
玲月はそっと眉を下げて……きっとはたから見れば変わらず人を睨んだような顔なのだろうけれど、それでもそっと眉を下げて、胸中に湧くもどかしさと切なさを持て余した。
「お待たせ、玲月! やっぱり衣装箱の中に紛れ込んでいたようだよ」
「すぐに見つかって良かったわ」
と、背後の扉がカタンッと開かれて、玉法と麗麗が戻って来た。
打って変わった明るい声に振り返ると、折り畳まれた下衣をぽんと手渡された。
「ほら、玲月。良かったね、小道具や大道具と一緒に片付けてしまわれなくて」
「ずっとその格好で待っていたの? 風邪引かないように気をつけてね?」
優しい二人に肩の力が抜けて「はい」と返事をする。そうして、迷惑をかけた事に謝ろうとすると、それより早く「謝罪は?」「お礼も言わないの」と玲月を非難する声が聞こえた。
 玲月ははっとして、慌てて玉法と麗麗を見上げた。焦ってしまい、ぱくぱくと口を開閉させると、玉法は微笑んで「礼なんていらないさ」と軽く手を振る。
「それより話は変わるけど、玲月」
 まるで部屋の空気をほぐすように、玉法は一層明るい声で話題を切り替えた。
 麗麗に促されて下衣を履いた玲月は、頭一つ分背の高い玉法を見上げた。
「今、麗麗と話していたんだけど。お前はまた一段と遊泳の腕を上げたね? 今日の泳ぎ、良かったよ。なあ麗麗?」
「ええ。本当、一年前に入団したばかりとは思えないわ」
 麗麗も玉法に同意して、にこりと微笑んだ。
「玲月の泳ぎは、書いて字のごとく水と戯れているように優雅なのよね、ごく自然で」
「ぼくは一度、玲月と一緒に泳いでみたくなった。花形同士で、ね」
 玉法の言葉に、控え室の空気がそれまでとは別の意味でざわりとした。
 玲月も目を見開いた。嬉しいと思うより驚きが先行して、ぽかんと口を開けてしまう。
「玉法姐さん!」
 すかさず胡燕が声を張り上げて、玉法に訴えるような視線を投げかけた。
「姐さん、前にアタシと泳ぎたいって言ってくれたじゃないっ」
「おや胡燕、よく覚えていてくれたね。勿論、ぼくは胡燕とも泳いでみたい」
「あら玉法ったら、浮気性なんだから」
 麗麗が笑って流し目をした。玉法はくすりと肩をすくめて、そんな麗麗の耳元に顔を寄せながら「勿論、一番は麗麗だけどね」と囁く。
あっという間に、二人のかもし出す空気に部屋全体が呑み込まれ、誰もが「もうっ、姐さん達ったら」と照れ笑いを浮かべた。人形面の玲月でさえ、目の前で繰り広げられる妖艶なやり取りに何だか気恥ずかしさを覚え、思わずそわそわと両手の指を絡ませてしまう。
「でも皆、勘違いしちゃ駄目よ。玉法はあたしの泳ぎが好きなだけ。だから、胡燕は勿論、他の皆にだっていくらでも玉法と泳ぐ機会はあるんだから」
そうして付け加えられた麗麗の言葉に、団員達がきゃあきゃあと浮ついた声を上げた。麗麗が一番の似合いだと解っていても、玉法と泳ぐのはやはり皆の憧れなのだ。
部屋の中が、すっかり明るさを取り戻していた。
「——でも、玲月にだけは縁がないわ」
けれど、それを叩き割るようなきっぱりした胡燕のひと言に、再び皆が固まった。
「人を睨むしかできないなんて、役者としてどころか人として致命的だもの」
 遠慮のない、けれど事実以外の何物でもない言葉に胸を刺されて、玲月は目を細めた。
 改めてちらと室内を見回すと、胡燕の隣にいた大人しい性格の夕鈴が、震えた声で「だ、だから睨まないでってば」とぼそりと呟いた。
玲月は視線を落とした。そっと自分の顔に手を触れる。
間違いなく胸中には切なさが込み上げているのに、触れた顔には相変わらずろくな変化が表れていなかった。……いつもそうだ。玲月は皆と一緒に盛り上がれず、馴染めず、それどころか何かと空気を濁してばかりいる。
「——客席の掃除に、行ってきます」
 これ以上この場にいられなくて、玲月は誰の返事も待たず逃げるように控え室を出た。
「あっ、おい、玲月」
扉を閉める直前、呼びかける玉法の声が聞こえたけれど、玲月は足を止めなかった。

関係者通路から舞台へと向かう。
とぼとぼと歩きながら、玲月は人差し指で自分の目尻に触れた。
「……睨まないで……」
これまでにも何度となく言われた言葉を反芻しながら、目を上げたり下げたりしてみる。
——本当に、笑えたらいいのに、と思う。興行の成功で、せっかく皆がワイワイしていたのになあと、しゅんとした。
裏口の扉から、玲月は人気のなくなった舞台袖に身をすべり込ませた。
 大道具の人達が片付けてくれたようで、先刻まで泳いでいた水槽は既に水が抜かれ、背面に設置されていた装飾も、さっぱり取り払われていた。仕方ないとはいえ、水があった場所からそれがなくなるのは、何だか切ない。水に触れれば、今みたいなモヤモヤした気持ちも忘れて、心が穏やかになるのに……。
しばらくじっと水槽を眺めていたけれど、軽く首を振って気持ちを振り払った。
玲月は袖の奥に置かれていた用具入れから箒を取り出し、舞台から客席側に飛び降りた。
千人近くを収用できる、特別大きいわけではないが決して小さくもない劇場。舞台の横手には楽士隊の席が設けられていて、客席は半円を描くように、背もたれのない横続きに長い椅子が、段々に高くなった列に並べられている。壁に並ぶ燭台の灯が、今は誰もいないその場所をぼんやりと包み込んでいた。
客席の最後部まで駆け上り、端から順に床を掃く。
ゴミは手で払わずに箒で掃く。掃除は高い場所からする。これらも麗麗に教えてもらった事だ。
——他にも、まだ自分の知らない事がたくさんあるのだろうなあ。
玲月は足元に転がっていた紙くずを、ちょん、と段下に蹴り落とした。
「——何でェ、もう着替えを済ませたのか、玲月」
キィ、と背後で観客出入り口の扉の開く音がした。
「ありゃ。っかしいな、楽士隊長どこ行きやがった」
背にかけられた低い男性の声に振り返ると、蓮芳水戯団で振り付けと演出も兼任している団長、忠伯の姿が見えた。舞台挨拶をしていた時とは違い、いかめしい顔には何やら気だるそうな表情が浮かべられている。
「玲月、一人か? 楽士隊長見てねェか」
 団長は扉の側に立ったまま、ぐるりと劇場内を見渡した。
一段低い場所にいた玲月は、いつもより大きく首を反らして団長を見上げながら「一人です。見ていないです」と端的に答えた。
「お前、まだ単独行動してやがるのか」
「皆はまだ、着替えています」
「女はツルむモンだろう、そろそろ馴染めや」
 玲月は困ってしまい、少しだけ眉を寄せた。人形面と言っても、これくらいはできる。
 が、そんな玲月を見た団長は、間髪容れず「鬱陶しい面ァしやがって」と舌打ちした。
「そういう表情はいらねェんだ、どうせなら役者として使える表情をしろ」
 団長は扉に肩を預けながら頭をがしがしとかき回して、嘆息した。
——しろ、と言われてできるなら、自分もそうしたいのだけど……。
玲月は箒をきゅっと握り締め、足元に視線を落とした。くすんだ朱色に塗られた木造の客席が、静かに冷たく玲月を見上げてくる。
「……団長。記憶は、どうやったら取り戻せますか」
 平坦な声で、でも玲月としては精一杯の困惑を表現して、ぽつぽつ問うた。
「知らねェよ、俺に訊くんじゃねェ」
 面倒ごとはゴメンだ、とでも言いたげに一蹴された。
 顔を上げると、団長は懐から煙管を取り出して、それに火をつけた。ぷかあ、と扉の外側に煙を吐き出して「でもお前よォ」と、玲月を半眼で見下ろす。
 何か叱られるのだろうかと、内心で身構えた。けれどそんな事はなく、団長は片方の肩をすくめるように首をかしげて、「水が好きなんだろう?」と訊いた。
 肩透かしを食らった玲月は、はたはたと目を瞬かせて「はい」と頷いた。
「好きです。触れいてると落ち着きます」
「ふうん。水戯は好きか?」
「好きです。泳いでいると心地いいです」
「……楽しいか?」
「それはよく解らないです……」
 団長は、く、と口の片方の端だけを持ち上げて、おかしそうに笑った。
「……一対一(サシ)ならはっきり言えるのにな」
 ぼそりと言って玲月を見下ろす表情は、何故かそれまでとは変わって愉快そうだった。
さしとは何だろうと首をかしげると、団長は煙管を口の端にくわえたまま、まるで虫をはらうように手を振って「いや」と言葉を続けた。
「まあ、でも良かったじゃねェか、玲月」
「え……良かった、ですか?」
「お前を拾ったのが麗麗と玉法で」
 玲月は目を丸くした。良かった——確かに、良かったと思う。こんな自分を受け入れて気にかけてくれる優しい二人の存在に、今の玲月が支えられている事は間違いない。
玲月は「はい」と素直に頷いた。肯定した「良かった」の言葉の中には、こうして自分と向き合ってくれる団長への感謝も含まれているが、それが団長に伝わったかは解らない。
団長は興味のあるようなないような声で「おう」と相槌を打って、あごを上げた。
「ま、記憶の事ァ焦る必要ねェだろう。ただ、とりあえずお前はもうちっと周りに馴染む努力をしろや。水戯は一人でやるモンじゃねェんだ」
「はい……」
 再び頷きながら、しかし玲月は、今度は少しばかり眉を下げた。
——蓮芳水戯団は俗にいう少数精鋭の集まりだが、玲月を除けば皆とても仲がいいという特徴を持つ団である。馴れ合っているのではなく、互いに駄目出しもするし叱咤もし合う、意識の高い集団なのだ。この均衡は、入団試験の合格条件に、実力だけでなく協調性が掲げてられている事や、麗麗と玉法という誰もが認める『まとめ役』の存在によって保たれているのだと思う。
けれど、迷惑をかけてばかりの玲月に「協調性」が欠けているのは言うまでもなく……。
今は「記憶喪失という事情」によって大目に見てもらっているものの、一年が経ち、基本的には放任主義である団長にまでこうして言われるようになってきた辺り、玲月の心には余計に「どうにかしないと」という気持ちが逸っていた。
「俺ァお前らを預かる立場として生活の面倒は見てやるが、それ以外は干渉しねェからな。水戯が嫌んなりゃ出て行くのも止めねェよ。そん時は一応、働き口探してやるから言えや」
 俺はお前に水戯の才があるから置いてやってるだけだよ、と言って、団長は踵を返した。
「あ……っ、待って下さい、団長」
 玲月は慌てて声を上げた。
呼び止めると、肩越しにうろんな視線を向けられる。それでも玲月は真っ直ぐに団長を見上げて、答えた。
「あの、わたしは、ここにいたいです」
「……そうか」
「努力します。今は、掃除をします」
 言うと、団長はニヤリと口の端を上げて「おう」と答えた。
「しっかりやれや。お前は作業が丁寧だからな、助かるよ」
団長は軽く手を挙げて、そのまま劇場を出て行った。
——助かる。その短い置き土産に、玲月は驚いて目を見開いた。
胸の内がほわっとあたたかくなる。自分が役に立てる事だってあるのだと、そう教えてもらえたような気がしたのだ。
こんな自分でも、できる事があるのなら……。
玲月は箒を握り直して、うん、と小さく頷いた。
できる事があるのなら、今はそれを一つ一つやっていこう。皆と馴染むにも、記憶や表情を取り戻すにも、悩んでばかりいるよりは、きっとその方がいい。
自分を奮起させ、玲月はそれまでよりも張り切って、シャカシャカと箒を動かし始めた。

  §

 ——できる事をしよう。悩んでばかりいるよりはいい。
一週間前にそう考えた玲月は、しかし今、残念な事に再び鬱々した心情を抱きながら全力疾走していた。
 両脇に飲み食いの露店が並ぶ、人のあふれた市の通り。肉を切りさばく包丁の音、油で野菜を炒める音、人々の会話、行き交う足音——たくさんの音に包まれたそこを、片袖で鼻を押さえ、必死に駆ける。土埃の臭い、人の汗の臭い、油の臭い、さばかれた動物の血の臭い……そんな、音と同じくらいの規模で通りを包み込んでいる臭いに、目が眩みそうだった。
 晩夏興行を終えて一週間が経った今日、一休みを終えた水戯団は、次の晩秋興行に向けての準備を始めた。そんな中で玲月は、買出しの為に町に出てきていた。次の衣装時作りの参考に、裁縫屋から新作の布の端切れを求めてくるよう頼まれたのだ。
 実際は、行かせてくれるよう玲月自身が頼んだのだけど……。ともかく、一年前は買い物の仕方を知らなかった玲月も、今は一人で遣いができる。だから、台本についての話し合いを止めて「買い出しに出る」と言った麗麗の代わりに『できる事』をしようと思ったのだ。
ところが、そのご褒美に「おもしろいから帰りに寄っておいで」と、玉法と麗麗が教えてくれた市に足を踏み入れた玲月は——、
「……気持ち、悪……ッ」
 顔から血の気を引かせての、この有様だった。
楽しそうに笑う人々の様子に玲月は眉を下げる。せっかく玉法達が教えてくれた場所なのに、どうして自分はこうなのだろう……。
 そうして余所見をした時、すれ違いざまに人にぶつかってしまって、玲月はよろめいた。
「ああ、すまない」
 手放しかけた紙袋を慌てて胸に抱き締めると、ぶつかった相手が、億劫そうな声を上げながらも、体勢を崩しかけた玲月の肩を支えてくれた。——その瞬間、
ふわり、と。
妙な浮遊感が玲月の体を包み込んだ。驚き、軽く目を見開いて——、みたものの、それが何なのか意識する前に臭気が押し寄せて、う、とうめいた。
 慌てて再び鼻を押さえる。自分の肩に目をやると、包帯が巻かれた大きな手が見えた。怪我をしているのか。医者に行く途中か何かだったのだろうかと、思考が頭の隅をかすめる。
顔を上げると、二十歳手前ほどの相手の青年は、何故か硬い表情で目を瞠って、玲月を見下ろしていた。
「あ、あの、ぶつかりましたっ」
 怒られるのかと思ったが、青年が何も言わなかったので、玲月は口早に続けた。
「ご、ごめんなさい、お医者は、あっちにありますっ」
 市の通りの向こうを指し、伝えるだけ伝えて、ぺこんと頭を下げる。
「は、医者? ……あ」
「では、わたし、行きますっ」
青年がはっとした様子で何か言いかけたけれど、玲月はこれ以上立ち止まっていられなくて、くるりと踵を返した。
「あっ、待……ッ!」
 呼び止めるような声が聞こえた気もするけれど、玲月は胸の悪さをこらえながら、足を止めるどころか逆に速度を上げて、そのまま市の出口に向かった。
 行き交う人々の合間を縫い、無意識に「みず……ッ」とうめいて通りを駆ける。喉が渇いたとかではなく、水の澄んだ匂いをかぎたかった。
市を抜けると、ぱっと視界が開けた。夜に開店する酒場や食堂が並ぶ道をさらに突き進むと、質素な宿場の向こう側、道角に伸びる一本の桐の木が見えてくる。そこを右に曲がると水戯団の宿舎が見えてくるのだが、玲月は曲がらず、真っ直ぐ町外れの方角へ向かった。
次第に密集していた家屋がまばらになって、人気も失せた前方から川のせせらぎが聞こえてくる。そこは一年前、玲月が玉法達に拾われた場所だった。
 町外れの土手にたどり着いた玲月は、大して高さのないそこから川原へと跳び下り、じゃっと砂利を踏みしめて一目散に水辺に寄った。
そこでようやくふさいでいた鼻を解放する。すうはあと思い切り呼吸を繰り返す。
 ——生き返った気分、というのはこういう状態を指すのだろう。
 誰もいない川原には、澄んだ空気が充ちていた。小鳥のさえずりと対岸の木々の梢の合唱が、強張っていた肩から力を抜いてくれる。
玲月は、そっと水辺に膝をついた。川に手を浸すと、サラサラと手をくすぐっていく水が心地いい。少しの間、そのまま川の流れを眺めて、ぼんやりした。
しばらくすると、心悪さはすっかり治まっていた。
けれど代わりに、こんな調子ではまた玉法と麗麗に気を遣わせてしまうのではと、申し訳なさが湧き上がる。
自分を気遣ってくれる人達に応えたいのに、うまくいかない。
自分で自分の事が解っていれば、今ほど周りに気を遣わせたり、迷惑をかけたりなんてせずに済むのだろうか——。
——自分、か……。
「わたしは、誰……」
玲月はぱしゃんと水を乱暴に跳ね上げた。波紋に歪んだ、水鏡の自分に問いかける。
 どうして自分には記憶がないのだろう。どうして、この川原で倒れていたのだろう。
考えると、ツキン、と頭が痛んだ。
 玲月は静かに立ち上がり、川の上流に目を向けた。すると、視線の先に、ひっそりとした林があるのが見える。川は、その木々の合間から流れてきていた。
これまでも「何か思い出せないか」と、幾度かこの川原を訪れていたけれど……玲月は、その先へはまだ一度も足を伸ばした事がない。
 空を見上げる。まだ時間は早い。もともと市に寄って帰る予定だったのだから、少しなら寄り道をしても大丈夫だろうか。上流へ行けば、何か解る事もあるかもしれない。
 玲月は自分の心の言葉に、うん、と一つ頷いて、足を踏み出した。

 川伝いに歩いていくと、この林は、あまり人の立ち入る場所ではないらしい事が知れた。
 町のそれとは違って、踏み均されていない自然の道。草木が生い茂り、水の流れと風による木々の葉擦れが、町外れの川原で聞いた時よりもずっと心地良さそうにおしゃべりしている。空気も一層澄んでいて、静かに呼吸をするだけで胸の奥がすうっとした。
 ——この道の先、わずかなものでも構わないから何かあって欲しいと思う。たとえ片鱗でも、記憶を取り戻せば自分は変われるかもしれない。
半ば縋るような思いで、玲月はさらに奥へ奥へと進んだ。
 そうしてどれくらい歩いたか、振り返っても町なんてとっくに見えなくなった頃だった。
不意にぱしゃん、と何かが跳ねる音が聞こえて、玲月は足を止めた。
 何故か胸の奥を叩かれたように、とくん、と鼓動が跳ねた。
意識を集中させると、わずかに川の流れとは別の、打ち付けるような水音が耳に触れる。この先に、渓流か、小さな滝があるのかもしれない。
何故だろう。ひどく気になった。紙袋を抱える手に、知らずぎゅっと力が込もる。
玲月は再び歩を進めた。何かに突き動かされるように、次第に足が速くなっていく。垂れる小枝を避け、足元に転がる石や木の根を跳び超えて行くと、視線の先に、木々の途切れた開けた場所が見えてきた。その頃には、すっかり駆け足になっていた。
 跳んで駆けて、ようやく音の在りかにたどり着いた時、
「あ……」
 玲月は、思わず声を漏らして、ぴたりと立ち止まった。
 そこにあったのは、小さな泉だった。思った通り、小さな滝もある。巌の隙間から湧き出した水が、飛沫を上げて泉に注いでいる。そこは、あの川の始まりの場所にもなっていた。
 緑に囲まれ、水も空気も澄みきった場所——。
 けれど玲月が立ち止まったのは、何も泉を見つけたからではなかった。
 泉の中に、人がいたのだ。
 泉の際、腿の辺りまでを水に浸からせて、その青年は一人静かに佇んでいた。
凛々しく整った横顔が、じっと水面に向けられていた。風が吹くと、仕立ての良さそうな寛衣の裾が、広がった波紋と踊るように水面に揺れる。青みがかった長い黒髪は、浸ってこそいないものの、まるで水そのもののように戯えてやわらかく流れた。
こんなところに人がいたという驚きと、その驚きを凌駕するほど、青年の存在がこの場に溶け込んでいる綺麗な光景。
玲月はしばらくの間、その場に立ち尽くして目の前の光景に見惚れた。
ところが不意に、それまで静かに水面を見つめていた青年が、何かに苦しむように眉を寄せた。拳を握り締め、空を仰ぎ——、
そうして青年は何かを求めるような切実な面持ちで、深みへと一歩、足を踏み出した。
玲月は、はっとした。
「だ、駄目ですッ!」
 考えるよりも先に、玲月は声を張り上げていた。紙袋を放り置いて泉に駆け寄る。
 青年が弾かれたようにこちらを見たのと、水辺に膝をついて差し伸ばした玲月の腕が青年の服の袖を掴んだのは、ほぼ同時の事だった。青年の目が、驚いたように丸く見開かれた。
 玲月はそんな青年の服の袖を、さらに強く握り込んだ。
「そ、そっち深いですっ。三歩くらい進んだ辺りから水音が変わっています、沈みますっ」
 何故か、それが解った。玲月は精一杯、青年にそれ以上進まないでくれと訴えた。
 ——瞬間、強く引いていた腕がふ、と軽くなった。
玲月が「えっ」と声を上げた時、玲月の足元に片腕をついた青年は、まるで泳ぐ魚が水上に飛び跳ねるがごとく、軽やかに水底を蹴って地に上がった。
水飛沫が跳ねて、玲月の真隣に膝をつく。あまりの身軽さに驚いて、玲月は瞬きも忘れて青年を凝視した。
「……今まで、どこに……」
 青年が何かを呟いて、玲月に目を向けた。髪と同じ青みがかった黒の瞳が、くっと切なげに細められる。そんな表情を向けられた事に内心で戸惑うと、
「玲月……っ」
 ぐいっと青年に強く頭を引き寄せられて、玲月は膝立ちのまま抱き締められてしまった。
 青年の胸に顔を埋める形となり、声も上げられず仰天する。ぎゅうっと背に回された腕に力を込められたが、玲月は自分の手のやり場に困って、あわあわとうろたえた。けれどそこで、青年が今、自分の名前を呼んだ事に気付き、はたとする。
 ——まさか、自分を知っている人……?
 玲月はとっさに青年の服を掴み、勢い良く顔を持ち上げた。
 が、間近で青年と目が合って、思わずどきりとした。自分で顔を上げておきながら、あまりの近さに身を硬くする。
対して青年は玲月との距離なんて気にしたふうもなく、やはり切なげな表情で眉を寄せて玲月を真っ直ぐに見下ろしていた。そして、囁くように口を開く。
「玲月、そなた……」
玲月は自分の顔が急激に熱くなったのを感じた。青年の視線から逃れるように、勢い良く顔を伏せる。ぐいぐいと青年の胸を押し返して、わずかながらも青年との距離を確保した。
「玲月……?」
「ご、ごめんなさい、あの、あなたは誰ですか?」
 訊いた途端、背に回されていた青年の腕が、ぴくりとわずかに揺れた。
「……な、に?」
 呆気に取られたような声が、青年の形のいい唇から漏らされた。窺うように見上げると、信じられないものを見るように凝視され、は、とかすれた声で口元に苦い笑みを浮かべる。
背にあった手が離れ、代わりに、ぐっと肩を掴まれた。
「玲月……私が解らないのか……?」
 うめくように問われた。笑っているのに傷付いたような歪んだ青年の表情に、玲月は何故か胸が痛むのを感じた。
 眉を下げ、黙ったまま青年を見返していると、沈黙を答えと受け取ったのか、青年の手が玲月の肩から離れた。体の脇に下げられた拳が、ぎゅっと握り締められる。わずかに震えているようにも見える青年の拳に、玲月は一層困惑してしまった。
——自分を呼ぶ声が後方から聞こえてきたのは、そんな時だった。
「おーい、玲月、いるかい?」
「玲月ーっ、いたら返事してちょうだい!」
 はっとして、玲月は後ろを振り返った。
「あ……姐さん?」
 聞こえたのが玉法と麗麗の声だったような気がして、「姐さんっ」と声を張る。
 すぐにガサリと草を踏み分ける音がして、川伝いに麗麗と玉法が姿を現した。
「ああ玲月、良かった! ここにいたのね」
「探したよ、見つかって良かった」
「姐さん達、どうしてここに……」
 驚いて目を瞬かせると、麗麗が安心したようにほっと目元をほころばせた。
「帰りが遅いから、市へ迎えに行こうと思ったのよ」
「でも、そうしたら、玲月がこっちに向かったのを見たっていう爺がいてね」
 玉法が、玲月の落とした紙袋を見つけて、それをひょいと拾い上げた。
「買出しは終えてくれたんだね。でも駄目じゃないか、こんな人気のない場所、危ないよ」
「そうよ、玲月。一人で何をしていたの?」
 二人の言葉に、玲月は「一人?」と目を瞬かせた。
 はたとして視線を戻すと、自分の目の前にいたはずの青年の姿が、どこにもなかった。
「え……」
 きょときょとと辺りを見回す。先刻まで確かにいたのに、青年の姿は影も形もない。
玲月は木々の間に目をやり、思わず空を見上げ、泉の中まで覗き込んだ。けれど人の姿など、やはりどこにも見当たらなかった。
唖然として、腰を下ろす。白昼夢でも見ていたかのような錯覚に襲われた。
「玲月? 何かあったのか?」
 歩み寄って来た玉法に、横から顔を覗き込まれた。
「あ」と声を上げた玲月は、心配そう眉を寄せる玉法に「川伝いに来て……」と、今の出来事を話そうとした。けれど言いかけたところで、どう伝えればいいのか迷い、口をつぐむ。
「こっちから自分が流れてきたかもしれないと思ったの?」
 言葉を出しあぐねていると、玉法の反対隣にしゃがんだ麗麗が、玲月の肩に手を置いた。
玲月が頷くと、玉法は辺りを見回し、少し寂しげな声で「何もないところだね」と呟く。
「でも玲月、焦る事はないよ」
「そうね。ゆっくり思い出せばいいんだから」
 気遣ってくれる二人に、玲月は青年の話を出し損ねて目を伏せた。いや、何よりこんなところまで足を運ばせてしまった事も申し訳なく、麗麗に促されて立ち上がってから、真っ直ぐ二人に向きなおって「ごめんなさい」と謝罪する。
「姐さん、紙袋……」
「いいよ、ぼくが持つ」
拾ってもらった紙袋を受け取ろうとすると、玉法は優しく笑って首を振った。気落ちして眉を下げている玲月の頭を、慰めるようによしよしと撫でてくれる。
「力仕事は『男』の役目だ」
 ま、言うほど重くないんだけどねと、玉法は茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。
「さ、帰りましょう、玲月」
 麗麗もやわらかく笑って、再び玲月の肩に手を置いて促してくれた。
 玲月はこくんと頷いた。玉法と麗麗に手を引かれ、その温もりに心がほわっとするのを感じながら歩き出す。本当に二人は優しい。やっぱり、できるなら返したい、笑顔を……。
玲月は歩きながら、一度だけ泉を振り返った。
射し込む昼下がりの陽光に水面がキラキラ輝いているだけで、人の気配はない。
けれど青年がいた事は夢じゃない。抱き締められた腕の感触は、幻なんかではなかった。
——また、会えるだろうか。
自分の事を知っているようだった青年。もし本当にそうなら、彼は今の玲月にとって、自分の記憶を取り戻す為の唯一の手がかりだ。次に会えたら、もっときちんと話がしたい。
 玲月は必ず再びここへ来る事を胸に誓い、その場を後にした。

サアサアと、滝の水が泉を打つ涼やかな音が響く。それに混じって、ぴしゃん、と魚の跳ねるような小さな音が聞こえた。
「——星寿様。また、こちらにいらっしゃったのですか」
 背後から呼ばれ、星寿は泉から伸びる小川に目を向けたまま「秀貴か」と答えた。名残を惜しむように間を置いて振り返ると、風が吹いて、自分の青みがかった黒髪が目にかかる。
 それをかき上げると、薄茶の髪と濃い琥珀の瞳を持つ痩躯の青年が、泉の中ほどから、際に立つ星寿の側へと寄って来る姿が目に映った。
「いつも申し上げておりますが、俺にも告げず出歩かれるのはお控えいただけませんか」
秀貴は困ったように、そして少しばかり拗ねたようにつり上がり気味の目を細めた。
星寿はフッと口元をゆるめた。かたわらに立った秀貴の肩に、ぽんと優しく手を置く。
「……すまない、秀貴」
「え? ああ、いえ、次からお気をつけいただければ」
言いかけた秀貴に、星寿はもう一度「すまない」と謝罪すると、
「——私は今、猛烈に腹が立っているのだ」
そのまま秀貴の肩を掴んだ腕に、ギリリと加減せず力を込めた。
「痛ッ、いだだだだ!!」
油断しきっていた秀貴は、情けない絶叫を上げて悶絶した。
「だ……ッ、何をなさるんですか!」
 秀貴は慌てて星寿の腕を払い、涙目になって睨みを投げ寄越した。目が細く眼光も鋭い秀貴は、睨むと相当な迫力が出る。ただし、見慣れすぎた星寿には大した効果もなかったが。
「妙に殊勝な謝罪を下さったかと思えば、何の仕打ちです!?」
「いや、仕打ちじゃない。八つ当たりだ」
 しれっと笑顔で返すと、秀貴が肩をさすりながら盛大に口元を引きつらせた。
「いい笑顔で何をおっしゃいますか! 他人に八つ当たりなどしていいお立場ですか!?」
「だから先に謝っただろう」
「そっちの謝罪だったんですか!?」
「まあ喜んでおくれ。こういう事は基本的に、そなた以外にはした事がない。見られてまずいような人前でした事もない」
「ああ、ええまあ、星寿様の公私の使い分けは大変ご立派なものでよろしゅうございますけど……ってよろしくないですよ、俺にもしないで下さいよ! 誰が喜びますか!」
 真面目に頷いたかと思えば、秀貴はすぐに顔を赤くして体脇の虚空をびしっとはたいた。
くるくる表情を変えながら「お戯れも大概にして下さい!」と憤る姿に、見ていて飽きないなと星寿は口の端を上げる。——が、それでもすぐに自然と溜息が漏れ出てしまい、星寿の笑みは翳ったものに変わってしまった。
「それで、星寿様。腹が立ったって、何かあったのですか?」
 改めてかたわらに立った秀貴が、困ったように吐息して問うた。
 星寿は「ああ」と相槌を返すと、袖の中で腕を組んで、改めて視線を川の下流に向けた。
「それがな……玲月がいた」
そうして、ぽつりと呟くと、隣で秀貴が「え?」と息を呑む気配が伝わった。
「まさか、ここにですか?」
「ああ、つい先刻までいた」
「そんな……では、今まで一体」
「私にも解らない。……ただ、記憶を失っているようだった」
 星寿は苦い笑みを浮かべた。袖の中から片の手の平を出し、見つめると、先刻思わず抱き締めてしまった華奢な温もりを思い出す。
「私に向かって『あなたは誰ですか』とは、よく言ってくれたものだと思うよ」
「……星寿様」
低く険のある声で呼ばれた。顔を上げると、秀貴が厳しい面持ちで川の下流を睨み付けていた。怒りを露にしたその表情に、おやと思う。
「秀貴、確かに私は腹が立つと言ったが、何もそなたがそんな顔をする事はない」
「いいえ、星寿様。……いいえ」
 秀貴はかぶりを振ると、険しい面持ちのまま、熱を抑えるように手の甲を額に当てた。
「監視を、付けるべきではありませんか。もし彼女が——」
「必要ない」
 言葉を遮って、星寿は目を細めた。薄く笑むと、秀貴が気圧されたように口をつぐむ。
「しばらくは私が様子を見よう」